思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

人事院の権限を奪うというのは、危険思想ではないですか?

2009-01-28 | 日記
国家公務員の幹部人事を、「内閣人事局」(「内閣人事・行政管理局」に名称変更)に【一元化】するという公務員改革は、「人事院」の独立性を奪うものですが、これは、果たして改革になるのか否か?重大な問題が潜んでいるように思えます。

時の政権が人事の全権を握れば、公務員の政治的中立性・国民全体への奉仕という観点からは、マイナスになるのは間違いありません。
民主主義の原理から考えれば、「一元的」という発想は恐ろしいことではないでしょうか。個々の判断を行う責任の所在は明瞭にしつつも「多元的」であることが求められるはずです。政府を構成するのは、時の選挙結果による多数党ですが、そこに表された主権者の意思を現実化することと、公務員人事などに代表される長いスパンで見られる安定性=中立性を担保することは、別次元の話であり、並立視するのは誤りです。むしろ、市民の良識に従って、積極的に改革を促進するような人事を「第三者機関としての人事院」が行うことが求められているのであり、改革の核心は、現在の人事院の実態(まったく他の公務員と同じ基準・テストで採用が行われ、第三者機関としての徹底性に欠ける)を変えるところにあるはずです。

第三者機関としての人事院という発想は、民主主義の原理から導かれているものであり、この独立性を奪えば、政治(=時の政権)の一元支配になります。それは逆に、霞が関官僚の力によらなければ政治も行えないわが国の現実を踏まえると、内閣に一元化された人事を、実際に仕切る役の官僚が支配することになります。
それは、戦前の「内務省」のような、誰も触れられない一部エリート官僚(東大法学部卒の中でも国家エリートという特権意識を持つ人間群)が国を牛耳る道を開くもの、とさえ言えるのではないでしょうか?

わたしは、公務員改革という名を借りた危険な「陰謀」を感じます。政府案を実際につくっている官僚の思惑はなにか?

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2月1日・【白樺文学館】と『白樺教育館』ー白樺スピリット10周年の集い

2009-01-26 | 日記
2004年1月に完成した『白樺教育館』は、同年2月1日(日)に、落成記念の集いをしました。当日は、集合写真に写っているだけでも61名の方が駆けつけてくれました。

1999年2月にはじまった【白樺文学館】を生み出す努力は、わずか2年たらずで開館にこぎつけるという荒業でしたが、
①白樺派の位置づけと、文学館の理念づくり、
②まったくゼロからの資料収集(神田神保町の八木書店さん経由の買い付けを中心に)、
③土地の買取、建物のコンセプト、設計会議、
④家具やオーディオ等の選定、基本デザインなど、
そのほとんどをわたしが手がけたのでした。

2001年1月11日の文学館開館から同年8月31日までは、わたしが初代館長を務め、その後をオーナーの佐野力さんが受け継ぎ、今年4月からは我孫子市に移管されます(佐野さんが市に寄贈した為)。
わたしは文学館館長を辞して後、〈白樺スピリット〉を活かす教育の場である「ソクラテス教室」(創立は1976年)を発展させるための拠点として『白樺教育館』の創設に着手し、2004年2月1日に落成式を迎えることができたのです。

1999年から数えて5年間にわたる白樺精神(「恋知」としての哲学実践である「民知」という考え方を基盤とした市民精神)をつくりあげる基盤的努力が成就した象徴の日が、2004年2月1日(日)であったわけです。

その記念すべき日からちょうど丸5年が経過した今年2月1日(日)に、『白樺教育館』落成5周年の集いを行うことにしました(前身である「我孫子児童教室・ソクラテス教室」からは33周年)。≪白樺スピリット≫をよみがえらせるための営為からは10周年にあたります。

『白樺教育館』の理念に賛同される方、また興味をもたれる方は、ぜひご参加下さい。
参加費は無料です。場所等は、『白樺教育館』ホームページをご覧ください。
(☆写真は、2004年2月1日、白樺教育館前で)

2009年2月1日(日)午後2時より。
『白樺教育館』(我孫子市寿1-20-1)にて。


武田康弘
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相撲も内容の魅力だ。感動!朝青龍

2009-01-25 | 日記
こんなにドキドキして相撲を見たのは、久しくなかったことです。
やっぱり朝青龍の相撲は面白い、闘志をむき出しにし、この一番に集中する様は、なんとも魅力的。
マスコミあげてのバッシング、これでもか!というような批判と非難の嵐、加えて怪我が完治しない悪い体調を乗り越えての優勝に、わたしは心底感動しました。
NHKのアナウンサーも、興奮・感動のあまり声がうわずっていましたが、何事も中身のよさ=面白さ、緊迫感、魅力なのですね。
優等生に魅力はありません。既成の枠をつき破るようなパワーがなければ、エロースは消え、この世は色を失います。組織に依存しない個人の魅力は、なにものにも代えがたいもの。


武田康弘


一夜明け、マスコミは絶賛の嵐(笑)。


★27日追記

ガッツポーズが問題だ!品位に欠けるから注意するー横綱審議委員というどう見ても爽やかでない顔のおじさんたちが文句をつけていますが、当日の流れからは、ガッツポーズは、自然で感動的でした。儀式・形式主義による物言いが、悦び・面白み・楽しさを奪ってしまうのです。


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オバマ大統領は、話し方がうまい?のではなく、理念、精神、内容が優れているのです。

2009-01-22 | 日記
マスコミではオバマ大統領のスピーチの仕方に感心し、それを学ぼう、とさかんに言われていますが、
オバマ氏が優れているのは、誰よりも強靭な【理念】であり、不退転の【精神】であり、そこから生まれる豊かな【内容】なのです。

それがあってはじめて「優れたスピーチの仕方」は意味をもち、価値が生じるのです。

元=優れた理念や精神や内容は、どのようにしたら生み出せるか?それこそが核心であるにも関わらず、仕方=やり方に感心する、というは、なんとも愚かで悲しい話です。

どうもわが日本では、理念や思想の持つ意味・価値が認識されず、ただやり方や損得だけに関心が集まるようです。

なんとしても、この逆立ちした想念を変えなければ、よき社会は開けないですね。

(※しかし、アメリカの主要ポストの多くをユダヤ人が占めているからとはいえ、無差別爆撃と殺戮を繰り返すイスラエル軍の行為を、「自衛のための行為は支持する」という詭弁で逃げるのにはガッカリですね。アメリカ大統領の限界なのでしょうか?さらに一歩踏み込んで思考し、発言すべきだと思います。)


武田康弘
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東京都教育委員会の公務員倫理に反する強権は、明白な憲法違反です。

2009-01-20 | 日記
昨日、東京地裁で一部教師側勝訴の判決が出ましたが、
「君が代」斉唱のときに起立しなかっただけで、「懲戒免職」というのには、呆れる同時に公共的な怒りを覚えます。

このような馬鹿げた判断を教育委員会がするのは、石原都知事の国家主義思想(=個人の前に国家があるという逆立ちした想念)に基づくわけですが、これは、思想信条の自由、良心の自由を保障する「日本国憲法」に明白に反する行為です。

自由の相互承認に基づくルール社会=市民主権の民主主義社会の原理とは異なるこのような権力行使を行う公務員は、憲法の精神を踏みにじる者であり、公務員倫理に反する者である、そう断じる他ありません。

わたしたちは、国家主義の政治家と官僚の言動に対して、きちんと反対の声をあげるという市民の責任を果たしていこうではありませんか。

基本人権とは、憲法にも書かれている通り、国民の不断の努力により維持されなくてはならぬものです。市民精神に則り、互いの協力・努力により民主主義の思想を徹底していきましょう。

愚かで危険な国家主義をその発生源から断つのは、わたしたち市民の「良心の声」以外にはありません。

※(訂正)
石原都知事の国家主義は、個人と国家との関係性の問題というよりも、自分=石原慎太郎という一人の人間の言動が、国家利益を代表するものであると信じ込む【超自我主義】という方が正確でしょう。その意味で、国家社会主義を掲げたドイツ・ナチ党のヒトラーの思想と重なります。
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ユダヤ人たちの反戦運動ーグシュ・シャロームのウェブページより

2009-01-19 | 日記
とても元気が出る記事が、森田明彦さんから「公共哲学ML」に転送されましたので、ご紹介します。狂気としか評しようのない【イスラエルの国家主義者】に対して、良識あるイスラエル人(ユダヤ人)たちの反戦の運動の模様です。

どこの国においても一番その国を狂わせ「市民益(国民益)」を害するのは、【国家主義】です。もういい加減にこういう「愚かな思想」に人類は終止符を打たねば、明日はありませんね。



以下、グシュ・シャロームのウェブページより、同デモの記事の
邦訳です。
〔邦訳: 岡真理/TUP; 凡例: (原注) [訳注]〕
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2009年1月3日 (土)
テルアビブで大規模反戦デモ

エフド・バラク[イスラエル国防大臣]がガザに対する残虐な地上
攻撃を軍に命令していたその頃、テルアビブでは、イスラエル
全土から駆けつけた、戦争に反対するおよそ一万人の人々が、
一大デモ行進を行った。テルアビブの幹線道路のひとつである
イブン・グヴィロル通りの 4車線すべてデモの人々で埋め尽く
された。参加者は、ラビン広場からシネマテックまで2キロの
道のりをずっと歌を歌い、旗を振りながら行進した。

「選挙戦は子どもたちの死体の上でするものじゃない!」参加者
はヘブライ語で韻を踏みながら叫ぶ。「孤児や未亡人は選挙宣伝
の道具じゃない!」「オルメルト、リヴニ、バラク! 戦争は
ゲームじゃない!」「全閣僚が戦争犯罪者だ!」「バラク、バラク、
心配するな――ハーグ[国際刑事裁判所]で会おう!」「もうたく
さんだ――ハマースと話し合え!」

プラカードの文句も似たようなものだった。バラクの選挙スロー
ガンをもじったものもあった。たとえば「バラクに愛想がないの
は、殺人者ゆえ!」(バラクのスローガンの原文は「バラクに愛想
がないのは、指導者ゆえ!」)。こんなのもある「2009年『選挙』
戦争に反対!」「6議席戦争!」。これは、戦争初日の世論調査で、
バラク率いる労働党が 6議席獲得の見込みと出たことに当てつけ
ている。

このデモ実施の前には、警察との衝突があった。警察は、右翼の
暴徒がデモ隊を攻撃するのを抑えることができないからと言って、
デモを禁じるか、少なくとも制限しようとしたのだった。なかで
も、警察はデモの組織者たちに、参加者がパレスチナの旗を掲げ
るのを禁じるよう求めてきた。組織者たちは高等裁判所に請願し、
結果、裁判所は、パレスチナの旗を合法と判断し、警察にデモ隊
を暴徒から守るよう命じた。

デモの実施は、グシュ・シャロームと、平和のための女性連合、
壁に反対するアナーキスト、ハダシュ、オルターナティヴ情報
センター、ニュー・プロファイルなど 21の平和団体が決定した。
メレツとピース・ナウは公式には参加していないが、同団体の
多くのメンバーがデモにやってきた。[イスラエル]北部からは
約1000人のアラブ系市民が 20台のバスを連ねて到着した。
サクニーンで行われたアラブ系国民主体の一大デモを終えて
すぐその足で来たものだ。

組織者たちにとっても、これだけの数の参加者があったことは
驚きだった。「第二次レバノン戦争開始の 1週間後、私たちが
反戦デモの動員に成功したのは 1000人だけだった。今日、1万人
の人々が参加したという事実は、戦争への反対が今回ははるかに
強いことの証だ。もしバラクが自分の計画を続けるなら、世論は
数日で全面的に戦争反対に転じるかもしれない。」

グシュ・シャロームの巨大な旗にはヘブライ語とアラビア語と
英語で次のように書かれていた「殺すのを止めろ! 封鎖を止めろ!
占領を止めろ!」。これらデモのスローガンは、封鎖の解除と
即時停戦を求めるものだ。

この抗議行動の日、極右は力ずくでデモを粉砕するために動員を
かけた。警察は暴動の阻止に極力、努め、ラビン広場からシネマ
テック広場までの 1マイルの行進は比較的平穏に運んだ。しかし、
参加者が警察との合意に基づき解散し始めたとき、右翼の一大
群集が彼らを攻撃し始めたのだった。警察は、それまでは両陣営
を近づけさせないようにしていたのだが、その場から姿を消した。
暴徒はこのあと、デモ隊の最後尾の参加者たちを取り囲み、嫌が
らせをし、小突き回した挙句、デモ参加者たちの最後の何人かが
シネマテックの建物に逃げ込むと、建物を包囲した。暴徒は建物
の内部に押し入ろうとし、 デモ参加者を「片付けてやる」と
脅したが、ぎりぎりになって何人かの警官が到着し、入り口を
守った。暴徒たちは長いこと、その場を立ち去らなかった。

このような状況のため、行進の最後に予定されていた市民集会を
開くことは不可能となった。スピーチもなされなかった。以下は、
グシュ・シャロームを代表してウリ・アヴネリがするはずだった
スピーチの英訳である。


私たちは
裏切り者だといわれる。
私たちは
イスラエルを破壊する者だといわれる。
私たちは
犯罪者だといわれる。

しかし私たちは言い返そう、
犯罪者とは
この犯罪的で無益な戦争を
始めた者たちだと!

無益な戦争、
なぜなら政府が
150万の
ガザ住民に対する
封鎖をやめさえすれば
カッサーム・ロケットを止めることは
できたのだから。

犯罪的な戦争、
なぜなら、なによりもまず、
これは公然にして恥知らずにも
エフド・バラクとツィピ・リヴニの
選挙戦の一部だから。

エフド・バラクを告発する。
国会の議席数をふやすために
イスラエル国防軍の兵士を利用したかどで。

ツィピ・リヴニを告発する。
自分が首相に
なるために
殺し合いを奨励したかどで。

エフド・オルメルトを告発する。
悲惨な戦争を利用して
腐敗と汚職とを
糊塗しようとしたかどで。

ここにいる
勇気と分別ある聴衆を代表して
この演台から
私は彼らに要求する。
今すぐ戦争をやめよ!
無益に私たちの兵士そして市民の
血を流すのをやめよ!
ガザの住民の
血を流すのをやめよ!

地上部隊の侵攻によって
もたらされるは
さらなる惨事、
大虐殺の応酬、
そしてなにより
おぞましい戦争犯罪!

この戦争の後
どの将軍も
戦争犯罪のかどで
逮捕される恐怖を抱かず
欧州の地に
足を踏み入れることはできまい。
他に方法はないと
私たちは言い聞かせられている。
それは違う!!!
今でさえ、そう、まさにこの瞬間にも、
停戦は可能なのだ。
わたしたちが殺人的な封鎖を
解除することに同意するならば、
わたしたちがガザの人々が尊厳をもって
生きることを認めるならば、
わたしたちがハマースと対話するならば。

南部の人々、
スデロット、
アシュドッド、 ビールシェバの人々よ、
聞いてほしい。
私たちとてあなたがたの苦しみは分かる ――
ともに住んでいるわけではなくても、
よく分かっている。
でもこの戦争が
あなたがたの状況を変えはしないということもまた
私たちは知っている。
政治家連中はあなたがたを食いものにしている。
政治家連中はあなたがたに乗じて
戦争を行なっている。
あなたがたも分かっているでしょう!

オルメルト、バラク、リヴニに
要求する。
兵士をガザに送るな!
お前たち 3人とも、戦争犯罪人として告発されるだろう!
お前たち 3人とも、この代償を払うことになるだろう!

今、お前たちに敬礼している
イスラエルの大衆は
明日はお前たちを罰するだろう。
それが第二次レバノン戦争で
起こったこと。
それが今度もまた
起こるだろう!

そしてここに立っているみなさん、
老いも若きも
男も女も
ユダヤ人もアラブ人も、
この身の毛のよだつ戦争に
最初の日から、
最初の瞬間から、
孤立し毒づかれながらも、
抗議の声をあげたみなさん ――
みなさんこそが真の英雄です!

誇りに思ってください、
心から。
みなさんはヒステリーと無知の嵐の只中にいて
吹き飛ばされることもなく
しっかと立っているのだから!
家庭のなかだけでなく、
ここ街頭においても、
皆さんは正気を保っています!

世界中の何百万の人々がみなさんを見ていて、
敬意を表しています。
みなさん一人ひとりに。

一人の人間として、
一人のイスラエル人として、
一人の平和を求める者として、
わたしは今日
ここにいることを誇りに思います。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
原文: "MASSIVE DEMONSTRATION AGAINST THE WAR" (Saturday 03/01/09)
平和人権団体 Gush Shalom のウェブページ上の英文声明
URI: http://zope.gush-shalom.org/home/en/events/1231029668
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ジョルジュ・プレートルがつくる音楽?職人技に支えられた豊饒な主観性

2009-01-16 | 日記
ジョルジュ・プレートル
1924年8月14日 生まれのフランスの指揮者(アンドレ・クリュイタンスに師事)。


プレートルのつくる自由でこだわりのない音楽は、実に豊かです。
音楽の表情は(指揮する顔の表情も)変化に富み、飽きることがありません。
明晰にして豊饒です。
プレートルの音楽の豊かさは、アインザッツに無頓着で、各プレーヤーの自発性に任せていることに一因があると思います。
また、テンポも、プレートルの心身に忠実に刻まれているようで、聴いていて心地よいものです。ただし、楽譜の指定とはかなり異なることもあるようですが。
何より素晴らしいのは、音楽学的な窮屈な感じが全くなく、楽曲の意味が判然と伝わることです。全体がわしづかみにされて、明瞭に示されるので、とても分かりよいのです。

プレートルは、内外(フランスとオーストリア)で大きな音楽賞を受賞していますので、「異端」ではないはずですが、彼のつくる音楽は、ベートーヴェンやマーラーの交響曲においても、従来の演奏とは様相が大きく異なります。意味が濃く、表情がとても豊かで、分明かつパワフル。楽しいのです。楽譜に書かれた音楽が「客観」として示されるのではなく、プレートルという人間の「主観性」のエロースに満ちているので、面白く、長大な交響曲も繰り返し聴きたくなるのです。彼の主観性の豊かさ・魅力は、長年、オペラの指揮で身につけた確かな職人技に支えられているので、強く安定しています。

2008年、ニューイヤーコンサートの指揮者としてウィーンフィルの楽団員が選んだプレートルは、83歳にして突如大注目されるようになりました。昨年、録音後17年間もオクラになっていたマーラの交響曲・第5番、第6番が、『レコード芸術』誌で特選盤となり、第5番は、2008年度の「レコードアカデミー賞」・大賞も受賞しました。

従来の「客観主義」による正確・緻密な演奏とは大きく異なる「主観性」の豊かさに基づく演奏が、このように高く評価されるようになって、わたしは嬉しい限りです。
いま、時代が、更に言えば、人類の文化・文明が大きく変わろうとしているのかもしれません。なんだか、ワクワク、ドキドキしますね~。

ベートーヴェン交響曲第9番http://www.hmv.co.jp/product/detail/3307280
マーラー交響曲第5番http://www.hmv.co.jp/product/detail/2675266
マーラー交響曲第6番http://www.hmv.co.jp/product/detail/2675267


武田康弘
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『欲望としての他者救済』金泰明(キムテミョン)著ーー「私」と「他者」・武田の見方

2009-01-15 | 日記
本書 『欲望としての他者救済』の帯にあるー「なぜ手を差しのべようとするのか?」「自分のために助けるのか、他者を想って助けるのか」―を見て、わたしは、あれっ、へんな「問い」だな、と思いました。元にひねれた想念があるから出てくる「問い」ではないでしょうか。

人間は、誰でも自分の心身を気遣いますが、それと同時に動物や自然を含めた他者を気遣う存在です。それは子供たちを見れば一目で分かります。他に手を差しのべようとするのは自然の情であって、特定の考え方や価値観を刷り込まれていない限り、皆がそうします。同情などの感情についても同じです。

人間は、かけがえのないこの「私」の存在を肯定し、よく生きるためには、他者を必要とします。互いに他者を必要としているので、助け合うことが必然なのです。他者の内の私であり、環境の内の私であることは、子どももみな知っています。だから、ことさらにバランスを欠いて「私」の得だけを考えるというのは、人間存在の自然性が崩れている証拠だと言えます。

現代社会のイデオロギーは、知・歴・財の所有の多寡を競う競争主義ですから、人間の自然性は歪められて、自我主義へと堕ちています。そうだから、手を差しのべる、というふつうの行為に「なぜ?」という疑問符がつくのです。

「私」が自分のことだけを気遣うと、私のよさは花開きませんし、私の得だけを考え、知・歴・財の所有競争をしていては、いつまでも幸福はやってきません。「私」の存在の豊かさ・魅力を伸ばすことへと生き方をシフトすることが求められるはずです。

互いに助け合うこと=手を差しのべ合うことは、それぞれの「私」がよく生きる=存在の魅力を開くことの基本条件です。他者を助け、他者から助けられることは、人間の自然性で、それを明晰に自覚すると、人間関係はスムースになります。

書評を書くつもりが、わたしの考えの提示になりました。

本書は、豊富な著者の体験談に溢れていて、哲学者や社会思想家の言説も生活世界の中で検討され、意味づけられていますので、分かりやすく有益です。このような書き方は従来なかったもので、新しい思想の世界を切り開いた書と言えます。著者、キムテミョンさんの独自の体験が、センやロールズに代表される現代社会思想の欠陥(「他者の優先」という不自然な主張)を衝く土台となっていて、説得力があります。

ただし、テミョンさんのような、自己への愛と他者への愛をはっきり分ける論理は、わたしの生の実感からは遠く、著者の結論=「自分に余裕があるとき、あるいはそうしたいと思ったときに、他者を救済すればいいのだ」は、ピンときません。他者救済をしなければならない、という脅迫観念を持っている人には意味がある言説かもしれませんが。
わたしは、「私は他者と共によろこびたい」という欲望を持ちますので、自己愛か他者愛かという問題は、一つメダルの表裏のように思えるのです。ともあれ、ぜひご一読されて、この新しい思想の書についてご検討下さい。http://www.amazon.co.jp/%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BB%96%E8%80%85%E6%95%91%E6%B8%88-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%87%91-%E6%B3%B0%E6%98%8E/dp/4140911212/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1232004586&sr=8-1

武田康弘

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愛とは、触れ合いのこと。

2009-01-12 | 日記
人間が生きる上で一番大切なものは何か?
と問われれば、
わたしのみならず、ほとんどの人が「愛」と答えるでしょう。

では、愛とは何か?と問われれば、なんと答えましょうか?
それは、端的に「触れ合い」のことだと思います。

昨日、亡き父の百ケ日でしたが、
わたしが幼い頃、父は、毎日のように体遊びをしてくれました。
抱き上げたり、ぐるぐる回したり、高い高いをしたり、指相撲・腕相撲をしたり、
冬は、寝ているふとんの上に覆いかぶさって、暖めたりもしてくれました。
面白いお話も毎晩してくれました。

父は、子どもや動物がとても好きでした。

愛とは、触れ合いのことだ、とつくづく思います。
観念的なものではありませんし、もちろん自己犠牲などでもありません。
ただ、双方にとって何よりも嬉しいものです。

人間にとって、人と人の関係にとって何より大事なのは、触れ合い=愛だと思います。
心身の触れ合いは、理論ではなく実践です。


武田康弘

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大企業経営者や高級官僚はワークシェアリングしないのですか?

2009-01-10 | 日記
「ワークシェアリング」を言う経団連会長(キャノン会長)、大企業経営者たちの法外な給与はどうするのですか?
まず経営者自身が「優雅な生活」をやめることが先決でしょう。役員の給与は半額以下にすべきです。

労働者と経営者の生活がこれほどかけ離れている現状を変えなければ、階級支配ー「エリート」が大衆を支配する暗黒社会になります。

また、高級官僚と言われる人たち、たとえば日銀の役員の給与の高さ、なんと年収3000万円近くになる報酬(総裁は3000円を超える)。これは全部主権者であるわれわれ市民の税金です。身分が保証され、社会的地位が与えられ、身の危険もない仕事をしている人たちが高額所得を得るということは、倫理上許されないはずです。

人の尊厳を守らず、大きな経済格差をつくるシステムを変えなければ、民主主義はお題目に過ぎなくなります。ほんらい、社会とは助け合い=「チーム」であるはずです。一部の人間だけが「いい思い」をするような社会は、深部から腐ります。大変危険です。

世界最高の光学機器メーカー「カール・ツイス財団」の創設者であるエルンスト・アッベ(光学博士。企業経営者にして労働運動家でもあった高潔な民主主義者)の思想や生き方に学びたいものです。


武田康弘
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プレートルの第九は、新年にこそふさわしい!!

2009-01-06 | 日記
闘いに勝った、ついに、外をも制する「内なる闘い」に勝ったベートーヴェンのよろこびの交響曲。そういうコンセプトの下で奏されるプレートルの第九は、実に生き生きとし、晴れやかな美に溢れています。

わたしは、12月16日のブログに「今年の暮れはプレートルの第九で」と書きましたがhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=1024473138&owner_id=548859、聴き込むうちに、どうも暮れに一年の締めくくりとしてではなく、初々しく新年を迎えるのにピッタリだ!と感じましたので、訂正します。「プレートルの第九は、新年にこそふさわしい!!」と。

みんさん、ぜひ購入してお聴きくださいhttp://www.hmv.co.jp/product/detail/3307280。なにものにも負けない偉大な精神を感受して、深く大きなよろこびを持つでしょう。


以下は、先月ですが、「プレートル」というコミュニティでのやりとりです。


今月(2008年12月)の新譜で素晴らしい「第九」が出ました。

2008年のニューイヤーコンサート、熱く感動的な指揮で聴く者を魅了したフランス楽団の大御所ジョルジュ・プレートルのベートーヴェンです。
もう大昔になりますが、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」全曲や、ビゼーの「カルメン」全曲(カルメンはマリア・カラス)で、その豊かな情感と艶やかな音楽にほれ込んで、わたしが長年愛聴してきたLP(両者共にCD化されています)の指揮者がプレートルです。

彼の第九は、実にチャーミングです。もう84歳(録音時は82歳)のプレートルは、ほんとうに若々しく情感豊かです。若い指揮者よりもずっと音楽が瑞々(みずみず)しく、色っぽいのは不思議です。響きのふくよかな美しさは、今はすっかり失われてしまったものですが、明晰で緊迫感をもった大迫力の演奏がしなやかで柔らかい音で奏でられているのですから、聴き手は大きな幸福感に包まれます。今年の年越しは、情感あふれる見事なプレートルの「第九」を!(このCDは音量レベルが低いので、ボリュームをあげてお聴きください)

タケセン(武田康弘)
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
タケセン様

おおおおお、なんと素晴らしい。

巨匠の感性の指揮、明日早速買ってこなくては。

この年齢にして情熱的な指揮振りとは、素晴らしいスーパーご老人です。

(カルーア@紬子屋)
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カルーア@紬子屋さん

12月10日発売ということでしたので、HMVで予約しておいたのですが、8日に届きました。すでに6回聴きましたが、聴くほどに好きになる「豊かな」演奏です。艶と色気がなんとも素敵!豊穣でかつ怒涛の迫力です。

カルーア@紬子屋さん、早く聴いて~~(笑)。

(タケセン)
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カルーア@紬子屋、タケセンさまこんにちは
タケセンさま、はじめまして

新譜、教えていただいてありがとうございます。
私もやっと買って聞きました。
ミクシィのレビューにのせましたので、どうぞタケセン様もお書きください!

プレートルは大好きですが、ほんとをいうとあたりはずれの大きい方ですから、ちょっと躊躇しました。
でもこれはあたり!
実は大人になってからきらいになった作曲家の一人にベートーベンがありまして。なんでかっていうとダサいんですね。こんなことを言うと矢が飛んできましょうか。
しかしプレートルがやるとダサくない。そして力強さもちゃんと残っている。ベートーベンさまごめんなさい、本当はこう書いたつもりだったのに、みんながベートーべンとはこう演奏するもんだというあたまで誤解して演奏してたのかも。
というのはプレートル好きのバイアスがかかっているかもしれませんが、客観的に言えば、こんな↓かんじでしょうか。
まず「コラール」であるということ。「合唱付」じゃないんだってはじめて気がつきました。オケの間だけじっとがまんして、合唱になるとわあーーというあの感じがまったくありません。全体の一部なのです。「サムソンとデリラ」に名盤のあるプレートルならではの曲の扱いだと思いました。
それから合唱団。ウィーンだけどやっぱりドイツ語圏であってフランスのとは違うということをちゃんとつかまえています。うまくいえないけど、ホフマン物語で最初に出てくる学生の合唱、あの感じです。
最後にテンポですけど、ほんとプレートル!
まったく勝手なんだから、マエストロ。』

(saffi)
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saffiさん

『「コラール」であるということ。「合唱付」じゃないんだってはじめて気がつきました。オケの間だけじっとがまんして、合唱になるとわあーーというあの感じがまったくありません。--------- 』

というsaffi さんの指摘は、なるほどです。

わたしは40年間以上ずっとベートーヴェンの音楽を愛好してきましたが、このプレートルの演奏は、ほんとうに愛すべきもので、音楽的な躍動感に溢れた幸福な演奏です。現代にあってこのような演奏を可能にするのは、極めて強靭な精神があってのこと、強くそう思います。

(タケセン)
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タケセンさま

「現代にあってこのような演奏を可能にするのは、極めて強靭な精神があってのこと、強くそう思います」(タケセン)


本当ですね!

世代も違うし音楽教育も変わっているはずで、きっと思いどおりにはならないでしょうけど、それでもやってのけるのがすごいと思います。プレートルは、若いころはよく怒ったが今はそんなでも、と何かのインタビューでおっしゃっておられましたが。

いいCDを教えてくださってありがとうございました。
(saffi)
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哲学とは、広義の「実存主義」のことです。

2009-01-02 | 日記
以下は、昨日の「白樺ML」の一部です。


新年を迎えました。いかがお過ごしですか。

・・・・・・さて、恋知(哲学)とは、自分自身の存在と生活を見つめ、そこから善美への希求を持つものなので、広義の「実存主義」です。国家の権威や経済的支配力を「はるか下に見下ろすもの」(ソクラテス)と言われるのは、その意味です。わたしとあなたの生を超える価値はない、これが絶対の前提ですから、哲学する人は、どのような権威や権力や金力にも頭を下げません。頭を下げるのは、人間的な柔らかい心が生む善美にです。生き生きとした輝き、子どものように自由で楽しい生を永続させようとするのが、哲学の意図なのです。

今年も、「ソクラテス教室」、「愉しい哲学の会」、(「とわの会」)、「民知の会」の発展のために、ぜひみなさんの力を貸してください。よろしくお願いします。


武田康弘
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哲学は「研究」ではありません。「実践」であり、「啓蒙」ではないのです。

2008-12-31 | 日記
以下の2008年市民アカデミアの総括は、豊富な写真入り(白樺教育館ホーム)で見ることができますので、以下をクリックしてください。

http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori97.htm


2008年「市民アカデミア」(大阪経済法科大学主催)『公務員を哲学する-市民社会と公共性を考える』の最後は、わたしが講師を務めましたが、わたしの企ては、従来の大学講座(一般市民を対象とした啓蒙)の発想とスタイルの双方を変えたいというものでした。「講義質疑応答」ではなく、参加者が講師の問題提起を受けて【共に哲学する実践】を目がけたのです。

残念ながら、参加者の意識はわが白樺同人を含めてまだまだ主体性が弱く、【生きた主観性の躍動】というレベルには達しませんでしたが、わたしは、企てをためらうことなく実行したのでした。

哲学とは「客観学」ではなく、ほんらい生きた対話であり、そのことは、理論=言語の次元で主張されただけでは意味を持たず、実際に主観性を鍛えあう熱い試み=生々しい実践でなくてなりません。「研究する」ものではなく、実際にやりあう=「躍動する生きた対話」なのです。大学講座で「勉強」する(教えてもらう)ことではないのです。

思想や哲学は、従来のスタイルそのものを変えなければ、いくら思想内容を変えたところでひとつの前進もない、それがわたしの不動の確信です。

ついでに言えば、倫理や道徳も同じです。古代の王制や封建社会や近代天皇制の下でつくられた「道徳」(為政者に都合のよいイデオロギー)を学んでもダメで、自由・平等・博愛の民主制社会にふさわしい新しい倫理は、ふつうの生活者の「生活世界から立ち昇る善美」につき、みなの話し合いによって生み出すものなのです。

本を読んだり本を書いたりすることは一つの手段であり、そのこと自体に価値があるのではないのです。しかし、この基本認識がきちんとできている人は極めてまれです。従来の知のスタイルの中に留まって、その中で「哲学する」ことは本質的には不可能だ、という認識を哲学に関与している人さえ未だに持てずにいるのですが、これは本当に困ったことです。「アカデミズム 内 哲学」では、生きた動詞としての哲学にはならず、哲学は死んでしまいます。

ヨーロッパの啓蒙時代は18世紀であり、日本の啓蒙時代は明治から敗戦までです。もうとっくに終わっているのが「教えるー教えられる時代」なのです。いま何より必要なのは、一人ひとりが自ら考える力を引き出しサポートする仕組み・態勢のはずです。「相互に考え・語り合う時代」をつくり・生きることが求められます。したがって、いま哲学は、哲学が大学内の一科目になる以前の「実際に人が生きている現場」から立ち昇ってくる問題にダイレクトに応答するという初心に戻らなければいけません。形而上学としての哲学では、趣味の世界にしかなりません。なぜ?どうして?なんのため?を具体的現実に即して考える営みが必要なのです。

互いの主観性を広げ、深め、豊かにするための実践はいかに可能か?

それに応える思想とそれを現実のものとするためのスタイルを考案し実践することーそれを目がける活動こそいま真に求められているのであり、それをわたしは恋知としての哲学=民知と呼んでいるわけです。

以上のような理念・考えから、
11月21日(金)のわたしが担当した講座では、わたしの話は40分に留めると宣言し(笑)、その通りに実行したのです。ただし、時間を短くした分、内容は、分明・明瞭でかつ刺激に富むものとしました。

また、当日参加された金泰昌(キム・テチャン)さん(「公共哲学」シリーズ全20巻の編集責任者)からも「15分間スピーチ」をしてもらいましたが、少し残念だったのは、わたしの話
=①「東大病」のこと。②ほんらい客観学は知の手段であり主観性の知こそが目的であること。③明治の国権派がつくった「天皇の官吏としての官僚制」に基づく政治は、客観学の支配により各人の主観性を無価値なものとみなすことが必要で、それが天皇教(=序列の絶対化による集団同調主義)という国家宗教と一体化した政治と軍事と教育を生んだこと。④キャリアシステムを支えているのは、未だに清算が済んでいないそのような想念であること。
から話題がそれてしまったことです。

わたしもまた、もっと明瞭に踏み込んで(キツク・笑)主題が浮かび上がるようにすべきだったと思います。それが反省点です。

【共に哲学する】を実現するには、まだまだ多くの創意工夫が不可欠だな、と強く感じました。今後の課題です。宿題としましょう。

武田康弘
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りかです。しまとゆめを写真で拝見。

2008-12-28 | 日記
下のブログのつづきです。
四匹のうち一匹だけが白い猫でした。
それが「エリ」ですが、
飼い主のりかさん(白樺同人で鎌ヶ谷市在住)から、ブログに載せてほしいと、以下のメールと写真を頂きましたので、ご紹介します。

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りかです。

式根島で子猫達を連れて帰って4ヶ月経ちます。

しまやゆめを写真で拝見しましたが、二匹ともすくすく育って愛情いっぱいの顔をしてますね。

うちのエリは甘えん坊で食欲旺盛ですが日々大きくなってきています。
前からうちにいる猫ビッキーと親子のように仲良くしていて微笑ましいです。

自分より小さくて弱い存在を守ろうとする動物の本能には感服します。御飯にしても飼い主の愛情にしても、小さいエリに譲って自分は1歩下がる行動をしてるビッキーを見ると本当にすごいって思います。本当の親子ではないのに、誰に教えられたわけでもなく本能でちゃんとわかっていてこういう行動ができるのです
ね。素晴らしい!

式根島で撮ったこの子猫達の写真を改めて見ると顔の表情が違いますね。
島では生きることが精一杯で野性的な顔でしたが、連れて帰ってきてからは安心できる環境の中で飼い主や周りの愛情で顔の表情が柔らかく穏やかになってきました。

動物も人間も環境・接する人々によって顔が変わるんだなぁと実感してます。


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子ネコたち4匹、式根島から我孫子へーー子どもと女性の命への感度

2008-12-26 | 日記
今年、式根島キャンプ(32年目の子供たちの「キャンプ&ダイビング」)の帰り、

小学生のこどもたちが

まだ生後3週間ほどの赤ちゃんネコを4匹、

船に乗せ、電車に乗せて、

我孫子まで連れ帰りました。

どうなることか、と思いましたが、

四匹はみな元気で、それぞれ個性的に生きてます。

「ゆめ」は、小学生の女の子の家で、

「しま」は、小学生の男の子の家で、

「エリ」は、鎌ケ谷で、

もう一匹は、東京の里親のところで。



先月、「ゆめ」と「しま」は、『白樺教育館』で再会しました。

写真はそのときのものです。

「ゆめ」は、はじめての場所に緊張し、パソコンの後ろに隠れてしまいましたが、

あとからきた「しま」は、興味津々で、近寄ります。

互いをどう感じていたのか?

それは分かりません。



それにしても、

式根島から10時間もかけて

野良の赤ちゃんネコを連れ帰るなんて、

やっぱり小学生でなければできません。

(小学生につられて、大人のりかさんも一匹連れ帰りましたが、前からいたメスネコと親子のようで、とてもほほえましい光景が日々くり広げられているそうです)

※式根島から連れ帰らなければ、キャンパーの去ったあと、子猫たちはカラスの餌食となったでしょう。

大人の男性にはマネのできないことですが、世の中も、子どもや女性の本音が動かしているのかもしれません。「男性原理」による秩序化は、あまり生命的とはいえません。

「思い・想い」の世界を大切にできたらいいですね。


武田康弘
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