rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

生きる火山の島、ハワイ島

2013-02-23 23:53:06 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」アメリカ合衆国の飛び地であるハワイ州で最大、常夏のハワイ島。
ハワイ諸島最高峰のマウナ・ケア山は、標高4205mで、常夏の島においても冬にはその頂を白く染める、
ハワイの地元先住民の聖地でもあるマウナ・ケア山頂には、日本のすばる望遠鏡でおなじみのマウナ・ケア天文台がある。
マウナ・ケアより南に広がる一帯は、ハワイ火山国立公園があり、今も活発な火山活動が行われている。
中でも有名なキラウエア火山は、今も赤い溶岩を火口に煮えたぎらせ続ける。
ここの溶岩は、粘度がとても低くさらさらと流れるためなのか、サーストン・ラバ・チューブという、かつて溶岩が流れたというトンネルが地中に残され、見学可能だ。
また、このハワイ島のビーチは、溶岩が細かくなった砂でできているため、黒いビーチになっている。
その名もブラックサンド・ビーチ、そこはウミガメの楽園だ。
火山の溶岩は、地中を通って地表にある水を温めて火山温泉ウォーム・ポンドをつくり、人々は温泉を楽しむ恩恵に与れる。
1000度の灼熱溶岩は、さらにさらさらと低いところに向かって流れ、もうもうと水蒸気をあげながらやがて海へと注ぎ込む。
その光景を鑑賞できる、溶岩ボートツアーなるものがあるらしく、なんと溶岩まで5メートルの近さまで接近できるのだという。
しかし、海風のおかげで熱さは感じることがなく、迫力満点の大地の脈動を体験するのだ。

ハワイ島には、コナ・コーヒーの産地でもある、コナの街がある。
ここでのグルメは、実に素朴。
プレート・ランチという、ステーキにサルサをかけ、茹でた黒豆とライスを添えたものがある。
ポークチョップ・ランチは、代表的な家庭の味で、豚肉に塩と胡椒で味をつけ焼いたものに、キノコのソテーをトッピングする。
肉本来の旨みを堪能でき、飽きのこない料理だ。
”プエオ・ブティック”は、ハワイでは家族を守ってくれる幸運のシンボル「ふくろう」をモチーフにした衣料雑貨を扱う。
”キムラ・ラウハラ・ショップ”は、ポリネシアの代表的工芸品を製造販売する店。
「ラウハラ」という、植物の葉のことで、それを使い編みこんでカゴやバッグなどさまざまなものをつくっている。

ハワイ諸島でもっとも観光地化されているのは、オアフ島なのだろうが、個人的には火山の島ハワイ島が好きだ。
ハワイの先住民の方々の聖地でもあるので、慎まなければいけないのだが、マウナ・ケアにはとても魅力を感じ、願わくば訪れてみたい。
きっと敬意を持ってすれば、この地を崇める方々も広い心をもって受け入れてくれると思うのだ。
なぜなら、黒い溶岩で覆われた地に、海岸で拾ってきた白い石を使ってメッセージを残していく観光客の所業を、島の人々が好意的に容認してくれているということだから。
自然に対して畏怖の念を抱き敬う心は、ひいては人類だけでなく諸々の生き物、地球自体に害をなすものではない。
地球という生命のゆりかごの中を乱すのは、驕った人の所業によることが多いからだ。
楽園にも死は存在することを忘れてはいけない。
ハワイの人々は、火山の営みに命のサイクルを見ていたのではないかと想像する。

2月22日は、猫の日

2013-02-22 15:26:48 | ねこ
今日は、2月22日、猫の日。
しかも、2時22分22秒、午後2時22分22秒、22時22分22秒と、2のぞろ目だと、にゃーにゃーにゃー・・・さらに猫感が高まる。
猫の日じゃなくても、猫はいつでも可愛くいて、その姿に大いに癒されるのだが、猫好きたちは大いに盛り上がって、それはそれで結構なことなのだ。

花粉が本格的に舞い始め、外には極力出たくない軟弱者は、猫とのふれあう時間もおのずと減る。
自由が好きな猫といえども、一日中一人ぼっちでいるのはつまらないと見えて、やむにやまれず外へ出てきた軟弱人間に、かまってオーラをぶつけてくる。
だから、今日は「猫の日なんだよ」って話しかけながら、体を丁寧にマッサージした。
それから、おやつをあげると、猫は満足げにおわんに頭を突っ込んで、カリカリと食べだした。
今頃、日当たりよく風を防げる場所の心地よい芝の上で、「猫の日と、勝手に騒いでいる軟弱者の仕方がないヤツ・・・」と思いながらうとうとしているに違いない。
むにゃむにゃむにゃにゃ~






時代に抗って放浪の果てに、ヴォルス

2013-02-21 22:49:39 | アート

Constructions hazardeuses


kettererkunst

ヴォルスは、20世紀の激動のヨーロッパで、独立した精神の持ち主であることを貫いた芸術家だ。
後人がつけたカテゴリーでは、アンフォルメルに分類されるが、彼自身、どこにも所属したくはなかっただろうとおもわれる。
ヨーロッパでは、列強国がしのぎを削って覇権争いをし、ついにはナチズム台頭という狂気へまっしぐらの、自由を重んじる人々にとっては暗黒の時代。
ドイツ人でありながら、その狂気の渦に抵抗した彼は、放浪の人となった。
しかし、そのような時代にあって正気を保とうとするのは、想像を絶する困難を極めたに違いない。
彼の描く絵は、ぴりぴりとした苦悶に歪む魂の叫びが押し込められているようだ。
壮絶な美が、画面の牢獄に繋がれている。
同じカテゴリーの人、フォートリエのそれとは、いささか趣が違う。
ヴォルスは、たぶん振り切れた世界に足を踏み入れてしまったのではないか。
同国人の愚行に心を痛め、ドイツ人というだけで他国からは敵として見做される、寄る辺なきそのやりきれない境遇。
これは、誰しも身に降りかかることで、茨の道を進みたくなければ、間違っていようとも大多数に迎合するのが世の常なのだ。
果たして、それでいいのかは、個人の理性にかかっている。
精神の独立と自由は、自分で守り貫くしかないということだ。


迷惑な春の使者、スギ花粉

2013-02-20 15:55:54 | 随想たち
今日は、気温はあまりあがらないけれど、久しぶりにすっきりと晴れた日になった。
午前中は、風もなく、布団干しには絶好の天気。
家の脇にある氏神様のご神木は、スギとヒノキ、そのたわわになる花芽を横目で見ながら、布団を干す。
もしかしたら、今日でしばらく布団を干すことができなくなるかもしれないと、気合を入れて布団を出した。
庭掃除をしていると、体に陽のあたるところがじりっと熱く感じる。
寒い日が続いているけれど、確実に季節が進んでいることを思わずにはいられない。
午前中いっぱい、布団はほっこりぬくぬく燦燦と降り注ぐ太陽を浴びていた。
昼をだいぶ回った頃から、西風が強く吹きだす。
杉の花芽が、激しく揺さぶられている。
慌てて布団を込み、石油ストーブの灯油を給油し、庭を駆け回っていた。
一段落つき、ちょっと一休みと、パソコンを起動していると、なにやらいやなむずがゆさが鼻を襲った。
ああ・・・これは、またあの季節がやってきたのだと思い知らされた。
今日からしばらく、多分2ヶ月くらい、マスクとゴーグルが標準装備のスギ花粉の季節。
梅の花や、椿の花が咲いて春を感じるのではなく、スギ花粉の悪さで起こるくしゃみで春を感じるなんて、ものすごく無粋だ。
そして、そのおかげで春が存分に楽しめない、今ひとつな季節になるなんて、ちっとも面白くない。
こんな思いを、もう15年続けているだろうか。
このブログにも、毎年、これで3回目のぼやきを書き綴っている。
花粉アレルギーは、個人差はあれど多くの人と共有できる辛さ。
どうか、スギ・ヒノキ花粉で苦しむ同士よ、何とか凌ぎきりましょうぞ!




バッハのフーガをリュートで聴く

2013-02-19 11:43:08 | 音楽たちークラシック
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Johann Sebastian Bach: Fuge BWV 1000 / Andreas Martin, Lute

大好きなリュートの音色。
ギターよりも華奢で典雅な感じが、いいときもあるのだ。

昨夜の、リストの”ラ・カンパネラ”で、音の密な結晶の世界を味わったから、今日はその反動ともいえる、行儀よく空に浮かぶやわらかな雲に乗りたかったのだ。
青く澄んだ空に浮かぶ、真っ白な羊雲が運ぶようなリュートの調べ。
バッハのフーガは、空気を構成する気体の分子のように、疎にならない程度の節度ある独立性を保ち、個々の音が微振動する運動が全体にゆらめきをあたえ、大きな世界を創り出す。
それが、リュートで紡ぎだされると、やさしく恩寵に満ちたものになる。

ゆったりと、バッハのフーガをリュートで聴く至福の時間。
日常に溢れるの過剰な音楽と比べると、退屈極まりない音楽と思えるかもしれないが、本当の贅沢とは、疎な時間を楽しむこと、無と見える時間の中に詰まっている理に思いを馳せることではなかろうか。
バッハの指し示す音の一つ、またその先の一つに、真理への糸口が結ばれているような気がするのだ。



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J.S. Bach: Fuge BWV 998