『9つの雄の鋳型』
九つのふしぎなかたちは「九つの雄の鋳型」といわれ、左から騎兵、憲兵、召使い、デパートの配達人、ドア・マン、僧侶、墓堀り人、駅長、警官と名付けられている。鋳型のなかにはガスがつめられていて、それが上端の「毛細血管」を通って、中央の七つの三角形の重なったような部分である「濾過器」へ運ばれるという。(『デュシャン』新潮美術文庫より)
名付けられていること自体、不明である。関連性を裏付けるものの欠落、関連付けることの無謀。言葉遊びとしてなら許容できる範囲かもしれない。
なかにガスが詰め込まれているというのも、無為な行為であり、金属を流して型を取るという有形なものに対してガスという気体(無形)などあり得ない。
三角形の濾過器というのも、揮発性の物をいかにして濾過するというのか。
9つの雄の鋳型というのはどういうことだろう。雄→男→男が多く勤務するそれぞれ任意の職業ではあるけれど、要点らしき特徴は皆無である。
しかも、それぞれ宙に浮いていて立ちどころが不明確であり、提示されているが、現物の直立の提示は無理がある。
一見すると、不思議な寓意性を感じる。あたかも詩的ファンタジーの漂うこの作品を一つ一つ検分していくと、まるで迷路のような窮地に立たされる。意味を捜そうとしているのに意味の崩壊を感じるばかりだからである。
この『9つの雄の鋳型』は、視覚イメージを通して、視覚イメージを屈折、消去させている。極めて頑強な鋳型という観念を、空に帰している。
どんでん返しというのではなく空想のリズムをもったメビウスの輪的(現実→非現実→現実)宇宙観である。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」
☆恰も釈(意味を解き明かす)果(結末)の念(思い)の章(文章)が現れる。
念(考え)は普く業(善悪すべての行為、又それが将来に及ぼす影響)による。
ペーピは、わたしがビールを買いにきたのを窓から見ると、ドアのところへ走っていって、鍵をかけてしまいました。わたしは、長いこと哀願したり、髪につけていたリボンをあげるからと約束したりしたあげく、やっとのことでドアをあけてもらいました。
☆彼女は窓(食/死の入口)からわたしを見ると、いかにして死から戻ってきたのか、入口の方へ走っていき、入口を閉めてしまいました。わたしは長いこと哀願したりして彼女との絆を約束し危害を偽り、あけてもらいました。