Neurology 興味を持った「脳神経内科」論文

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ロンドン・ロイヤル・ホスピタル -ジェームス・パーキンソンの学んだ病院-

2016年09月23日 | 医学と医療
外国の病院や大学を見学することは私の趣味である.今回,第5回欧州頭痛・片頭痛学会国際会議@グラスゴーに参加し,その帰途,ロンドン・ロイヤル・ホスピタルに立ち寄った.この病院を訪問した理由は2つある.ひとつは神経内科の領域で,もっとも有名な医師のひとりであるジェームス・パーキンソン(James Parkinson, 1755―1824)が学んだ病院を見たいと思ったため,ふたつめは,アカデミー賞最多8部門にノミネートされた映画「エレファントマン」のモデルが最後の数年を過ごした病院であり,その資料を見ることができるためだ.

地下鉄ホワイトチャペル駅(ディストリクト/ハマースミス&シティ線)を降りると,すぐ右手に古い建物(写真A)と新しい高層のビルが見えてくる.病院までの道は,ロンドンの街なかと明らかに異なるエスニックな雰囲気で,院内も有色人種が多く,ムスリムと分かるスカーフをつけた女性も多かった.患者層が豊かな人ばかりではないという印象を受けたが,そもそもこの病院は1740年にロンドン東部初の貧困層の救済を目的とした無料の病院として作られたことを考えると当然かも知れない.パーキンソンは1789年に始まったフランス革命の影響をうけて,政治運動に活躍したと言われているが,この病院で政治の改革を必要とするような貧困と人間の苦悩を目撃したことがその活動に影響したのだろうと想像することができる.

ジェームス・パーキンソンについて,分かっていることを書きたい.彼は薬剤師兼外科医の息子として,1755年4月11日に生まれた(4月11日は,世界パーキンソン病の日となった).彼の医学の師は,「ドリトル先生」や「ジキル博士とハイド氏」のモデルとなった有名な外科医ジョン・ハンター(John Hunter, 1728-1793)である.「実験医学の父」として知られる優秀な外科医で,多数の動物実験や標本の作成も行った一方,解剖教室のためには法を犯して死体を調達するという裏の顔をもつのだが,ハンターについて書かれた「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)」は強烈に面白いのでご一読をお勧めする.ちなみに種痘を開発したエドワード・ジェンナーの師もジョン・ハンターである.

パーキンソンは29歳のときに外科医の資格を得て,父の跡を継ぎ,ロンドンの開業医になり,以後,全生涯をロンドンで暮らす.外科医としても優秀で,やはり医師となる息子とともに虫垂炎で死んだ子供を解剖し,虫垂炎から腹膜炎が起こることをはじめて明らかにしたのも彼である.つまり意外なことに,彼は神経内科の専門家ではなかったのだが,外科医でありながら,精神・神経疾患にも関心を持っていた.

驚くべきことに,彼は医学や政治のみならず,地質学や化石学の研究にも一流で,彼の名前のつく化石の学名(Parkinsonia parkinsoniなど;写真B)も複数残されている.また恐竜の名前を最初に命名したのもパーキンソンだと言われており,メガロサウルス(大きなトカゲの意味)という名前をつけている.イグアノドンの化石を最初に発見したギデオン・マンテルがパーキンソンの親友で,彼がいちばん最初にイグアノドンの化石を見せたのもパーキンソンだったらしい.

そして彼がパーキンソン病について報告したのは62歳,このとき1817年,日本では解体新書の杉田玄白が亡くなった年である.6名の患者に関して「振戦麻痺に関するエッセイ(An Essay on the Shaking Palsy)」という66ページの小冊子を記載した.「振戦麻痺(Shaking palsy)」という用語はパーキンソンが命名したわけではなく,それ以前から使われていたようだ.この小冊子は5章からなり,1章が定義・病歴,6例の症例提示,2章が特有の症状(振戦と加速歩行),古来からの観察,3章が鑑別診断,4章が原因,5章が治療を記載している.「ジェームズ・パーキンソンの人と業績(豊倉康夫編著,診断と治療社)」のなかに原文と日本語訳があるが,これを読むと彼はこの疾患が脊髄由来であると考察している.この報告は当時は正当に評価されなかった.しかしその論文の序文の最後に次のような一文があり,きわめて印象的である.

「こうしてもし必要な知見が得られさえするならば,単なる推論的な示唆にすぎないこの小論文の時期尚早かも知れない発表に対して,いかなる酷評を受けても甘んじてこれに堪えるであろう.それどころか,この厄介で苦悩に満ちた病気をいやすもっとも適切な方法を指摘できるであろう諸賢の注意を喚起したとすれば,私は充分に報われるのである

パーキンソンの死後の1868年,フランスのシャルコーが「神経病に関する連続講義」で,特徴的な症状として筋強剛を追加し,また「麻痺」ではなく運動の緩慢,開始の遅れであるから「振戦麻痺」という名はふさわしくないとして「パーキンソン病」と呼ぶことを提唱した.彼の業績は死後60年以上経過して初めて評価された.

さて最後にパーキンソンの写真や肖像画について記載したい.Googleで画像検索をすると2つ顔が容易に検索される(写真C, D).しかし,両者とも名前の似た別人であることが2つの小論文により報告されている(Pract Neurol 2011, Pract Neurol 2015).肖像写真の技術が開発されたのはパーキンソンの死後15年経ってからであることと,衣服が19世紀半ばのもので時期的にも合わないのだそうだ.しかし後者の論文の中で,‘The Villager’s Friend and Physician’というパーキンソンが書いたという小冊子が紹介されていて,根拠はやや乏しいものの,村人に講義をする中央に立つ人こそが,パーキンソンだと指摘している(写真E).残念ながらロンドン・ロイヤル・ホスピタルの博物館で尋ねても,パーキンソンについての資料のありかは分からず,肖像画もなかった.しかし開設当時の病院の資料を見て,こんな病院でパーキンソンは勉強をしたのか,彼の姿を空想しつつ愉しい時間を過ごした.

ジェームズ・パーキンソンの人と業績(豊倉康夫編著,診断と治療社)
解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)
医学界新聞第2338号1999年5月17日
神経学の歴史


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多系統萎縮症における喘鳴,治療介入と予後 ―対症療法のエビデンスを確立することの大切さ―

2016年09月07日 | 脊髄小脳変性症
【論文の内容】
多系統萎縮症における睡眠中の喘鳴と,その治療としての持続的陽圧換気療法(CPAP)と気管切開術が予後に与える影響について検討した研究が,Neurology誌に報告された.イタリアからの報告で,1991年から2014年において,MSAと最終臨床診断された症例に対する後方視的研究である.喘鳴は終夜ポリソムノグラフィーにて確認し,発症から3年以内に出現した場合を早期発症喘鳴と定義した.カプランマイヤー曲線にて生存期間を評価し,その予測因子を,単変量ないし多変量解析にて検討した.

結果であるが,対象は136名,研究を行った際に113名が死亡していた.42名(31%)で喘鳴を認め,うち22名(16%)が早期発症であった.31名で治療介入が行われ,12名が気管切開術,19名がCPAPであった.生命予後に関しては,喘鳴の有無で差はなかった.しかし喘鳴を早期から認めた症例は,3年以降に出現した症例と比べ,予後不良であった(図左).治療介入群は,行わなかった群と比較して予後は良好であったものの,CPAPと気管切開術では(気管切開術で若干良い傾向はあるものの)有意差はなかった(図右).

以上より,発症から3年以内の喘鳴の出現は,生存期間の短縮を予見する因子であり,喘鳴をコントロールする治療は生存期間を延長することが示唆された.

【論文の解釈】
治療介入を行った症例数が31名と少ないこと,かつ後方視的研究である点は,論文の限界と言える.本研究は,気管切開術を行っても,CPAPと比較して,有意な生存期間の延長が得られないことを示しているが,これは私たちが報告したように,気管切開術を行っても突然死する症例が存在すること(J Neurol 2008),気管切開術だけでは中枢性呼吸障害は防止できず,却って中枢性呼吸障害が顕著となる症例が存在すること(Neurology 2008)が背景にあるものと思われる.よって生存期間の延長を目指す場合は人工呼吸器の装着を検討すべきという私たちの主張と矛盾しないように思われる(Parkinsonism Relat Disord 2016, review).ただしその場合,長期療養に伴う認知症発症リスクについての検討が必要である.

【本研究のもうひとつの意義】
本研究は,症例数の少ない後方視的研究であり,かつ私たちの経験からすると当然の結果のように思える.それでもなぜNeurology誌が採択したかといえば,臨床医が感じていたことを,エビデンスの形で示したためと思われる.つまり,対症療法も,エキスパート・オピニオンではなく,エビデンスを示していくことが重要であり,それができれば高く評価される意義深い研究になることを示していると言えるのではないか.最新号のNat Rev Neurol誌もご覧頂きたいが,筋萎縮性側索硬化症における対症療法の総説が掲載され,各対症療法のエビデンス,推奨度の現状を示している.ここでも対症療法に対するエビデンス構築の大切さが強調されている.

一般的に,対症療法の研究は,病態修飾療法を目指す基礎研究と比較して,ランクが下の研究のように思われがちである.しかしpatient-centered medicineの考え方に立てば,進行スピードの抑制を目指す病態修飾療法は,評価スケールによる評価で統計学的有意差があるとはいえ,対照と比較して実感できる効果が得られないことが神経変性疾患ではありうるだろう.これに対し,変性疾患に合併しうる痛みやうつ,疲労,不眠,終末期の呼吸困難,死への不安などの緩和を目指した対症療法は,多くの患者さんがその有り難みを実感するものである.後者は,臨床医しか行えない研究である.臨床医はエビデンスをいかに築きあげていくかというノウハウを学び,対症療法の質を上げていく必要がある.

Neurology 2016; 87, 1-9

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神経内科医の音叉の使い方(初級,中級,上級編)白と黒の残像のミステリー

2016年09月03日 | 医学と医療
神経内科医は音叉を聴力の検査のほかに,感覚(振動覚)の検査のために使用する.最近,とても奥が深いと思う論文があったので,初級,中級,上級編に分けてご紹介したい.

【初級編】
診察では,音叉を持ち,反対側の手の母指球に当ててはじくと振動する(図A).柄の部分の黒いプラスチック基部を,足踝部の内側や外側などに当て,振動が感じられなくなったら患者さんから教えてもらう.「ベッドサイドの神経の診かた(南山堂)」やOSCEの講義では,患者さんが振動を感じなくなった時の振動を,患者さんの反対側の足踝部や,検者自身で確認して評価するように書かれている.もしくは振動を感じなくなるまでの時間を測定する.必ず左右で行い,比較をする.

【中級編】
Rydel Seiffer tuning fork(図A)で,知覚可能な振動の強さを測定する.この名称は,1903年,Rydel AとSeiffer FWが,音叉を振動覚の検査に用いることを論文報告したことに由来する.音叉に白黒の三角形と,0から8の目盛りが書かれた調節子を取り付け,半定量的に振動覚を測定するのだ.振動数の少ない音叉(128 Hz;C128という)に調節子を取り付け,ネジをしっかり締めると,64 Hzの音叉になる.音叉をはじくと振動し,左右の調節子に,残像による2 つの三角形が出現する(図B).振動が減衰してくると2つの三角形は互いに接近して交差する.このとき交差した点の目盛りが振動の強さになる.正常範囲は,若年者では6~8,高齢者では4~8程度と言われている.振動覚低下があると,この目盛りが小さくなる.やはり両側で行い,比較することが大切である.末梢神経障害の重症度を,この方法で検討した複数の論文がある.

【上級編】
Rydel Seiffer tuning fork製品説明書には,白でも黒でも,読み取りやすい三角形を使い,明るさの加減で,より読みやすい方の目盛りを読みとってよいと書かれている.ところが,今回,Neurology誌に掲載されたレターにはとても驚いた.この白と黒の三角形を見比べると,交差する点の位置(高さ)にズレがあるというのだ(ビデオ).そのズレは0から8の目盛りの25%,つまり目盛りでは2も異なっている(いままで全然気が付かなかった).そして試しに,白の三角形を黒に塗ってみるとこのズレは消失するそうだ.つまり三角形の色によって残像が変わるというわけだ.なぜ差が生じるかは,脳が残像を処理する仕組みに原因があるのだろうと著者らは推測しているが,詳細は不明である.最後に著者らは,今後,音叉を振動覚評価に用いるときには,評価者間の差をなくすため,白い三角形も黒に塗るか,もしくは白黒のいずれを用いるかなど取り決めをするべきと述べている.
面白いことに,Rydel AとSeiffer FWの原著を見なおすと,2つの三角形はいずれも黒であった!(図C).いつ,なぜ,原著の黒の一方が白に変わったのか,理由は分からないとのことである.

Neurology 87; 738-740, 2016
ビデオのリンク


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