『真理の探求』
海中ではなく室内(陸)にいて、しかも直立している魚、さらには硬質(金属)に質的変換されている。魚の特質をことごとく外しているが、どこから見ても魚としか見えない。
要するに真理(在るべき姿/道理)である条件の否定である。
海には水平線、室内には遠近法、光と影・・・ただ違っているのは魚の直立の姿。
魚類の生態の正しいデータには属さない景色を呈している。
真理はあらかじめ与えられている。後からそれを覆そうとしても断じて受容しかねるものである。だから、真理は虚偽の探求から見出されるといっても過言ではない。
(もしかしたら)の曖昧さはない。
そうだろうか・・・遺伝子組み換えの新種出現はすでに実験済みであり、脅威となっている。AIの進歩、有り得ない景色が厳然と眼の前に差し出される今日の驚異。
《絶対に有り得ない》は地球に於いて水平線の真理(物理的論理)以外の変移は《もしかしたらあり得る》として可能かもしれない。否、宇宙でさえ誕生と消滅を繰り返しているのである。
『真理の探求』とは否定の後の肯定にまで領域を広げるものかもしれない。
この画(魚)を否定する学習されたデータ(概念)、その突破口こそ「真理の探求」の入口ではないか。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
オツベルはいよいよやつきとなつて、そこらあたりをかけまはる。オツベルの犬も気が立つて、火のつくやうに吠えながら、やしきの中をはせまはる。
☆兼ねた記の律は化(教え導くこと)であり、拝(神仏などをおがむこと)を注(書き記している)。
〈こいつは、どうしたわけだろう。なぜこんなことを話すのだろう〉と、自問しながら、垂れさがった瞼の下からビュルゲルを見つめたが、自分とむずかしい問題を論じている役人ではなく、自分の眠りを妨げ、それ以外の存在理由は見つからないなにものとしか映らなかった。
☆どういうわけだ、この死は何故なんだ?と彼はたずねた。下がった瞼の下からビュルゲルを観察したが、難しい質問を話し合っている役人ではなく、眠り(死)を妨げている以外の意味を見出すことができなかった。