二人は気がついて直ぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃の大空を衝ているさまが、いかにも凄じく又た美しかった。
☆字で認(見分ける)奇(風変わりな)自記を問う。
常に講(話)は、衷(こころのなか)で換(入れ替わる)。
新しい魄(たましい)を留め、分(見分けること)と掩(隠すこと)を合わせた講(話)である。
寿(命)を解(さとる)私記は、選(えらんだもの)を闢(ひらき)留める理(道理)である。
他意の句(言葉)の章(文章)を省(注意して見ると)、幽(死者の世界)を備(あらかじめ用意してある)。
わたしだって、ああして眠ってしまうチャンスがあれば、よろこんでそれを利用したでしょうし、見てはならないものを見るような真似はしなかったでしょう。わたしは、実際はほとんどもう眼も見えないくらいだったのですから、見ないですますことぐらい容易なことだったのです。ですから、感じやすいお役人たちだって、平気で姿をお見せになることができたんですよ。
☆先祖に可能性があれば、喜んでそうしたでしょう。でも、すべては考えられない諦めの一瞥、この認めることの出来ない軽い埋葬を認めることができません。だから、敏感な大勢の人たちも恐れることなく姿を現したんです。
このボトル・ラックの形、何とも均整がとれ円光のようである。並べて均等に配置された瓶の差し入れ口は斜め上方を向きエネルギーを感じさせ、上に延びていく様は風が吹いてもビクともしない頑強な塔である。
祈り、あるいは祀りを彷彿とさせるこのボトル・ラックにデュシャンは魅せられたのではないか。
この物の用途はボトル・ラック、名前が示す通りの生活雑貨であり、生産者(制作者)の意図は明確である。もちろん生活は人生の要であり美的要素は望むところである。そしてボトル・ラックという命名がある以上、その範囲でボトル・ラックを感受、受け入れるに違いない。
しかし、デュシャンは、その用途を度外視した観点で心を動かされたに違いない。
第三者的立場、誰もがそう感じるであろうという想定内の感想は言葉によって促される場合が多いし、順当である。
デュシャンが私的感想(感動)を抱くときの通常(観念的見識)との差異。
《主観と客観》の間の時空を計る、その差異ある空間こそが『ボトル・ラック』の真の提示である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放ている。
☆新しい講(話)の済(救い)は句(言葉)で行う。
吾(わたくし)の素(もとになる)文を把(手につかむ)。
逸(隠れた)法(神仏の教え)である。
幽(死者の世界)を審(正しいかどうかを明らかにし)合わせる話である。
字に逸(隠れている)他意が存る。
我(わたくし)の打つ(述べる)願いは徴(過ちを繰り返さないようにこらしめる)である。
総ての魅(死者の魂)を推しはかる講(話)は、法(神仏の教え)である。
(だから、わたしのような者が尋問を受けて参ってしまうのは、当然でしょう)、眠りこんでしまって、書類分配のときもずっと眠ったきりでおられました。
☆いかに欠点をなくしていくかは当然でしょう。眠りこみ、追いだされるときでさえも眠っていたのですから。
『ボトル・ラック』
ボトル・ラックのカタログから選んだというボトル・ラック。
空のボトルの収納である。多分、再利用のために洗浄したボトルの乾燥と他のボトルとの接触を避けるために考案されたレディ・メイドの品だと思う。
結論から言えば、不衛生である。熱消毒されたものをここに掛けては細菌の汚染を免れないのではないか。ボトルラック自体も殺菌されていれば別であるが…。家庭用であれば50本は多すぎるし、衛生管理は行き届かないと思われる。
しかし、デュシャンはこの形態を見て他のひらめきを感じたのではないか。用途としては不完全なものが形態には完全な美があると。
《宝塔》である!
どう眺め尽しても完結の威風堂々とした趣を見逃せない。ボトル・ラックだと思うから(言い過ぎになるかもしれないが)噴飯物にすぎない。
中途半端なアイデア製品、いずれ不要になり、廃棄の運命をたどると思われる新製品である。
この物は、しかしデュシャンの心を揺さぶった精神性を秘めている。
《祈り》を彷彿とさせる高揚がある。まさに宝塔であると。
しかし、あえて『ボトル・ラック』と命名したことで、デュシャンは「物は観念と私的解釈の時空を所有する」と言っている。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
「一村離れて林や畑の間を暫く行くと日はとっぷり暮れて二人の影が明白と地上に印するようになった。
☆逸(隠れた)存(考え)は理(物事の筋道)である倫(人の行うべき道)である。
将(あるいは)、言(言葉)の竄(文字文章を変える)講(話)である。
化(教え導く)簿(ノート)は、弐(二つ)を尋(聞き出し)営(こしらえ)、冥(死者の世界)に迫る。
弐(二つ)の章(文章)が隠れている。
残念ながら、わたしの疲れきった状態をよく知ってくださったとおもうのは、エルランガーとビュルゲルだけだったでしょう。このおふたりなら、わたしをかばって、それ以上事態が大きくならないようにしてくださったにちがいありません。でも、エルランガーは、城へお帰りになるためでしょうか、すぐに出かけられなくてはなりませんでしたし、ビュルゲルのほうは、たぶん尋問のために疲れはてられたのだとおもいますが
☆残念ながら、事情を知っているのはエルランガーとビュルゲルだけでしょう。すべて広がらないように受け入れたのに違いありません。エルランガーは小舟の審問から離れなければならず、ビュルゲルは明らかに本当の死へと旅立ったのです。正しく審問に疲れはてたのでしょう。
鑑賞者は床に置かれたコート掛けをどかし、あるべき位置を想起する。《ここではない》と。
この作品には《否定》(多少の憤懣)しかない。絶対に違う、という確信めく否定であり、許容の肯定はない。
しかし、これを提示したデュシャンの意図について考慮を迫られる。通り過ぎてはならない(あるいはどうでもいいが)「考えよ!」という指令である。
偶然在るのではなく、必然を以て置いた真意・・・。
床にコート掛けがある、ストレスである。
何故か? あるべき位置にないからである。
あるべき位置とは? コートを吊り下げるのに相応な高さを計算した壁面への設置である。
そう考える根拠は? 常識というより他はなく、当たり前のことである。
当たり前とは? 自然の理!重力を思えばコート掛けは床に設置するために造られたのではなく、上から下に向けられている空間に働く力(作用)を考え、利便性ゆえに相応な高さを計算した壁面への設置が望ましいというわけである。
この当たり前への問いかけ、必然とは自然の理であり、データの集積により学習された概念である。
『罠』はデュシャンの原理を問う罠である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.com
二人は疲れた足を曳きずって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持で宮地を今宵の当に歩るいた。
☆字を尋(聞き出すと)秘(人に見せないように隠したこと)がある。
化(形、性質を変えて別のものになる)を募(招き集めると)露(現れる)。
掩(おおったもの)を換(入れ替えると)解(わかる)。
審(正しいかどうかを明らかにし)、弐(二つ)を究(つきつめる)。
字に混ぜた章(文章)を問う簿(ノート)である。