昨日まで新潟市美術館で開催されていた「水俣・新潟展」が終了した.「水俣フォーラム(NPO法人)」が全国各地で開催してきた水俣病に関する展示会である.水俣病・新潟水俣病の発生とその原因と背景,そしてその後の経過を,様々な資料とボランティアの方の説明で分かりやすく教えてくれるとても良い会であったと思う.
患者さんを診察する椿忠雄教授(新潟大学初代教授)のお写真は初めて拝見したのでとても印象に残ったが,一番,興味を持ったのは元新潟大医療技術短大(現新潟大医学部保健学科)の故白川健一教授の業績を紹介するコーナーだった.白川教授は新潟水俣病の臨床をライフワークとして取り組まれ,1984年,49歳の若さでお亡くなりになられた.その白川教授が秋田で行った講演に使用したスライドが,今年5月,新潟大医学部保健学科の先生により,偶然発見された.そのスライドの解説や,白川教授のひととなりや白川教授が取り組んだ水俣病の臨床についての説明が,ひとつのコーナーで展示されていた.
白川教授は,新潟水俣病が公式に確認された後,新潟大学神経内科で臨床研究を開始し,1969年,メチル水銀を含む川魚の摂取を中断してからも症状が出現する「遅発性水俣病」という概念を提唱した(これは水俣病が幅広くとらえられるきっかけのひとつとなった).1970年代後半,認定基準は厳しくなり,認定棄却される患者が増す中,患者の症状を客観的にとらえることが重要と考え,そのための検査装置の開発を行い,認定されない患者が増えないよう尽力した(この辺りのことは「新潟水俣病(齋藤恒著.毎日新聞社刊)」に詳しいが,協調運動障害を客観的に評価するジアドコメーターなどを試作している).私は残念ながら白川教授にお目にかかったことはないが,この本で知り,とても立派な先生だと思っていたが,今回,生前に先生が遺した言葉を拝見し,あらためて感銘を受けた.
「父は医師 癌を告げても尽くさせよ 少なき日々を 患者のために」
闘病中に病床で詠まれた和歌だそうだ.
もう一つは,新潟が誇る歌人,美術史家,書家である秋艸道人・會津八一先生(1881~1956)の,有名な「学規」を,医師としての立場からとらえた文章である.會津八一先生は,郷里・新潟から上京した受験生を預かった際,「学規」と題した規則を部屋の壁に貼ったそうだ.
ふかくこの生を愛すべし
かへりみて己を知るべし
学芸を以て性を養うべし
日々新面目あるべし
新面目(しんめんぼく)とは,今までにみられなかった新しい姿・ありさまのことである.この「学規」を白川教授は以下のように解釈している.
ふかくこの生を愛すべし ― 生を愛するということは他の人の生も考える,愛するということが大事です.
かへりみて己を知るべし ― 医療の各段階で不確実な要素が多く積み重なっており,そこで実際の医療が行われていると思いますが,そうであれば「自分をかえりみる」という事が非常に大事ではないかと思います.
学芸を以て性を養うべし ― 患者さんを観察するとき,目に見えるもののその奥にあるものを見るためには,学問や知識が必要であると思います.
日々新面目あるべし ― 患者さんは同じ病名でも個人差がありますし,毎日毎日経過はどんどん変わっていくわけです.マンネリ化した場合には,新しい気持ちで毎日をみるということが非常に大事だと思います.
いずれも水俣病の臨床経験なかから生まれ育まれた言葉と思われる.自分自身はどうであろうかととても考えさせられた.
新潟水俣病
秋艸道人 会津八一の生涯
患者さんを診察する椿忠雄教授(新潟大学初代教授)のお写真は初めて拝見したのでとても印象に残ったが,一番,興味を持ったのは元新潟大医療技術短大(現新潟大医学部保健学科)の故白川健一教授の業績を紹介するコーナーだった.白川教授は新潟水俣病の臨床をライフワークとして取り組まれ,1984年,49歳の若さでお亡くなりになられた.その白川教授が秋田で行った講演に使用したスライドが,今年5月,新潟大医学部保健学科の先生により,偶然発見された.そのスライドの解説や,白川教授のひととなりや白川教授が取り組んだ水俣病の臨床についての説明が,ひとつのコーナーで展示されていた.
白川教授は,新潟水俣病が公式に確認された後,新潟大学神経内科で臨床研究を開始し,1969年,メチル水銀を含む川魚の摂取を中断してからも症状が出現する「遅発性水俣病」という概念を提唱した(これは水俣病が幅広くとらえられるきっかけのひとつとなった).1970年代後半,認定基準は厳しくなり,認定棄却される患者が増す中,患者の症状を客観的にとらえることが重要と考え,そのための検査装置の開発を行い,認定されない患者が増えないよう尽力した(この辺りのことは「新潟水俣病(齋藤恒著.毎日新聞社刊)」に詳しいが,協調運動障害を客観的に評価するジアドコメーターなどを試作している).私は残念ながら白川教授にお目にかかったことはないが,この本で知り,とても立派な先生だと思っていたが,今回,生前に先生が遺した言葉を拝見し,あらためて感銘を受けた.
「父は医師 癌を告げても尽くさせよ 少なき日々を 患者のために」
闘病中に病床で詠まれた和歌だそうだ.
もう一つは,新潟が誇る歌人,美術史家,書家である秋艸道人・會津八一先生(1881~1956)の,有名な「学規」を,医師としての立場からとらえた文章である.會津八一先生は,郷里・新潟から上京した受験生を預かった際,「学規」と題した規則を部屋の壁に貼ったそうだ.
ふかくこの生を愛すべし
かへりみて己を知るべし
学芸を以て性を養うべし
日々新面目あるべし
新面目(しんめんぼく)とは,今までにみられなかった新しい姿・ありさまのことである.この「学規」を白川教授は以下のように解釈している.
ふかくこの生を愛すべし ― 生を愛するということは他の人の生も考える,愛するということが大事です.
かへりみて己を知るべし ― 医療の各段階で不確実な要素が多く積み重なっており,そこで実際の医療が行われていると思いますが,そうであれば「自分をかえりみる」という事が非常に大事ではないかと思います.
学芸を以て性を養うべし ― 患者さんを観察するとき,目に見えるもののその奥にあるものを見るためには,学問や知識が必要であると思います.
日々新面目あるべし ― 患者さんは同じ病名でも個人差がありますし,毎日毎日経過はどんどん変わっていくわけです.マンネリ化した場合には,新しい気持ちで毎日をみるということが非常に大事だと思います.
いずれも水俣病の臨床経験なかから生まれ育まれた言葉と思われる.自分自身はどうであろうかととても考えさせられた.
新潟水俣病
秋艸道人 会津八一の生涯