カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。
☆叙べる詞(ことば)の律は詞(ことば)で図っている。
たとえばですよ、ペーピがあんたを軽蔑しているのは、あつかましいにもほどがある。こんど縉紳館へ行くことがあったら、ぼくがしっぺ返しをしてあげますよ」
☆たとえばペーピが君を眠らずに酢ござせているのは、先祖の全くけしからんことであって、わたしの意思で、今度大群の死の入口にいくようなことがあったら、わたしはしっぺ返しをします。
ブログ、すなわち独り言である。
もともと閉塞的な性分のわたし、部屋の隅っこで呟いているのが一番心地いい。
ブログを書いていると、社会の一員であることなど忘れてしまう。現実離れした気分、まるで冥府にでも逝ったような安楽を得る。
こんなことではいけない・・・頭の隅で声がする。
「ストレスがたまって、家になんかいられないわ」という人がいる。(外へ出ることがストレスなわたし)変わり者だと思われたくないので黙っている。
つまらない人間である。
だから、無理にも外へ出る用を作って外へ自分を押し出すように工夫しているけれど、一人の時間であるブログを書いていると、やっぱり楽しい。
『花嫁』
『花嫁』そして『処女』、花嫁は婚前の状態を言うのであれば、花嫁=処女ということになり、あえて単独に描き込む要素は見つけられないのではないか。
しかし、あえて、『処女』であり『花嫁』であるとする根拠は何か。見分けられないもの、有るかもしれないが無いかもしれないという不定な領域を限定する。『急速な裸体』と称するのも同じであり、裸体に急速などという修飾・形容はない。不似合いというより言葉の中で接続不可の断絶を無理にも接続している暴挙である。
デュシャンは言葉の意味を考慮し、言葉の意味を粉砕している。言葉を本来の使用から外しているのである。
愉快と言えば愉快であり、この上ない快挙かもしれない。言葉は信じられるものとして君臨し続けているし、社会・経済・生活の上で固く守られるべき約束である。
この約束・通念のタガを秘密裏にそっと外している。
『花嫁』は本人以外の人たちが発する美称であり、『処女』は本人のみが知る状態である。これらの言葉の不確定な領域を衝き、目に見える平面へと定着させているが、作品を凝視すると、判然としない流れに惑わされてしまう。流れや構築があるようにも見えるが、追っていくとひどく頼りない線条になったり、断絶であったり・・・確たる存在感を失わせるように描いている。そのように配慮し尽しているのである。
見えるように描いているが見えず、題名を明確に伝えているが不明である。存在しているが不在なのである。不思議な欠落感は、空虚と隣り合っている。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。
☆目(ねらい)の照(あまねく光が当たる=平等)の記は、赦(罪や過ちを許す)情(感情)の談(はなし)を、詞(ことば)で運(めぐらせている)。
それに、ぼくにはそういう気持ちが理解できないが、かりにアマーリアをほんとうに軽蔑しているとしても、その軽蔑をどうしてあんたがたにまで、罪のない家族の人たちにまでおよぼさなくてゃならないのですか。
☆わたしには理解しがたいことですが、現実にアマーリア(月)は眠らずに過ごすとしても、きみたち罪のない一族にまで広げなくてはならないのですか。
先週、ブログを書いている最中に電話が鳴った。
「清一朗のおたふく風邪が、今度は左になっちゃって」という。(で、また一週間こちらに滞在というわけね、どどっ・・)
長男と三男がにぎやかにやってきて、再び大忙し。
誰が読んでくれてるか分からない淋しいブログよりも、未来を担う子供の方が大事と(自分に)言い聞かせて・・・。
こんな時つくづく、呑気にブログを書かせてもらっているのだと気づく。母の闘病介護、父のアルコール依存…そして仕事と、自分はロクな人生でなかったと諦めていたのに、今はブログ中心の毎日を送っている。けれど、そのことに甘えてはいけないのかもしれない。
孫と一緒に過ごす時間は楽しい。でも洗濯物の乾かない長雨を恨んだり・・・。
一時帰宅した息子から、「日曜日におたふく風邪の経過を医者に見せたら『一度(右)やれば菌は消滅しますから、二度目は通学可能ですよ』と言われた」と電話があった。
で、本日は無事に学校へ行くキヨちゃん。
来なきゃ来ないで淋しいよ。
『3つの停止原基』
総て任意であり、偶然性をもって原基とし、停止という否定を被せている。
1メートルの定義は地球一周の長さを4万キロメートルと決めたことが起源と聞いているが、現在では光が真空中を伝わる距離を原基としている。
要するに人間がその知覚をもって決定したのである。
ならば・・・というわけである。しかし、写真で見る限り使途不明の形態は、使用の多様性を持たず、持続・拡散・連鎖という系列に属さない。
原基というものは核であり中心であり源であるが、停止という禁止によってそこに留まるほかはない無用の長物と化している。
原基は物理的基準であるが、『3つの停止原基』は精神的なものであって、常に一回限りの刹那であり、デュシャンは、つかみどころのない無空から不定である流動の瞬間を切り取ろうと試みており、空に焦点を当てている。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
いろいろ雑多なものを片付けなくてはならないと、日ごろから考えているものの、物は日ごとに増え、積み重ねられていく。
昨夜のTVで「片づけはときめくものだけを残して、あとは処分しなさい」というレクチャーがあった。
なるほどね、《ときめき》これが分岐点なのか・・・。
靴箱なども新聞紙を敷いた上に収めるのが当然と思っていたけど、(そう、お気に入りの美しいものを敷くべき)という。
もう、戦後ではないのだと、つくづく思う。物が溢れているのに、《わざわざ質素な新聞紙を利用しなくても周りには捨てがたいようなステキな紙もあるでしょう》というわけである。
繰り返される日常の茶飯事に《ときめきをもって対処しましょう》という。
生活の何気ない視点を《ときめき》で変えていく、という素晴らしいアドバイス。
「見ないで捨てる方式」を取っていた粗暴な態度を改めなくてはと思う。
ときめきでいっぱいの簡素な室内(?)、う~ん、我が家の場合若干質素に過ぎるかもしれないけれど、これからは《ときめき》を目指そう!
かつて、森茉莉の『贅沢貧乏』を愛読していたことなどを思い出した。執着心の薄いわたしに《ときめき》は残っているだろうか。
『渦巻のある円盤』他。
円を複数重ねた図形である。
一つの中心点から描かれた円はいくつ重ねても静止状態にあるが、渦巻状にしたり、中心をずらした円を重ねると動くような錯覚を覚える。
二次元に描かれたものが、エネルギーを発する不思議。物理的な運動エネルギーではなく、錯視によって位置が動くように感じるという感覚的な幻視である。
『ロトレリーフ』『アミネック・シネマ』『日本の金魚』『ランプ』など、明らかに運動を感じる図形である。凸凹の動き、螺旋階段、あるいは落下・・・円の線条を辿る視線の狭間にある微妙なずれが運動を起こすのである。
円にはすでに巡回という運動が備わっているが、その中に更に重ねた円のズレ、ある規則性に拠っての切断などで、さらに予想外のリズムを生じさせることが可能である。
要するに静止状態のものが、感覚的な運動エネルギーを持つという錯視であり、無から有が生じることである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)