息子の家で孫が持ち帰った入学時の写真を見て驚いた。
前列中央に先生、一段目と二段目には新一年生、その後ろ三段目・四段目…には子供の両親がずらり。当然両親(大人)の方が多数を占める集合写真。
一学年は五クラス、一クラス50人近くいて後ろの壁に引っ付きそうな溢れかえっていた生徒の写真は当然先生と生徒だけだったわたしの子供時代。(ちなみに中学などは550人、11クラスあった。「わたしの中学は18クラスありました」との友人の証言もある)
溢れかえって、午前・午後の二部授業の実施もあった団塊世代のわたしから見ると、孫の世代の少人数ぶりには驚くほかない。
百歳以上が七万人以上という高齢化社会を支えていくには忍びないほどの少子化。
敬老の日の記念品も高齢者が多すぎて困惑していると聞いている。
「わたしの町内は1500所帯あるけど、そのうち百歳以上の方が15人もいらっしゃるらしいわ」とサークルで隣リ合わせた席の人が語った。
高齢者のわたし、いやはや…どういう顔でこの現実に向き合ったらいいのか分からない。
『コーヒー挽き器』
コーヒー挽き器の平面図のような作画。
デュシャンを総括的に見ると、円・回転・粉砕(変移)などに関心が深いことが分かる。つまりは、霧消あるいは回帰である。
起承転結の一巡、入口であり出口であるような円の形態、始まりと終わりの境界線を持たない永遠の持続を内包した円という形態。
閉じながら開かれている円の持つ独特な時空への憧憬。
しかし、この作画のコーヒー挽き器は機能しているだろうか、機能不可の形ではないか。
作動しているかに見えるが、作動の巡回を停止させている。
あらゆる回転・作動を沈黙のうちに停止させる、即ち破壊である。静かにも無空に帰している。
世界の動きを秘密裏に停止させ、あたかも起動し続けているように見せかけているのではないか。
不思議な息遣い、現実世界への大それた否定をそれと分からぬように提示してみせている。デュシャンの含み笑いが聞こえてくるような・・・デュシャンは未だ生きているのかもしれない。
(写真は『マルセル・デュシャン』(株式会社美術出版社刊より)
「ケンタウルス露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向ふの窓を見ながら叫んでゐました。
☆路(物事の筋道)を推しはかる談(はなし)である。
詞(ことば)で講(はなし)の双(二つ)が現れる驚きがある。
「あんたときたら、まったく気の小さいひとだね。ぼくはただフリーダを彼女にふさわしい場所に置こうとしただけで、あんたが考えているように、あんたがたをこきおろそうなどというつもりで言ったのではありませんよ。
☆という風に不安がらせるんだね、とKは言い、わたしはただフリーダが拘束された場に出頭しただけです。あなたたちを貶めようとしたわけではありません。今ではそう理解しています。
先週の吟行は相模大野の息子の家にいたので欠席の電話を入れたけど、台風のため中止になった由。
今週もとても行かれないと思っていたら、中止のための返金があるという。
やむなく子供たちの面倒を夫に頼んだら、(おむつは取り換えられないとか、泣いたらどうすればいいんだ)など、わずか5時間程度の留守にも対応できない様子。
おむつを替えるどころか何でも家事を分担している息子にくらべて…「情けない」とこぼしたら、
「お母さん、時代が違うんだよ」と、息子の優しいフォロー。
なんでもいいから、と振り切って講座に出席。
そんな訳でぐちゃぐちゃの中、ひと時の休息となった「今日から始める俳句」の句会。
最多の票を得たのは
秋風や 身をととのへて 紅茶のむ よしみさんの句。
ちなみにわたしは《いわし雲 万化の果てを 知らずして》の拙句。
日下野由季先生、叮嚀なご指導ありがとうございました。
芳賀久雄先生、「浦賀」「芦名」の冊子、ありがとうございました。(知らないことが一ぱいでした)
難しい挑戦でしたけど、凡人だということがよく分かってよかったです。
今の日本を支えているのは、働く人たちの活力である。
そして、後に続く未来を担う子供たちの育成は、何をおいても大切な仕事であるに違いない。
倹しいながら、のんびりとした老後に甘んじているわたしに一本の電話が入る。
「清一朗(長男・小1)がおたふく風邪になったので、(三男の)恵一朗と二人を連れて行く。一週間は学校を休まなければならないから、その期間よろしく・・・」
「もちろん待っているよ」の快諾。
まるで目が離せないほど活発に動き回る一歳児、「おばあちゃん、なにをすればいい?」と聞いてきてはゲームをやりたがる長男。
次男の入院を受けての大混乱…息子夫婦は会社を休めないらしい。こんな時の出番のおばあちゃん、覚悟を決めて朝から晩までそれなりに奮闘努力・・・。
なんのこれしき・・・頑張った一週間でありました。
昆虫が大好きなキヨちゃんの絵、お城も高いタワーも大好きらしい。
『九つの雄の鋳型』
九つは一応人間の職業を名付けられているらしい。
しかし人として、足を想起させるものもあるが、手はなく頭部もない。つまり人間に結びつけるには困惑がある。
そして鋳型というからには、同型のものが大量に生産、増殖される起型ということである。それぞれの異種業種、任意の鋳型は限りなく同じタイプを増殖させていく。その幻の大群(群衆)を『雄』という判別で括っている。
確かに人間を大別すると、雄(男)と雌(女)である。しかし、この鋳型から明らかに『雄』であるという根拠を示すものは無い。鋳型という硬質なイメージが多少それに加担しているかもしれない。
描かれたものであるから立っているが、非常に不安定な形態であり直立は常態ではないと思われる。
この『九つの雄の鋳型』を縫うように『停止原基の綱目』の線条が被さっている。原基とはそのものの基であり、このものの原初、始まりを暗示している。
《九つの職業⇔不定の鋳型⇔存在の原初》は《現在⇔不定⇔過去》というように時空を分散あるいは粉砕している。
この九つの雄の鋳型は見えるように克明に描写されているが、《見えない混沌の無空》を意味している。無意味に帰していると言ってもいいかもしれない。
つまり存在を露わにしているが、非存在の無空を描いたものであり、見えているが見えない深淵である。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
『フレッシュ・ウィドウ』
なりたての未亡人、夫を亡くしたばかりの妻ということである。しかし、通常フレッシュなどというポジティブな表現はしない。死はマイナーな現象だからである。
フランス式の窓という語呂合わせはどこか美しく洒落た響きがある。しかし、模したミニチュアの窓を見て、『フレッシュ・ウィドウ』を想起することは困難であって、題名は強引さを潜ませている。
言葉『フレッシュ・ウィドウ』と作品『フレッシュ・ウィドウ』と名付けられたものの関係性は極めて薄く、決裂あるいは困惑の壁が立ちはだかっている。
ミニチュアの窓を(なりたての未亡人)と題している。窓は未亡人ではないから、窓の内外にある事情を指しており、そこには荘厳なる『死』という現象があるということである。
生(フレッシュ・ウィドウである妻)と死(夫)が、この窓が被っている。新しい未亡人と新しい霊魂の混在、現世と来世の住人が背中合わせに存在しているという状況に他ならない。
フランス式の窓がその遮蔽なのか、二つの世界を遮断するものかの判別はつかない。
どちらにしても、この小さなミニチュアの窓が《現世と来世》の大きな空間を所有するという仮想であることは間違いない。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
それはもうぢきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。
町はチョウと読んで、懲。
何かはカと読んで、果。
お祭りはサイと読んで、裁。
気はキと読んで、基。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)という果(結末)であり、裁(さばくこと)が、基(根本)である。