雨である、台風が近づいているらしい。
本日はサークル実施日、けれど、この雨の中、齢90の講師にご出勤いただくのはいかがなものか・・・。
足の骨折で不調をきたしたメンバーも大丈夫だろうか。
電話をした方がいいのか、電話を待つのがいいのか、思いあぐねている。
出てこれるメンバーだけで、お茶会にしておしゃべりをするだけでもいいかもしれない。
どうしたらいいのかな・・・雨風の中、出勤する人たちを考えればごくお気楽な杞憂。
昨夕、長男に電話。
「今日は何の日か知ってる?」と問えば、「何?」という応え。話しているうちに只今仕事中とのこと、休日出勤だったらしい。
まぁ、親の老いていくのも気づかないほどの能天気。
ゆる~い日常、雨が降っているだけで、気を揉んでいる。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
8つのヴァージョンがあったらしい。(オリジナルは1921年~1964年)
大理石を小さな方形にカットすることに意味はあっただろうか、使途不明である。
イカの甲(骨)は、つまり、死骸である。
体温計は生きている生命体に使用するもので、ここでは意味をなさない。
鳥かごというものは小鳥が自由に動ける大きさが必要であり、11.4×22×16㎝はいかにも狭小である。
意味不明な集合体を何故差し出したのか、この不協和音が奏でる心的ストレスに対する拒否反応にどう対処すればいいのか。
鳥かごと称した〔かご〕を持った時の非常な重量は、意外というよりバカバカしい反感を抱かざるを得ない。
常識で考えれば、不用品として廃棄に値する。一つ一つはそれなりに存在価値があるかもしれないが、不条理な集合によって、複合的な無価値に転落している。
しかしデュシャンは、徹底した無価値を創り出すことに成功したのである。無為徒労・無価値・無意味・無粉飾(?)・・・存在しながらも存在の意味をなさない集合体への快感、すなわち無の肯定である。
(写真は『MARCEL DUCHAMP マルセル・デュシャン』株式会社美術出版社刊)
あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の螢でも集まったやうについてゐました。
「あゝ、さうだ、今夜ケンタウルス祭だねえ。」
「あゝ、こゝはケンタウルスの村だよ。」カンパネルラがすぐ云ひました。〔以下原稿一枚?なし〕
☆正しく等(平等)の秘は黙っている。
註(意味を書き記すこと)を套(おおって)伝えている。
闘(あらそい)を詮(明らかにし)、刑(罪をただし罰すること)の修(正すこと)を混ぜている也。
済(すくうこと)を尊ぶように、運(めぐらせている)。
ぼくから見ても、あんたがた一家にはないか特別なところがあります。そのことは、隠さずに言ったはずです。しかし、その特別なところがどうしてあんたがたを軽蔑する理由になるのか、それがどうしても理解できませんね」
☆きみたち一家にはなにか特別なところがあります。それは言ったはずですが、それら特別なことがどうして眠らずに過ごすきっかけになったのか、わたしは理解することができません。