孫が入院したという緊急事態を受け、三泊四日でお手伝いに行ってきた。
伸び放題の庭の草を撤去、息子のYシャツのアイロンがけ、熱を出して休園している一歳児の面倒…と、こんなことが忙しいのではない。彼ら息子夫婦の忙しさである。
朝早くから、バタバタ…。嫁は会社の退け後、入院している次男の病院へ。息子は学童にいる長男を19時までに迎えに、家に帰れば、食事、風呂、洗濯・・・。
食洗器・勝手に沸く風呂、勝手に洗うトイレ、勝手に乾かす乾燥機etc 確かに便利なものに囲まれ生活は時短に見えるけれど、子供の病気は勝手に治らない。
熱を出した三男は夜泣きと高熱で救急外来へ、結果水疱瘡とのこと。
入院している次男はおたふく風邪を併発…、長男は時々咳をしていて薬を服用。
四日目は夜遅くなったけれど、朝を待たずに帰宅。
「大変だけど、頑張ってね」
それにしても相模大野駅周辺の活気はすごい。働く人たちの街という感じで忙しく人が行き交う。
ただただ呆然!
こんなブログを呑気に書かせてもらって済まないね・・・。
疲れが残る朝です。
『階段を降りる裸体』
裸体(人体)らしき物の下降の連続画像のようなものである。画題が命名されているから裸体なのかと思い、降りるとあるから下りているんだと認識する確かに階段のようなものも描かれているがよく見ると螺旋状のようでもあり、階段の部分は何気に危うい。
全て《~のようなもの、~らしい》と、言葉(命名)と画像(作品)は鑑賞者の脳裏で無理にも結び付けて納得するような仕掛けがある。
即、理解できる図像ではない。言葉だけでイメージすると生々しいし、画像だけで理解しようとすると何かが動いているらしいが…という謎のような混迷が残るばかりである。
裸体という言葉(ヒント)から頭部や胸、腰や脚を辛うじて想起できるが、きわめて機械的な印象であり、肉感はそぎ落とされている。
裸体で階段を下りる…何のために? 画は連続的な動きが認められるため、短いが時間という時空を認識できる。しかし、そのことに何の意味があるだろう。
意味という観点からみると、(階段を下りる裸体)という言葉も(階段を下りているらしい裸体)の画像も何ら意味を喚起させず、鑑賞者は呆然と立ちすくむばかりである。
(この作家は何を言いたいのだろう?)
デュシャンは、物あるいは状況から《意味》を剥奪し、《無》の光景を導き出している。
裸で階段を下りる必然性は限りなく低いし、それを二次元という画面に描き出すことも無為徒労である。そのバカバカしさや空疎を作品と銘打って提示している。
《無の空漠》を《有》をもって鑑賞者に差し出している、無は何もないことで認識できない、無は有をもって認識可能なのかもしれない。
(写真は『デュシャン』(株)東京美術出版より)