続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『急速な裸体に囲まれた王と王女』

2019-05-17 06:55:08 | 美術ノート

   『急速な裸体に囲まれた王と王女』

 急速は時間の度合いを示す言葉だが、この画面から急速のイメージは感じられないし、第一、急速な裸体というものは存在しない。急速はイメージできるし、裸体も分かる。しかしこの二単語を結ぶことによって意味が霧消している。あり得ないものを言葉であり得るかに書くというセンスは無を描くのに似ているかもしれない。
 さらに〈王と王女〉に至ってはそれを現す記号めく納得のいく材料が皆無である。言葉だけが浮上し、画面からはその要因を見つけ出すことができない。つまり描いておらず、タイトルと内容は密接な関係を持つという鉄則(観念/常識)をまるで無視する暴挙によってこの作品は提示されている。

『急速な裸体に囲まれた王と王女』はこの絵の中に存在しない。にもかかわらず、そうタイトルしたことで鑑賞者は何とか共通類似点を探索する。当然描いていない物を探すのは徒労である。
 王と王女の意味はその世界にトップに君臨する人たちであるが、その具体性が絵の中には認められない。もちろん、そのように描いたのであって、ある意味縦社会の否定であり、反逆に等しい。

 急速な裸体は社会構造に憤る平民(大衆)を暗示しているのだろうという安易な読みが成立しないでもないが、むしろそれを壊している。
 画の細部を見ると関連(連結)が有りそうで無い、接続が希薄であり見かけだけの連結、仮想であり、組み立て不可能な羅列ともいうべき被写体、光景である。

『急速な裸体に囲まれた王と王女』は分解可能な任意の物の集合であり、急速な裸体も王と王女の存在も単に部分として溶解している、換言すれば、いないのである。
 社会構造の崩壊、無に帰した光景、時間を止めた混沌の原初が垣間見えてくる作品である。


 写真は(www.tauschen.com)より


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