『夜会服』(The Evening Gown)
水平線と裸婦の後ろ姿(背中)、そして空の三日月。
鑑賞者はこの画を見るときタイトルに合わせて《着衣》を想起する。しかし着衣はなく素肌のままである。
夜会服→否定、なるほど夜会服だと思える要素が欠如してる。強いて言えば『夜会服』というタイトルのせいで、裸婦が着るべき夜会服を想像させる言葉の力が動く。
つまり夜会服は無いが、有るのである。裸婦を描いて「これは裸婦ではない」と言うに等しい。
南中の三日月は見えない、真昼に月は見えない。有るが見えない(無い)のである。
しかしこの場合、夜会服は無い。無いが有ると題している。そうタイトルすることで、夜会服が浮上し、夜会服の根拠を探索しようと試みてしまう。
画で見るかぎり《夜》の時空ではなく真昼である。にもかかわらず《夜会服》と敢えて言ってる。『夜会服』というタイトルはこの画の全否定である。
仮に夜だとして、三日月ということは明かりのない晩であり、夜会服を着ていても見えない漆黒の闇の中である。
水平線に見る真実は、この画の中で見え隠れしている。
この画に踏み込むと、虚実の循環や観念への疑惑が一種の運動性をもって働き始めるのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)
あまり大きな音なので、オツベルの家の百姓どもが、門から少し外へ出て、小手をかざして向ふを見た。
☆他意に隠れている化(教え導くこと)の飛躍した章(文章)を問(といただす)。
照(あまねく光が当たる=平等)の我意を推しはかる。
照(あまねく光が当たる=平等)の趣(ねらい)が講(話)に現れる。
これは、形式上の問題ではありません。形式ということなら、夜間でも昼間とおなじようにいくらでも厳格にやることができます。だから、問題は、そういうことではないのです。夜間だと、公務としての判断がそこなわれるのです。
☆これは重要ではありません。本来(死後)というものは一日中厳しく遵守されます。だから問題はそういうことではありません。死は公の判断にゆだねられるのです。