続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

右、そして左。

2016-09-26 07:18:21 | 日常

 先週、ブログを書いている最中に電話が鳴った。
「清一朗のおたふく風邪が、今度は左になっちゃって」という。(で、また一週間こちらに滞在というわけね、どどっ・・)

 長男と三男がにぎやかにやってきて、再び大忙し。
 誰が読んでくれてるか分からない淋しいブログよりも、未来を担う子供の方が大事と(自分に)言い聞かせて・・・。

 こんな時つくづく、呑気にブログを書かせてもらっているのだと気づく。母の闘病介護、父のアルコール依存…そして仕事と、自分はロクな人生でなかったと諦めていたのに、今はブログ中心の毎日を送っている。けれど、そのことに甘えてはいけないのかもしれない。

 孫と一緒に過ごす時間は楽しい。でも洗濯物の乾かない長雨を恨んだり・・・。

 一時帰宅した息子から、「日曜日におたふく風邪の経過を医者に見せたら『一度(右)やれば菌は消滅しますから、二度目は通学可能ですよ』と言われた」と電話があった。

 で、本日は無事に学校へ行くキヨちゃん。
 来なきゃ来ないで淋しいよ。


デュシャン『3つの停止原基』②

2016-09-26 06:37:40 | 美術ノート

 『3つの停止原基』

 総て任意であり、偶然性をもって原基とし、停止という否定を被せている。

 1メートルの定義は地球一周の長さを4万キロメートルと決めたことが起源と聞いているが、現在では光が真空中を伝わる距離を原基としている。
 要するに人間がその知覚をもって決定したのである。

 ならば・・・というわけである。しかし、写真で見る限り使途不明の形態は、使用の多様性を持たず、持続・拡散・連鎖という系列に属さない。
 原基というものは核であり中心であり源であるが、停止という禁止によってそこに留まるほかはない無用の長物と化している。

 原基は物理的基準であるが、『3つの停止原基』は精神的なものであって、常に一回限りの刹那であり、デュシャンは、つかみどころのない無空から不定である流動の瞬間を切り取ろうと試みており、空に焦点を当てている。


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)