続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

やっぱり楽しい。

2016-09-27 06:41:19 | 日常

 ブログ、すなわち独り言である。
 もともと閉塞的な性分のわたし、部屋の隅っこで呟いているのが一番心地いい。

 ブログを書いていると、社会の一員であることなど忘れてしまう。現実離れした気分、まるで冥府にでも逝ったような安楽を得る。

 こんなことではいけない・・・頭の隅で声がする。
 「ストレスがたまって、家になんかいられないわ」という人がいる。(外へ出ることがストレスなわたし)変わり者だと思われたくないので黙っている。

 つまらない人間である。

 だから、無理にも外へ出る用を作って外へ自分を押し出すように工夫しているけれど、一人の時間であるブログを書いていると、やっぱり楽しい。


デュシャン『花嫁』②

2016-09-27 06:04:52 | 美術ノート

 『花嫁』

 『花嫁』そして『処女』、花嫁は婚前の状態を言うのであれば、花嫁=処女ということになり、あえて単独に描き込む要素は見つけられないのではないか。

 しかし、あえて、『処女』であり『花嫁』であるとする根拠は何か。見分けられないもの、有るかもしれないが無いかもしれないという不定な領域を限定する。『急速な裸体』と称するのも同じであり、裸体に急速などという修飾・形容はない。不似合いというより言葉の中で接続不可の断絶を無理にも接続している暴挙である。

 デュシャンは言葉の意味を考慮し、言葉の意味を粉砕している。言葉を本来の使用から外しているのである。
 愉快と言えば愉快であり、この上ない快挙かもしれない。言葉は信じられるものとして君臨し続けているし、社会・経済・生活の上で固く守られるべき約束である。
 この約束・通念のタガを秘密裏にそっと外している。

 『花嫁』は本人以外の人たちが発する美称であり、『処女』は本人のみが知る状態である。これらの言葉の不確定な領域を衝き、目に見える平面へと定着させているが、作品を凝視すると、判然としない流れに惑わされてしまう。流れや構築があるようにも見えるが、追っていくとひどく頼りない線条になったり、断絶であったり・・・確たる存在感を失わせるように描いている。そのように配慮し尽しているのである。

 見えるように描いているが見えず、題名を明確に伝えているが不明である。存在しているが不在なのである。不思議な欠落感は、空虚と隣り合っている。


(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)


『城』2436。

2016-09-27 04:40:53 | カフカ覚書

それに、ぼくにはそういう気持ちが理解できないが、かりにアマーリアをほんとうに軽蔑しているとしても、その軽蔑をどうしてあんたがたにまで、罪のない家族の人たちにまでおよぼさなくてゃならないのですか。


☆わたしには理解しがたいことですが、現実にアマーリア(月)は眠らずに過ごすとしても、きみたち罪のない一族にまで広げなくてはならないのですか。