まさかね、塩と砂糖を間違えるなんて有り得ない。ということが起きるんです。口の狭い洒落た瓶に塩を入れる人がいます?ハイ、ずっとグラニュー糖だと信じていました。(それにしても糖という字も間違えています。そんな人です、わたくしは)
残り元素
残り元素ってなに?元素はあらゆる物質の最小の要素ということだから、(残り)、残っている元素・・。万物の基本的な構成要素に残りという概念はない(はず)。
表示する記号のない頃のギリシャ哲学の四元素は《地・水・空気・火》、つきつめて考えても(残り元素)という未知の元素には至らない。
作品は戦闘機の前で手も足も出ない死の恐怖に襲われている光景である。
《生きているが死んでもいる》生死の境界ギリギリの見えない接線を想起させられる。
肉体の死滅を覚悟した精神の喪失…生命を構成している要素の崩壊である。
存在しているが、非存在になりうる危機一髪の状況。生命の重さと軽さのせめぎ合いを想起させる震撼の空気感、この触発の危機。
「残り元素」とは《空気感》である。名付けられぬ、証明を由としない不可視の元素であるに違いない。
(写真は神奈川県立近代美術館〔若林奮『飛葉と振動』展〕図録より)
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
☆化(教え導く)倫(人の行うべき道)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
修羅(わたくし)は寿(命)を吝(おしむ)講(話)を供(のべる)。
「バルナバス」と、Kは言った。「きみがどんなに熱心でも、それがちっとも成果をあげないのだったら、おれにとってなんの役にたつだろうか」
「でも、成果があったのです。わたしがわたしの官房ーええ、わたしの官房と呼んでいるんです
☆死を告白するのは、再びわたしの行いに不安を持たないようにです。「バルナバス」「あなたの勤勉さがわたしを助けたとしたら、完全に氏族は結果を得ていたし、わたしも成果を得ていたのです。
『泳ぐ犬』
犬が泳ぐというのは通常の状態ではない。眠ったり食したり吼えたりすることの出来ない態であり、泳ぐという不測の事態から脱出することが唯一の目的である。
闘争と換言してもいいエネルギーの発散は、死なないため、生きるためのエネルギーの消費といえる。
『泳ぐ犬』は、鑑賞者(任意の誰か)に向かっている。もちろん人でない場合も大いにあり得るわけだけれど、他者(目的)に向かうエネルギーが周囲の視界の質を変え、私的なものに変容されていく、その空気の位相が異種の物質に置換される幻の光景である。
見えない空気の質的変換を図る実験装置、『泳ぐ犬』における水が木質に置換されているのも一つの可能性の示唆であり、空気(雰囲気)を質量をもって物質に置き換えるという計測である。
(写真は神奈川県立近代美術館/若林奮『飛葉と振動』より)
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
☆詞(言葉)を合(あわせて)呈(差し出す)念(考え)の、修羅(わたくし)である。
こうなにもかも申し上げるのは、あなたが二度とわたしの仕事ぶりに不満をお持ちにならないようにとおもってのことです。
☆死を告白するのは、再びわたしの行いに不安を持たないようにとのことです。
無題1-1-4
少女が膝を曲げ仰向けに寝ている。蝉の口と少女の口が浮遊の空気によって結ばれている。
これは何を表明しているのだろう、蝉と少女における関連性を見いだせない。
少女は横になっている、少女の夢想だろうか。
蝉は少女を攻撃しない、ゆえに蝉は少女の夢想である。
蝉の特質として《飛行》がある、むしろ飛行する物体そのものという認識に近い。
重力に抗しきれない少女の願望が(夢の形)で遂行されるが、飛行への願望は巨大化した蝉に圧迫されている。
願望と挫折、相反する衝撃の時空が少女を通り過ぎていく。性的体験の抽象化を複合的に提示し、詩的な雰囲気を醸し出した作品である。
(写真は、若林奮『飛葉と振動』展・カタログより)於:神奈川県立近代美術館