自転車の車輪に美的価値はあるだろうか、個人の感想にもよるが敢えて鑑賞に堪えうる対象となるとは思えない。
作品としての提示は、鑑賞者との間に不思議な溝を作らざるを得ない。さりとて(解るだろう)という媚びも感じられず冷淡なまでに孤立している。有るとすれば一種の無常感である。
無用の長物、廃棄だろうか、製作途中のパーツだろうか・・・死(廃物)の影がちらつくが、破壊されたものでもない。しかしこれだけでは決して役に立つことはない。
役に立つ、有効であることが存在の条件である。未来への期待、しかし車輪は車輪でしかないゆえに時間は止められている。
回せば回る、しかし、回転による効果、有効性はゼロに等しい。
笑止…この物への愛着、確かに存在しているが、存在価値のない物である。美しい形態であり人力の形跡も認められる。何かの比喩としても考えられないこともない。
しかし、究極、ガラクタである。
回転という無為な努力(エネルギーの放出)、デュシャンはこれを見て《自分のようだ》と感じたのではないか。自分を見るごとく、自分に触れるがごとく『自転車の車輪』との関係を甘受したのではないか。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)
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