続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『泉』②

2016-09-05 06:58:48 | 美術ノート

 『泉』

 この作品を前にした鑑賞者の衝撃はいかばかりのものだったか。
 『泉』と題されておかれた便器、その設置には使用不可の戸惑いがある。そして何より衆目の集まる会場で用を足すなどという有り得ない状況への困惑と不浄という観念など複合的なマイナス要因が作品を遠ざける心理に導く。

 だからこそ、展覧会には展示されなかったのだと思う。展示拒否の作品の持つ反発力は相当に強く沈黙の進撃たる世界観の破壊につながる。
 ポジティブな意味はなく、ただ鑑賞者の脳裏を重く混迷に陥れるだけであるように見える。しかし、その意味のなさ、空虚、戸惑い、観念への痛烈なまなざしこそ、主張の要だったに違いない。

 レディ・メイドの必要条件である用途には価値がある。それが状況の変移によって無価値に置換されてしまう。意味の剥奪により、便器(『泉』)は無用の長物と化し、それ以上に生理は隠すべきであり、人に見せることへの嫌悪によって、拒否感を高めてしまう。

 考えてみると、これほど鑑賞者の感覚の振幅を大きく広げた作品があっただろうか。
 存在は存在しながら、非存在(無用の長物)と化していく。意味はあるが、本来の意味を剥奪されている、つまり無意味である。
 明らかに重量を備えた物体(レディ・メイド)を前にして感じる空虚な印象は、不思議な体感であると思う。不可抗力な生理作用への肯定(哀)に、反発(怒り)は拮抗する体制でもある。


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)


『銀河鉄道の夜』423。

2016-09-05 06:24:34 | 宮沢賢治

 ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。


☆他意の果(結末)の幸(はなし)である。
 太陽を賛(たたえる)平(平等)は一つ(唯一)の護りであり、太陽を賛(たたえる)平(平等)は、美を兼ねている。


『城』2428。

2016-09-05 06:11:12 | カフカ覚書

なにしろ、いくぶんかはあの子の好意を頼りにしているのですし、あの子のほうは、縉紳館の酒場娘なのですもの。もちろん酒場娘といっても当座だけのことで、いつまでもあそこで働くのに必要なものが、あの子にはたしかに欠けています。


☆わたしは彼女を大いに頼りにしています。彼女の大軍のハロー(死の入口)というのも作り事ですから。それはただ、さしあたりのことで、来世でもずっと働き続ける必要はありませんから。