■ 久し振りに寝食を忘れて読みふけってしまった ■
今期アニメの話題作である「新世界より」。
のんびりしたペースでスタートしましたが、
4話目にて、話は急展開を見せます。
平和で牧歌的な社会の裏に潜む、
恐ろしい歴史が明らかになったのです。
イヤー、ビックリです。
マッタリ系オタクアニメだと思っていた作品は、
実はメチャクチャなハードSFでした。
ところでこの「新世界より」が、何と本棚に揃っていました。
私のアニメトーク仲間の、知り合いの事務所の子が、
以前、小説を沢山貸してくれました。
その中の三冊(三巻)だったのです。
アニメの次週が待ち切れずに読み始めたら、これが面白い。
久し振りに、寝食忘れて読みふけてしまいました。
ほぼ3日で読破。
遅読の私としては、異例のスピードです。
それ程までに「新世界より」は素晴らしい小説でした。
■ 純和風SF ■
SFというジャンルは本来アメリカの文化です。
ですから、日本の多くのSF作家達は、海外のSF作品に影響を受けています。
科学というジャンル自体が西洋文明に由来するので、
SF小説は、自然と「バタ臭い」ジャンルとなります。
一方で、日本の作家達は「和風SF」を模索し続けてきました。
夢枕獏の「上限の月を食べる獅子」などは、
多少SFというジャンルから逸脱している感じはしますが、
東洋思想とSFの融合を試みた野心作です。
しかし、その源流を辿れば、「光に王」のロジャー・ゼラズニーあたりの
ニューウェイブの作家に行き当たる感じが否めません。
「新世界より」は霞ヶ浦周辺の水郷の町や、その周辺の情景が、
情緒豊に描かれています。
たなびく稲穂、山に沈む夕日。様々な小動物。
これらの、どこか郷愁を誘う、純日本的な情景の中で、
物語はゆったりと始まります。
それは、今までのどのSF小説でも味わった事の無い、
「純和風SF]という趣きを呈しています。
「呪力」という超能力で科学技術の代替をさせる事で科学文明が衰退した社会。
そんな社会設定とする事で、西洋文明の象徴とも言える「科学」を封印した事が、
この小説を、「純和風SF」として成立させているとも言えます。
■ 動物行動学、社会心理学の壮大な実権 ■
内容を書くと読む喜びが無くなってしまうので、
今回は一切ネタバレ無しにチャレンジしてみます。
このSFをジャンル訳するならば、
「動物行動学と社会心理学SF」という分野にあたるでしょう。
作者の貴志祐介は、中学生でも分かるような書き方で、
しかも、動物行動学と社会心理学の壮大な実権を、この作品の中で繰り広げています。
■ 生物学SFとして、ジェームス・デユプトリーJrに近い肌合いを感じる ■
これらのSFの先駆けとして思い浮かぶのは、
ジェームズ・ヂュプトリーJrの「汝が半数染色体の心」
御者座星系の惑星エスザア。
ここには,エスザアンというヒューマノイド種と,
フレニと呼ばれる奥地遊牧民族住んでいます。
エスザアンは地球人と似た姿をしており、文化的に暮らしています。
フレニはエスザアンに比べ小さく醜く、
狭い地域で、虐げられて生活しています。
人類認定調査の認定官イアンは、
この二つの種族の調査を開始します。
そして、彼は驚愕の事実を知るのです。
実は、エスザアンの遺伝子はフレニの半数だったのです。
エスザアンはフレニの生殖体でしか無く、
実は種として完全なのはフレニだったのです。
エスザアンは生殖の結果フレニを生み出します。
この関係において、エスザアンの男女は雄しべと雌しべの役割を担っていたのです。
ジェームス・デュプトリーJrは、当時最先端だった遺伝学を
SFの世界に見事に導入してみせます。
この同様の驚きを「新世界より」は与えてくれます。
人間の生物としての「行動原理」。
バケネズミという人間の作り出した知的動物の動物としての「行動原理」。
そして、異なる種や、異なるコロニーと相対した時、
動物が選択する行動・・・。
これらの丁寧な思考実験が、この小説の中では繰り返されてゆきます。
■ 社心理学の壮大な実権は、アーシュラ・K・ルグィウンを想起させる ■
一方で、「呪力」という人間の手に余る力を手に入れた人類はどうなるのか。
作者は社会心理学的視点から、1000年という架空の歴史を編み出しながら、
絶対的暴力と社会がどう関わっていくのかをシミュレートします。
「呪力」は時に人々の対立と戦争の原因を生み、
あるいは、「支配と被支配」という関係を生み、
さらには「独裁」を支える力となり、
さらには「独裁」を破滅させる力となります。
そして、人類が「呪力」という「絶対暴力」と折り合う為に作り出した社会は、
やがて、ほんの小さな綻びから、破綻してゆきます。
「恐怖」と人はどう関わるのか。
「力」を持った人は、それをどう使うのか?
一人の個人が社会全体を破壊する程の力を持つ社会はどう維持されるべきなのか。
作者の考察は興味が付きません。
小説を使って、社会をシミュレートする手法は、近代小説のお家芸とも言えます。
SFの流れでは、ジョージ・オーウェルの「1984」や「動物農場」が、
社会主義や、管理社会と個人の関係を、鋭く考察しています。
一方、圧倒的平等主義や男女のジェンダー的な視点は、
アーシュラ・K・ルグインの追求したテーマです。
「新世界より」の町の社会システムや、男女の関係は、
多分にルグインの描く世界とオーバーラップします。
子供達を町の財産とし育てる様は「所有せざる人々」の様ですし、
ジェンダーの垣根を曖昧にした男女関係は「闇の左手」などにも通じるものがあります。
主人公の少年少女が雪山を越えるシーンは、まさに「闇の左手」を彷彿とさせます。
「新世界より」は、アメリカのニューウェーブイSFの
2大女性作家の影響を強く感じる作品です。
■ エンタテーメントとしての魅力にも溢れている ■
さらに、未知の生物の戦闘シーンは想像力に溢れており、
おもわず手に汗を握ります。
ミステリー的な構成もしっかりしていて、
読み出したら最後、本を置く事も出来ず、
寝食を忘れ、電車を乗り過ごしてしまう程です。
■ アニメで見てしまったり、漫画で読んでは「不幸」 ■
「新世界より」は今期アニメになっています。
さらに漫画化もされている様です。
しかし、それらのビジュアルは、何か違和感を感じます。
ライトノベルは書かれた時に作者の脳内には、アニメのビジアルが展開しています。
しかし、「新世界より」の文章からは、アニメ的なビジュアルは感じません。
むしろ、アニメ的なビジュアルでは、「暴力」がソフトになりすぎて、
この小説の持つテーマが薄らいでしまします。
この作品を、アニメで見始めた方は、もし興味を持ったならば、
是非、小説を先に読んでいただきたいと思います。
漫画で読んでしまって、エッチなシーンでブヒブヒしてしまった方は・・・
残念ながら、もう手遅れかも知れません。
2008年、第29回日本SF大賞のほかに、いくつもの賞を取ったこの小説は、
SF小説とライトノベルの「差」について、深く考えさせるものがあります。
どちらが優れているという話では無く、
ライトノベルの作者達の自由な発想が、今後目指す点として、
「新世界より」は、明らかな到達点であるとも言えます。
この作品、英語で執筆されていれば、
欧米でも充分にヒットする作品だと思います。
村上春樹だけが日本の作家ではありません。
現代小説の抜け殻に様なファッション小説を読むよりは、
ガッツリとしたSF小説の方が、若者には有益ではないか・・・
ふと、そんな事まで考えてしまいました。
■ 読書の悦楽 ■
「文字」情報から、風景や地形、そして異形の生物達を想像し、
「呪力」による効果を空想する。
そこには、映像としての制約も無く、イマジネーションは無限に広がります。
これこそが「読書の悦楽」です。
最近の子供は本を読まなくなったのは、
「文字→イメージ」の変換能力が未発達だとも言えます。
ある意味、アニメや漫画の浸透が、想像力を衰退させているとも言えますが、
一方でラノベを多くの子供達が支持するなど、
アニメ的なイメージの想像力はむしろ向上しているとも言えます。
「読書の悦楽」は私達の世代とは違う形で、継承されているのかも知れません。
40代、30代は「ラノベ→アニメ変換」と「小説能→実写変換」の
両方の能力を持った世代なのかも知れません。
<追記>
アニメ版は5話で完全にアニメの限界を露呈しました。
脚本が説明不足という点を無視しても、
やはり、「死」を克明に描写しなければ、この作品のテーマが伝わりません。
4話までは、比較的丁寧に描かれていただけに、
物語が動き出し、面白くなるはずだった5話の出来に不満が残ります。
私的には、原作を読んだので、アニメ版はもういいかな・・・。