埃を見て感動する人はあまりいないが、何かを感じる人は少なからずいると思う。時間や空間を超越した何かである。
地球創生時からの物質の変転・・・埃も何かの一部、何かを形成していた一端であったに違いない。
物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない(宮沢賢治『春と修羅』より)
変転、変移…この塵芥に記憶装置はないが、戦慄するような過去を経過してきたかもしれない。たかが埃、されど埃である。
軽く降り積もった埃は、地下に眠る堆積物に相似する。
埃の論理である。吹き上げられた空中の微塵の累積、見えなかった微粒子が見えるものに変容していくプロセスは二つとない無言劇である。世の中における差別、美醜は観念の中には確かに在るが、取り外してしまえば差異の根拠はない。
存在の意味は、不要の排除ではなく、すべて等しく存在するしかないものの集合である。生きることは観念(データの集積)に左右されるが、排除(埃)によせたデュシャンの吐露、告白がここにある。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
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