近大京都オーバーレイマップを見ていると面白い。
過去の地図と現在を照らし合わせ、何かその時代の痕跡が見つからないかと考えるだけで楽しい。
今回は昭和28年の地図を見ながら近所の修学院駅近辺を探索。
この当時の地図では白川通は無く、都市計画道路として点線で描かれている。
修学院道から北山通りが計画となっていて、白川通りから宝ヶ池国際会館までの通りは計画にすら上がっていない。
でも、実際には駅伝で有名な跨線橋経由の宝ヶ池国際会館までの道が早く開通し、北山通りはその後になった。
①は鷺森神社から真直ぐの道を西へ向かい現在の白川通りに出る手前にあった牧場跡。
小学校から帰るとき牛舎の香りがプンプンしていたのを思い出す。
②は白川通り沿いを流れる太田川。
太田川は上高野あたりの高野川から取水する農業用水路。
白川通り延伸のときに合わせて整備されたみたい。
③④は音羽川と太田川の交差地点。
この音羽川を堺にした上流を第一太田川、下流を第二太田川と呼んでいる。
音羽川整備前は太田川が音羽川の下を暗渠として通っていたが、今は丸い穴から出て溜まり場を経由して交差している。
⑤、昭和28年当時は京大工学研究所となってる。
今は京都大学国際交流会館。
でもね~、自分が小学生の頃、このあたりに指月寮という障害者施設があった記憶がある。
⑥の地点は現在の北山通りとの交点。
⑦は修学院駅。
どうも昭和28年当時の都市計画図を見ると、修学院駅と北山通りの計画図が重なっている。
修学院駅が南側に後退したのか、北山通りが少しルート変更したのか定かでない。
白川通りと北山通りのあたり。
四角の赤い家のマークは営団。
営団は当時平屋の木造が立ち並んでいましたが、家屋の買い取り制度で今は新しく家が建て直され一等地となっている。
⑧⑨は白川通りを抜けた太田川。
当時あった水門の柱がオブジェとして立っている。
⑩は太田川の小さな滝。
⑪太田川のカーブは当時のまま。
⑫⑬は太田川の水門。
設置された年代はわからず。
⑭は太田川と一乗寺川の合流地点。
ぶらぶら歩いて7,000歩でした。
今度、太田川のルートや疎水のルートを探索してみたい。
なかなか楽しいです。
先日は図書館にあったパンフレットに、昭和30年代の市内の住宅地図があり、
小学生時代を思い出しました。
ウン十年前は過去の地図を買うにも高価で手がでませんでした。
今は便利な世の中になりましたね。
現在の地図と昔の地図を見比べるのが面白く、当時を振り返りながら「あっ、ここでこんな事があった」とか、記憶をたどるのも楽しいです。