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『ゴルコンダ』
数多の人物がおり、いるはずのない空中にも当然のように存在している。
不条理であり、物理的法則を外した光景である。つまりは心象風景である。
建屋に映る人物の影、至近でないと影は出来ないと思うが、その関係に微妙に不信が過る。壁面と屋根に落ちる影でも距離によって差異がでる。
前面の三人が地上に足をつけているのかも不明でありすべての人物が真正面から見えている全身像であることも不自然であり、球体以外は上下左右の視点の差異は明確になるはずである。
ヒューマンスケールで測った窓であるならば、その前面に立つ人物が小さいのも屋根の前面にいる人物が大きいのも不自然である。
そして、どういうわけか斜めに交差する線上に規則的並び、さらにそれが重層する構図になっている。
建物は遠近法に即して描かれているから、空中のみに問題は集中しているというわけである。
この光景を正当化するには空間の方に歪みを持たせなくてはならないのだろうか。光線は波線を描きつつ真っ直ぐに進んでいると学習している。しかし、裸眼でそれを確認することは不可能である。
何より空中に何か(人物)が散在(ある種の規則性をもって)していることなど、想定外である。物理的に見える限界として微塵が浮遊していると思われ、何かが空中に浮遊している事実はある。
空中(不可視)問題である。
地中には地上より多くの生物が潜んでいると聞くが、空中への探索には確信がない。
『ゴルコンダ』不明の、しかし、確かに在るという領域への一石である。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
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