画・江嵜 健一郎
1月17日、29年前の午前4時47分、M7.3の直下型地震が神戸を中心に襲った。2024年は、M7.6の能登半島地区を直撃する巨大地震から始まった。29年前の地震は今も身体が覚えている。
今年の地震は、どんと来て数秒横揺れがした。神戸の時もそうだった。その後伝えられる能登の惨状に心が痛む。自然の計り知れない怖さを改めて実感する。ピアノが2メートル飛んだ。台所のお皿などが転落した。ガラスが廊下などに散乱した。風呂桶に水を張っていたが空っぽになっていた。金魚鉢は金魚と共に跡形もなかった。軍手、靴下、帽子は有効だった。水は欠かせないがポリエチのゴミ袋は万用だ。かさばらないので携帯しておくと便利かもしれない。こたつ掛けの上に置いて寝たあとなくしたメガネはあとこたつ敷きの下から出て来た。
今住んでいる自宅マンションは全壊した。自宅から2キロほどはなれた阪神青木駅前にあった里の家は2階は天井が落ち原型をとどめない状態だった。1階は縁側は雨戸が吹っ飛び廊下を隔てて障子の桟が身体をよじらせながら残っていた。崩れ落ちた玄関から奥に入った。寝床に入ってままだったが奇跡的に助かった父と叔母を引っ張りだし事なきを得た。
断りもなく瓦が頭を直撃した。余震のせいである。厚めの帽子を被っていたので助かった。ドカンときたあと数日余震が間断なく続いた。能登地震では余震が2週間以上経った今もあると言うから言葉もない。今回の能登の地震は神戸の比でないと想像できる。神戸は国土地理院のひとから90センチ動いたと聞いた。能登は3メートル以上動いたという。海岸が隆起して砂浜が新しく出来たと伝えられる。
里の全壊家屋は公的資金で解体され更地になった。解体の連絡が神戸市からあったのは震災日の1カ月近く後だった。解体費用を震災直後は300万、いや500とかの闇値で平気でふっかける悪徳商売が横行した。
震災当日、破損を免れた長男のマイカーで老人二人と家内長女長男は大阪の家内の里宅に避難した。筆者は犬のジローと国道2号線芦屋川手前で降りた。あの時降りて里の家に残されためぼしい品物などを詰め込めるだけバッグに入れ、倒壊を免れた遠縁の部屋に一時預かってもらえたので助かった。
翌日倒壊した里の家を訪ねたとき部屋中が何もかもが散乱していた。葬式ドロボーという、あれである。近くのスーパーの棚もあっという間になくなったという。大震災の中、神戸の人は冷静沈着に行動したという美談があるが全くのつくり話である。住民は冷静でもドロボーにとっては稼ぎ時となる。
震災の経験でひとこと言えと問われたら迷わずトイレと答える。尾籠な話で恐縮だが食べれば出る。地元の小学校は遺体安置所と避難民と共用だった。雑魚寝状態だったが、特にトイレは惨憺たる状況だった。生理現象には勝てない。校舎の裏は密かに処理するため汚物で足の踏み場もなかった。マスコミは美しく報道する。災害には何でもありになることを、特に子供達には時に話しておくことが大事だと思う。
震災のあとの更地の一部に花を植えている。昨年暮れから寒水仙が咲き始めた。水仙と目線を合わせて描くため、お尻をつけてスケッチした。
白の色紙に鉛筆で描き自宅で彩色、1月17日朝仕上げた。水仙の足元に、露払いと太刀持ちに小菊を入れた。白地の色紙に描くのは今回が初めてだった。バックに色を付けないのもはじめてだった。白地に絵を描くのも悪くないなと自画自賛している。
花を描いていると元気を貰える。いつも花と話し合いながら描いている。花がだんだん綺麗になってくるように見えるから不思議である。いま日本が息苦しいのはお互い声をかけなくなったからかもしれない。ヤッホー言えばヤッホーと答える世界が待たれてならない。(了)