自分と犬との間には距離がある。犬が地中に埋められているわけでないことは、犬の目や耳の状態で察せられる。『泳ぐ犬』という作品の流れを見れば、泳いでいることは間違いない。
《自分》の位置は犬に対し直線的な前方にあると思うが、自分もまた水中にいるのか着地点を持っているのかは不明である。少なくとも、犬と自分との関係には距離があり、犬は自分の方へ向かっているという確信だけである。
犬は他者であり、自分の意思(あるいは指令)によって動いているのではないのかもしれない。犬が自分の方へ向かって来るのであって自分が向かっているのではない、あるいは自分は逃げることも可能なのだろうか。(鑑賞者は犬が飼い主のもとへ走るというありがちな光景を根底に抱いてしまう)
《自分の方へ向かう犬》は、必ずしも決定ではなく解放されている。
しかし、泳ぐ(水中)という状態故に不自由(束縛を受けている)であり、この状態から脱しなくては本当の自由には至らない。
自分は当然、手前にいるのだと思うが、犬の前方には円形の穴が(溝)がある。これは竜巻などのスクリュー状の現象(振動)に因るものではないか。とすれば、見えない壁が立ちはだかっていることの証であり、犬と自分の間には近づけない要因が存在していることになる。
他者であると同時に自分自身の心象でもある犬の存在、対象(世界)との近くて遠い障壁のある光景である。
写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より神奈川県立近代美術館