どこへも行かず、ただぼんやりとやり過ごした夏。
朝晩水を撒くのを欠かさず、朝に夕に眺めた蔓麗瓜(ゴーヤ)も、葉が黄ばみ衰えを見せはじめている。蔓の先端についた実も、その先は絡みつく網をはみ出しているのでただ風に吹かれるばかり。
9月に入り、朝晩の涼風を感じる昨今、すでにゴーヤは終盤を迎えている。
よく食べたゴーヤ・・・。
この日除け兼食料ともなったゴーヤを外そうかと思案中。毎年のことながら一仕事、考えるとちょっと寂しさのからんだ憂鬱。
お休みだったサークルも9月に入り再開、「早い、早い」が口癖の高齢者。(早い々、お迎えが…)う~ん、淋しいような、早く終わりたいような。
せっかちな性格、鋏をもって今にもゴーヤの蔓を切り倒そうかと…もう少し置こうかな。
写真は今日の収穫、ゴーヤづけの、夢に出て来そうなゴーヤづけの夏でした。
『3つの停止原基』
糸が描く曲線に沿って削られた細長い木製版それぞれにガラス版(図版・注より)
要するに偶然を形に留めたものである。すべての始まりは偶然だったかもしれないが、基準を図るという営為こそが社会(世界)のルールの標準と規定されている。
原基、物の始まりは衆目の一致、認定がなければ、必然の決定には至らない。
それをあえて、偶然である任意の形を原基と提示する。しかし、停止という修飾が付く。
《禁止された原基》という意味不明な唯一無二の原基をまことしやかに提示してみせるデュシャンの不遜とも思える揺さぶり。
計測、観念の否定、破壊…静かなる反逆である。
無意味、霧消に帰した思考を、一つの形で換言している。
明らかに存在し命名されているが、存在の意味も命名の意味も剥ぎ取られている。鑑賞者は従順にも肯定するだろうか、烈しい苛立ちにより無視という行為に及ぶだろうか、あるいは愉快に感じるかもしれない。
作品は意味の霧消を内包しているが、自らが語ることはない。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。
☆冥(死後の世界)に慈(いつくしみ)の幸わいを施(いきわたらせる)果(結末)を運(めぐらせている)。
わたしは、おとといの晩はじめて知りました。それまでは、客室付きだったんです。わたしを軽蔑しているという点じゃ、この子の方がきっとフリーダよりも上にちがいありません。
☆わたしは禁錮の古臭い終末(死)だと知りました。今まで彼女は作り話の主題でした。わたしを軽蔑する彼女は、きっとフリーダ(平和)以上でしょう。