思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『立法と調査』(参議院)ーーキャリアシステムに関する意見書

2008-12-24 | 日記
以下は、白樺教育館ホームページの記事(制作・古林治)です。
一部を貼り付けますが、クリックhttp://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori96.htmで全部が見られます。


『立法と調査 別冊 2008.11/特集 「国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査」』が参議院事務局から発行されました。
【官】の世界から本当にこんな内容のもの(多用な人々の意見)が出されるとは大変な驚きです! 私たち市民(国民)・主権者の声に積極的に耳を傾けようという、民主制の原理を地で行く画期的な出来事です。参議院=良識の府の面目躍如です。素晴らしいですね。

 執筆者は下の一覧にあるように、40名+1名で実に多様で、内容もまた濃密なものです。是非、読んでみていただきたいものです。当ホームページでもお馴染みの名前が6名ほど入ってますので、中々身近に感じられるのではないかと思います。


[特集]国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査
キャリアシステムの廃止~民主制国家を支える国家公務員の育成のために~


はじめに(参議院・行政監視委員会調査室)


Ⅰ 有識者の意見(敬称略、50音順)

1
青木 信明
(エムケイ株式会社代表取締役社長〉
2
天木 直人 
(元レバノン大使・外交評論家)
3
飯尾 潤
(政策研究大学院大学教授)
4
伊藤 真 
(伊藤塾塾長、法学館憲法研究所・法学館法律事務所所長弁護士)
5
稲継 裕昭
(早稲田大学政治経済学術院教授)
6
大山 泰弘
(日本理化学工業株式会社会長)
7
岡野 雅行
(岡野工業株式会社代表社員)
8
尾木 直樹
(教育評論家、法政大学教授)
9
落合 博実
(ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員)
10
川本 裕子
(早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授)
11
木川 眞
(ヤマト運輸株式会社代表取締役社長)
12
金 泰明
(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター教授)
13
近藤 恒雄
(株式会社第一測量設計コンサルタント代表取締役会長)
14
堺屋 太一
(作家)
15
澤田 秀雄
(株式会社エイチ・アイ・エス取締役会長)
16
嶋崎 政男
(東京都立川市立立川第一中学校校長)
17
新藤 宗幸
(干葉大学法経学部長・教授)
18
鈴木 敏文
(株式会社セブン&アイ・ホールディングス 代表取締役会長兼CEO)
19
高橋 洋一
(東洋大学教授)
20
竹田 青嗣
(早稲田大学教授、哲学者)
21
武田 康弘
(哲学者、白樺教育館館長、我孫千市白樺文学館初代館長)
22
田中 秀征
(福山大学客員教授)
23
谷 尚
(公立八鹿病院名誉院長)
24
土肥 信雄
(東京都立三鷹高等学校長)
25
永井 隆
(ジャーナリスト)
26
中島 忠能
(元人事院総裁)
27
西村 美香
(成蹊大学法学部教授)
28
野村 吉太郎
(赤坂野村総合法律事務所弁護士)
29
平山 祐次
(財団法人佐世保地域文化事業財団理事長・元長崎県立大学学長)
30
福嶋 浩彦
(中央学院大学客員教授、前我孫子市長)
31
藤沢 久美
(シンクタンク・ソフィアバンク副代表)
32
堀田 力
(財団法人きわやか福祉財団理事長、弁護士)
33
堀場 雅夫
(株式会社堀場製作所最高顧問)
34
前田 正子
(財団法人横浜市国際交流協会理事長・前横浜市副市長)
35
三木 由希子
(特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス理事)
36
山口 広
(弁護士、日弁連消費者問題対策委員会委員)
37
山口 美智子
(薬害肝炎訴訟全国原告団代表)
38
山根 香織
(主婦連合会会長)
39
山脇 直司
(東京大学大学院総合文化研究科教授)
40
若杉 敬明
(東京大学名誉教授、東京経済大学教授)
参考:
荒井 達夫
「国家公務員制度改革とキャリアシステム~参議院による行政監視の意義~」


『立法と調査』は非売品ですが、ご心配無用。下記のサイトから全部ダウンロード可能です。クリックで開きhttp://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori96.htm、→まとめたファイルという表示部分を再度クリックしてください。
(古林治)


武田康弘

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良識人は皆「反戦」です。

2008-12-22 | 日記
わが国の15年戦争は、天皇現人神(あらひとがみ)のイデオロギーを政府・文部省がこどもたちに教え込む徹底した「国体主義教育」の下で行われてきたことは、誰でもが知っている「歴史的事実」です。


わたしは高校生の頃「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)の活動に参加しましたが、その反戦運動が正しかったことは、今でははっきりと証明されています。

また、最近では、アメリカによるイラク戦争にも反対しましたが、反対したことが正しかったことは、ブッシュと軍部による事実捏造が暴かれたことで明白になりました。

ところが、ベトナム戦争にもイラク戦争にも賛成し、アメリカの戦争に協力してきたのが歴代の日本政府(自民党政府)です。小泉元首相などは、いち早く積極的な戦争支持を打ち出し、外務省さえ呆れるほどでしたが、その彼は自身の過ちを未だに認めようとしません。倫理のりの字もありません。


ネット上では、「反戦」というと、非難されるようですが、戦争に反対する思想や運動を非難するとは!?病気以外のなにものでもないでしょう。ふつうの人=常識人は、みな「反戦」なのであり、戦前の日本思想や「皇軍」と呼ばれた日本軍の行為に対して批判し反省するのは理の当然です。

いまなお、民主主義の原理とは相いれない思想を堂々と語る自衛隊のトップや政府要人がいる国では「危険」ですし、「損」です。「戦前体制」を是認するような思想の持ち主が大手を振るうような事態を許してはなりません。

繰り返しますが、「反戦」とは、誰もが共有できる理念であり、公共性のある良識人はみな「反戦」なのです。


武田康弘
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子どもの問題?ーすべては大人の問題です。

2008-12-18 | 日記
踏み込んで話すことを大人はすべきでしょう。
そう思ってわたしは実践し続けていますが、
波風立てずに、という消極的な(無責任な)大人が多いようです。それでは毒にも薬にもならない話しかできなくなるのですね。
だから、
子どもたちは誰もまじめに話すことをしなくなるのです。
本気で話す・ぶつかる(ただし、全身で相手を受け入れる姿勢・態度をいつもとっていることが前提ですが)ことがないと、人間の主体性は育ちませんし、思考力などつくはずがないのです。
これは原理です。

ところが、教育論を語る学者や評論家のいうことを聞くと、まったくピントが外れていることが多いのです。口舌の輩には、自分が責任を持って主体的に取り組んでいないことを情報知だけを元にして語ることの不毛性を自覚してほしいものです。【机の上】で、あるいは、ただ【教場でのみ】子どもや青年と接して結論を出すことでは、「講釈師見てきた様な嘘を吐き」にしかなりません。

また、経験といっても、「高み」からの経験では経験とは言えません。そこで得られた「知」は、始めから都合よく概念化された知でしかないのです。わたしは、ナンデモアリの自由な私塾で、子どもや親の本音と向き合って32年がたちますが、こういう経験を踏みつつ教育を考えるという実践をしている人間につかなければ、有用な考えを導くことはできないはずです。

どうも今の時勢は、タレント化した学者や評論家が、生(なま)の現実を知らずに情報を「一般化」して意見を述べる風潮が支配的ですが、それでは、何も言わないのと同じです。否、却って有害です。いつまでこういうバカバカしい事態(=知的・心的退廃)が続くのでしょうか。
【心身全体で深く会得する】という「知」の基本を大人がまずしっかり身につけ、実践しなくてはいけません。すべては大人の問題なのです。

武田康弘

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今年の第九はプレートルの新譜を、永遠の第九はクレンペラーのDVDで。

2008-12-16 | 日記
今月の新譜で素晴らし「第九」が出ました。

2008年のニューイヤーコンサート、熱く感動的な指揮で聴く者を魅了したフランス楽団の大御所ジョルジュ・プレートルのベートーヴェンです。
もう大昔になりますが、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」全曲や、ビゼーの「カルメン」全曲(カルメンはマリア・カラス)で、その豊かな情感と艶やかな音楽にほれ込んで、わたしが長年愛聴してきたLP(両者共にCD化されています)の指揮者がプレートルです。

彼の第九は、実にチャーミングです。もう84歳(録音時は82歳)のプレートルは、実に若々しく情感豊かです。若い指揮者よりもずっと音楽が瑞々(みずみず)しく、色っぽいのは不思議です。響きのふくよかな美しさは、今はすっかり失われてしまったものですが、明晰で緊迫感をもった大迫力の演奏がしなやかで柔らかい音で奏でられているのですから、聴き手は大きな幸福感に包まれます。今年の年越しは、情感あふれる見事なプレートルの「第九」を!http://www.hmv.co.jp/product/detail/3307280
(このCDは音量レベルが低いので、ボリュームをあげてお聴きください)

「第九」と言えば、べートーヴェンのイデアをそのまま具現化したようなクレンペラーの演奏をあげなければいけませんが、1964年の大変貴重なDVD映像(クレンペラーは大のテレビ嫌いだが、危機にあったニューフィルハーモニー管弦楽団を救うためにテレビ撮影を許諾した)が、CDより廉価(輸入盤)で求められます(白黒映像ですが、かえってそれがよいのです)。
わたしは、全てのDVDから一枚だけ残せと言われたら、ためらうことなくこのクレンペラーの第九を残します。みなさんもぜひ。http://www.hmv.co.jp/product/detail/1481662

余談ですが、わたしにはクレンペラーのつくる音楽とセザンヌの絵画がいつもダブって見えます。このような深い真実を現した芸術を味わうのは、生きる至福です。もちろん、魅惑的で豊かな抒情のプレートルの世界に浸るのも最高の愉悦ですが。


武田康弘

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これが美術館!?殺伐とした「国立新美術館」での素晴らしい「ピカソ展」

2008-12-14 | 日記
これが「美術館」!?
ただの「催し物会場」でしかない。
無機的で殺風景。
なんの味わいもない。
落ち着き、ゆとり、ぬくもり、豊かさ、とは無縁の空間。
機能だけを求めて「一般化」し、そこに建築家のエゴを投影すればどういうことになるのか、その見本のような建造物、それが『国立新美術館』でしょう。
普遍性=深い納得の世界とは無縁です。
今日、「ピカソ展」に行き、はじめてこの建物に入り、わたしは呆れてしまいまいした。
内容の豊かさ・美しさがなく、センスの次元が低く、細部に神経が通っていないために、空間とも建造物の質感とも心が少しも通わないのです。

肝心のピカソ展は、大作・代表作が多く、素晴らしいものでした。
わたしの部屋には「ピカソ全集」があり、長年見ていますが、ほんもののピカソからは、巨大なパワーが放射されます。
ふと思いました。ピカソの大胆な冒険・飛翔する自由を可能にしたのは「父」であるセザンヌ(美のイデアの探究者)なのだと。

(なお、図録の印刷は「セザンヌ主義展」とは異なり、すぐれています。)


武田康弘
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MINIは終わったー BMW社のセンス低下

2008-12-13 | 日記
ついにMINIは、コンバーチブル(オープンカー)まで「新型」となり、インテリアは、大幅にデザインを悪化させてしまいました。

MINIのモデルチェンジは、製造コストを落とすことが主要課題であったと伝えられますが、
インテリアは、そのコストダウンの影響をもろに受け、従来のクラシック・モダンの上質な美しさが、ポップで単調なものとなり、各部材も工芸品のような味わいを失いました。

MINIから神秘が消えました。
カジュアルなのに高品位というなんとも【粋】なクルマは、ただの「BMW製の小型車」でしかなくなりました。
ドイツBMW社が、イギリスロ―パ―社がつくり上げた初代MINIのブランドイメージに挑戦し、21世紀の「伝説」を産み出そうという気概と緊張感ゆえの見事な成果は、それが予想をはるかに超えた「成功」となったことが災いして、アリキタリなものへと堕ちてしまったのです。

MINIは終わった、これが偽らざるわたしの気持ちです。
現行のMINIコンバチーブルを長く乗って、その後は電気自動車にしましょう。

☆写真は、現行のMINIコンバチーブル

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「一般化のわな」ー強い危機感を持ちます。

2008-12-12 | 日記
以下は、「白樺ML」へのメールです。


染谷ひろみです。私のメールへの返信ありがとうございます。

ただの「一般化」に過ぎないことをマズイどころか、多くが「よい」とすら思っている!?
そうだとしたら、強い危機感を持ちます。
このことの核心を明確に指摘したこのブログはやっぱり凄い。
書き言葉を「死んだ言葉」と言ったのはソクラテスでしたっけ?
でもタケセンのブログ文や言葉は、頭になるほどと入るというよりは、心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じるのは何故なのでしょう。

タケセンが長年実践しつづけている「主観性の知を鍛える」ことは、本来なら家庭や学校などで当たり前のようになされなければいけないのでしょうが、それを「鍛える」のではなく「消去する」ことに一生懸命時間とお金をついやしていることが多いように思うのです。 こういう状況の中で、真逆(まっとう)なことを揺るぎなく実践しつづけている「白樺教育館」の価値は、はかりしれないほど大きいと思います。

それにしても、この「一般化の罠」は、はっきりと指摘されないとわからないものですが、多くの人がそれを「よい」と思ってしまうのは何故なのか?

私は、今の社会が全体的になんだか平べったくて重たい、受け身のムードが蔓延していることと重なるのではないかと思います。

でもここから抜け出るのは、とてもやっかいではないでしょうか。
「罠・詐術」とでもいうものにはまらない強さ・タケセンの言う「主観性の知」を鍛えることがないと、ひきずり込まれて溺れてしまいますよね。また、逆に無自覚ではあれ、自分が周囲の人を引きずり込むほうの側になっているかもしれませんよね?

家庭や学校や友人の間で、「一般化」にとどまらず「主観性を深めていく」ような対話や実践をしていくことの大切さを痛感しますが、自分の中でそれを行なう土壌(大元)を鍛える場がこの国にはあまりになさすぎると思うのです。繰り返しになりますが、そんな国にあっても長年、揺るぎなく実践しつづけているタケセン・白樺教育館の存在は、ほんとうに貴重です。

染谷ひろみ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田です。

染谷さん、ピッタリ!の感想、ありがとう。

もし、わたしの「書き言葉」が、「心身全体が強烈に揺さぶられて、まるで文が生きているように感じる」のであれば、大変に嬉しいことです(光栄)。
まあ、染谷さんはわたしと直接に対話をしているので、書き言葉でも「生きている」と感じるのでしょう。

ただ、ひとつ思うのは、わたしの表現仕方は「一般的なよい」とは異なるのではないか、ということです。「一般化」を拒否しつつ分かりよく、という試みが「成功」するのは、読む人の生き方にもよるわけで、わたしの書き言葉は、現代標準からは批判される類かもしれません。ビビットに生きている人には大変受けがいいのですが、形式優先で生きている人には不評ですね(小学生以来作文はいつも最高評価でしたので、不思議なことに学校の先生には受けたのですね~笑)。

また、話言葉、書き言葉を問わず、大事なのは言語の持つ含意性(表現性)です。ただ明示的に明瞭な言葉を使うだけではダメなのです。言葉の意味が深く・濃く相手に届くには、表現仕方を工夫しないといけません。言葉の意味は、「明示的な内容」と「表現性」が融合して浮かび上がるものなので、思想的な文章になると、ただ明瞭に内容を示せばいいというものではないのです。リズムやテンポを工夫しないとメロディー(思想内容)はうまく流れません。パワーを持って立体化しないと内容がよく伝わらず、面白みも生まれませんが、なかなかうまくいかないものです。染谷さんの文章は、いつも立体的で生きていますね。


武田康弘
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「一般化」は危険な現代病 へのコメント?-染谷ひろみ

2008-12-06 | 日記
以下は、「白樺ML」メールです。


哲学ブログつづき(「一般化」は危険な現代病)をよんで、またうなりました。
これすごいよタケセン~。感動および衝撃うけてます。
古林さんが言うように「学」の世界などでは要注意ってその通りですよね。
程度の差こそあれ私たち・私自身にもいえることだと感じて衝撃をうけた私です。
もちろん一般化することは大切でそれなくては社会生活は営めないし、なんにつけある枠組みがあって、その枠組みの中で自分の感じたことや奥底からわいてくる思い・考えを話したり発していくわけですが、
大切なのは、その内容を一般化のレベルにとどめずに、深めることだと今さらながら思います。
「一般化」することだけにとどまり続け(危ない落とし穴だ~貧しい生になっちゃいそう…)自分から動く・一歩ふみだす・試行錯誤を繰り返すことがないなら、今の社会のさまざまな問題点や身近でいえば自分の家庭の中で問題点に気がついた時など、解決の方向に向かって進んでいくことなど不可能なのだと思えています。
今の現実はどこもかしこもこの「一般化」をめざしそこまでにとどまる生が蔓延してるようでありながらも、ここ最近、多くのふつうの人はこのままではマズイってことをうすうす気がついているのではないでしょうか??

染谷ひろみ

---------------------------------

[ タケセン ] [2008/12/09 23:45] [ Myblog ] [ 削除 ]

染谷ひろみさん、メール感謝です。とてもいい内容で嬉しいです。
ただ、一般化の危険性については、ふつうの人も評論家も学者も教師もほどんど気づいていないと思います。
むしろ一般化が「よい」とさえ思っているのではないでしょうか?
だから、積極的に「一般化」の危険性や愚かさを訴えていく必要を感じます。
いまは、哲学や思想まで「一般化」の海に沈み、その役目を自ら放棄しています。
「主観性の知」の開発、それが核心です。

武田康弘

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「一般化」の危険性へのコメント?ー古林治

2008-12-06 | 日記
以下は、白樺MLです。

古林です。

次の一節には本当になるほど、と思い至ります。
『分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。』


で、自身のさまざまな体験を振り返ってみると、私にはさらに以下のように感じられます。
優れた分析や現状認識そしてそこから生まれる良質な解決策を実現させるのは、その当事者の実存の深み(普遍性の追求)からやってくる力だ、と。

たとえば、他者性が大事だとか対話が大事だという言説があるけれど、
人によっては強大な説得力を持つ一方、まるで説得力を持たない人もいます。
その違いはその人がどのように良い生(普遍性)を追及してきたかにかかって
います。当たり前ですけどね(笑)。

このことを私流に端的に表現するとこんな感じになりますかね。
優れた一般化は個人の普遍性の追求(実存の深み)から生み出される力によって支えられている。
一般化を生業にする人たちには、このことを深く自覚して欲しいと思います。
(学者さんとか官僚さんというのもこの生業の一つでしょうかね。)


そうそう、一般性とか普遍性という言葉の意味をつかむのは結構難しいです。
その昔、武田さんが子供たちのために書いたメモがとてもわかりやすいので、
引用しておきます。

正しさの3種類について。
1. 絶対の正しさ
誰がなんと言おうとぼくの考えはゼッタイ正しいんだ。とか、偉い人(又は神様)が
 言ったことだからゼッタイなんだ。・・
2. 一般的な正しさ
だいたいこんなところが正解だよ。みんなもそう言ってるし。とか千人からアンケートを
 とった結果このようになリました。・・
3. 普遍的な正しさ
なるほど、そうだなあ。と深く納得する。腑におちる。

 哲学で言う正しさとは、この3.)です。哲学では、1.)絶対の正しさというものは認めませんし、2.)一般的な正しさでは満足しません。
3.)の正しさをつくるためには、疑い・試し・確かめること。自分の頭でよ一く考えたことを、他のひとに示すこと。これを何度もくリかえしてゆく必要があります。だんだんとみんなが深くナットクする〈考え>にきたえてゆく営みを、「哲学する」と言うのです。
また、科学的な正しさとは、この3.)の中の一部分です。
〔1998年4月8日 武田康弘〕

古林治
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「一般化」は、危険な現代病

2008-12-02 | 日記
11月27日のブログ=「一般性」への堕落は、人間性のエロースを消去する。の続きです。


クルマを買うのも、家を建てるのも、学校を選ぶのもみなその人のもつ想念(イデオロギー)によります。人間は、何事に対しても価値判断しつつ生きるわけですから、生きるというのは、イデオロギーと共に歩むということです。これは原理中の原理であり、覆すことのできない「元事実」ですが、そのことの自覚が弱いと、人は「一般化」の海に沈んでしまい、自分の固有の価値=生の意味は消えます。

誰であれ、自分の生きる意味や価値―努力の方向を「一般化」に求めたのでは、生の悦びや輝きをつくれません。これは言うまでもないことでしょうが、どうもこの点についての自覚が弱いのが、現代社会の知的特徴のようです。巨大な管理社会の中で、哲学や思想もみな、技術知や客観学に陥り、大きな体制(一般)に飲み込まれてその存在価値を自ら消しています。「私」の主観を掘り進めることで豊かな「普遍性」の世界を開くというエロースの営みは、「一般化」という形に堕落させられているのです。

ベートーベンは、聴衆に鍛えられたとは言えますが、「一般的な曲」をつくろうとしたのではありません。セザンヌは、美のイデアを求めて苦闘したのであり、「一般的な美」をめがけたのではありません。特別な芸術的才能をもたない我々も、人生をどう生きるかは、みなそれぞれの創造であり、それぞれが個性的たらざるを得ないのです。「一般人」として生きるのではなく、【自分として生きる】のですから、誰でもみな、何をし・何をどう考え・どのように生きるかは、自己決定です。演出者など存在しないのです。その意味では人はみな作曲家なのであり、人のつくった曲を演奏するだけの人間はいません。

したがって、ほんらいの哲学や思想の役割は、それぞれの「主観性の領野」を鍛え、豊かなものとし、能動性―主体性を生みだすところにあります。

分析や現状認識は重要ですが、それは人間が生きる手段であり前提に過ぎません。さらに言えば、現状分析さえも「客観」ではなく、深く自身の実存と向き合うことで始めて価値あるものとなるのです。このことを肝に銘じておかないと、知的努力は「受動性」しか生まず、保守主義を招来するだけです。

 「一般化」されえない自分自身の生を見つめ、その地点から発想しない限り、世界は灰色のままです。どれだけ世俗の価値を積んでも、生きる悦びが内側からやってくることはありません。「普遍性」とは、たった一人のこの「私」の生を豊かに掘り進めるところからしか生じないのであり、一般化は、その営みの為の条件整備でしかないのです。


武田康弘
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美のイデアの追求ー『セザンヌ主義』展(横浜美術館)

2008-12-01 | 日記
昨日午後、「セザンヌ主義」と題する『横浜美術館』の展覧会に行ってきました。

表層の美しさには目もくれず、対象とそれを見る自身の意識と対峙して「美のイデア」に迫ろうとしたセザンヌの絵画は、西洋美術の偉大な一頂点だと言えますが、彼を父だと言うピカソをはじめ多くのセザンヌ礼賛者たちーマティスやブラック、ベルナールやドニなどと、セザンヌに心酔した『白樺派』美術運動の担い手たちー有島生馬、岸田劉生、小野竹喬、森田恒友、佐伯祐三らや安井曾太郎らの作品を並べて展示した今回の催しは、大変面白いものでした(当然ですが、『白樺教育館』のシンボル=南薫造の絵が載った『白樺』第3巻も紹介されていましたー柳宗悦「革命の画家たち」)。

セザンヌの色彩は、追随者たちのものとは大きく異なることが分かります。地味なのに多色で美しいのです。しかも透明で繊細微妙なことには驚愕するほかありません。単純化が豊饒化につながり、強烈なエネルギーが静謐さを生むという逆説を示しています。
油絵なのに水彩のような作品、晩年の水彩画、みな、静かで柔らかくしかも揺ぎなく強い。強烈な力と品位の高さが両立し、自然物が持つような美を感じさせます。
なによりも驚くのは、絵具で塗った・描いたというのではなく、中から色が出てきたというように見えるので、描かれているものの存在が強い光を放つのです。

中学生の時に「赤いチョッキの少年」他の絵を美術書で見て感動して以来、わたしにとってセザンヌはずっと特別な画家でしたが、昨日改めてまた強烈な感動におそわれました。
「セザンヌ展」に行ったのは、1986年の『伊勢丹美術館』以来で、知らぬ間に22年が経ちました。
(☆信じられぬほど良好な保存でいま描いたばかりのような色彩の「バーンズコレクション展」(1994年)でのセザンヌは別格でしたが。)

横浜美術館の展覧会ー「セザンヌ主義」は、来年1月25日までです(木曜休館)。
※ひとつ残念なのは、図録の印刷の色彩が悪く、酷くズレていることです。


武田康弘
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「一般性」への堕落は、人間性のエロースを消去する。

2008-11-27 | 日記
社会は、一般意思を基準にして営まれるものです。
これは、覆しようのないことです。
社会生活は、言語使用と同じく、「一般化」されなければ成立しません。これは原理です。

しかし、「一般化」を目的にしてしまうと、個人は個人としてのエロースを失います。
役所や学校(幼稚園~大学院)や会社(もちろん新聞社や出版社なども含む)の仕事は、「一般化」しなければ成立しませんが、それと、個人のよき生の問題は、次元が異なる話なのです。立体としてみる、さらには時間軸も入れて四次元世界として考察することが必要です。

現代の学的世界は、哲学史の専門家も含めて、立体視ができず、平面の緻密化・正確化でしかない知を広げることが進歩だという錯覚にとらわれているように見えます。
これは、個人の個人としてのかけがえのないエロースを、「一般化」の中に閉じ込めようとする個人支配の哲学や思想の蔓延と軸を一にします。

社会の考察や言語の使用は、「一般化」しないと成立しないために、どうしても二次元化しがちなのですが、ここに大きな落とし穴があります。個人のよき生=深い納得・豊かな意味を生みだすのは、立体的な知(ほんとうは四次元的な知)による他ないのですが、それを「公共性」(社会や言語)の概念の下に抑圧してしまう知(一般知・客観学)が支配的になると、人間は個人のエロースを開花させることができなくなり、内的には生きる意味が消えます。「私」の目はくもり、心は歪み、頭は不活性化していきます。「一般化」の海で個人は溺れ死ぬのです。

考えてもみてください。「私」の生の意味が、ただの「一般化」の深化・拡大にあるのなら、その固有の善美が鍛えられる=「普遍的なよさ」を獲得することにはならず、生の悦びが得られるはずはありません。

「私」は、どこまでも私の存在のよさを掘り進めることで公共性を獲得する、「私」の世界をより広く豊かに楽しくするために「公共世界」を拓くというという発想によらなければ、社会性・公共性は、個々人の心の中に根付く場所を持ちません。
「一般化」とは、どこまでも枠組みに過ぎず、生の実質・内容ではありません。人間の生の最大の問題は、「私」が何をし、どのように生きるか?ですが、それに一般的な答えを出すことはできません。深い納得・意味充実=「普遍性」の追求ではなく、「一般性」を先立てれば、人間も哲学も死んでしまうのです。

近代市民社会とは、ただの「ルール社会」ではなく、「流動的で主体的なルール社会」です。そのルールを決め・変えるのは、日々、立体的な生を歩んでいる一人ひとりの人間です。先立つのは、主体知・立体知・実存知であり、「一般化」をつくる一般知は、ほんらいは、実存知を育て・支えるためにのみ存在するのです。くりかえしますが、個人の努力は、「一般化」の海に溺れるためではなく、どこまでも「私」から逃げずに、主観性を鍛え、豊かにしていくこと、管理化・序列化・権威化とは逆の「エロース化」にあるのです。「一般化」という枠組み次元の話(=手段)を目的に転化させると、個性の魅力は消え、仕事や努力は味気のないものとなり、世界は色を失ってしまいます。

くれぐれも用心したいものです。


武田康弘
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「神」ではなく「善美」への憧れがよき生をつくる

2008-11-26 | 日記
一神教の「神」を求めるのではなく、
「善・美」に憧れ、それを目がけるという生き方、
それがわたしがよいと思う人生です。

何よりも大切なのは、「善・美」に憧れ、何がより「真」なのかを求めて
【自問自答】すること(自我の解放―豊饒化)と、開かれた【自由対話】のセットだ、そう思い、長年実践してきました。

「絶対神」という考え方から自由になり、人間的なよき世界=エロース豊かな健康な生を歩むためには、恋知の実践(「善・美」に憧れ「真」を求める営み)が必要で、それには生活世界の具体的経験に「私」の思考の基盤を置くことと、自問自答と自由対話を超越した「真理」など存在しないことを明晰に意識することが基本条件になる、わたしは、そう考えています。


武田康弘
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明日は、麻布セミナーの最終回ー「主観性の知としての哲学vsキャリアシステムを支える思想」

2008-11-20 | 日記
21日(金)は、麻布で、市民哲学講座2008『公務員を哲学するー市民社会と公共性』の最終回が行われます。テーマは、『主観性の知としての哲学VSキャリアシステムを支える思想』です。

夜7時~9時、講師は武田康弘です。
第一回は山脇直司さん、第二回は竹田青嗣さんでしたが、その時の写真は、白樺教育館ホームページで公開されています.http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori94.htm


今回は、金泰昌(キム・テチャン)さんも参加され、武田の話のあとに10分間話します。「哲学する」と銘打っている通り、司会の荒井達夫さん(行政監視委員会調査室)の話は5分、武田の話は40分で、立体的で刺激的な話を心がけ、その後は、文字通りの「自由対話」によって、キムさんも含め、参加者みなで「哲学する」にトライしてみます。官からの参加者も、市民として公共する営みに挑戦です。
終了後も、食事(中華)をしながら盛り上がりたいと思います。

当日参加も可能ですので、このブログの読者のみなさまも御遠慮なくご参加ください。参加費は2000円です。場所は、クリックしてください。
http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/access.html

武田康弘
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古林治ー武田康弘のメール対話(見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座を巡って)

2008-11-18 | 日記
以下は、「白樺ML」です。
古林治さんの『見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座の感想』(昨日のブログ)に対しての武田と古林のメール対話です。


古林さん、ご苦労様でした。

「主観性の知」が目的であることを自覚した後にはじめて「客観学」も位置づき意味をもちますが、ほとんど皆(とくに学者は)そのことの自覚が弱く、客観学や哲学史から演繹して主観性の知に到ろうとする逆立ちした発想=構えに陥りがちですね。

何をいまさらですが、認識論の原理中の原理は、「客観知」ではなく、直観=体験です。そこが原理上、絶対の始発点であることを明晰に自覚しなければ、哲学の理論はみな形而上学と化し、また、「客観学」は実学としての力・価値をもたず、権威の体系でしかなくなります(無用の長物)。

それから、
竹田さんの「資本主義の正当性を極める」という言い方はいかにも彼らしくて面白いですね~。
それで、哲学的に言って「自由」という概念・意味の先行性・根源性はまったく「正しい」とわたしも昔から主張していますが、その存在論的な自由を経験レベルで現実化するためには、制度的・法的に格差が広がらないような工夫(=機会としてのみならず、結果としても)が必要です。これは火を見るより明らかな話であり、存在レベルにおける平等性を生みだすシステムを構築できるか否か?(もちろん旧・社会主義国のような悪平等ではありません)が人類が生き残れるか否か?のキーである(竹田さんは「2050年には滅びる」と言ったそうですが、それほど人類はヤワではありませんので、ご安心を・笑)と武田は確信しています。

武田康弘
―――――――――――――――――――――――

古林です。

「資本主義の正当性」といい、先日の市民アカデミアでの「普遍資産」という言い方といい、最近の竹田さんは『市民社会の原理』を実現するための条件として経済問題(個人間および国家間の平等性)の解決に焦点を当てて積極的に
考え始めているように感じました。

過去のビッグネームの再評価・解釈からもう少し能動的な思考に移り始めているのかもしれません。何しろ、「資本主義の正当性」など誰も考えていませんから。
このあたりの話はもう少し時間を裂いて聞きたかったですねえ。
(人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。)

ともあれ、竹田さん(および強いてあげれば基調報告の見田宗介さん)を別にすれば、あとは聞く価値はほとんどなかったように思います。
これが最高学府の有様でなさけない!
古林
――――――――――――――――――――――――

武田です。

「人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。」(古林)

わたしの考えは、以下のような感じです。

学や知を先立てず、「私」が感受するところから始めるー「私」の心身の思いー「私」のしたいことにつき、そこから出発するという生の原則を明晰に自覚し、実行する。感じ知る=直接経験の世界を見据え、言語による概念化に逃避せず、「私」の心身を裏切らずに生きる。
客観学を集積するー知識量に価値を置くという「強迫神経症」から自他を解放することは、そのための必須の条件。
人間は観念動物なので、知のありようを変えないと何も変わらない。知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにあるーそれをみなが自覚すること、そういう教育に変えることが何より一番必要(絶対条件)。
そのように知のありようを革命しなければ、何事も始まらない。受験知(パターン化された客観知)に支配されている人間に期待することは、到底無理。
もし、「主観性の知」の追求を各人が自由に行えるようになれば、人類の知性は飛躍的に高まり、次々と襲うであろう困難をそのつど解決していくことができるようになる。それが私の確信。
(見田宗介さんの本を読むと、彼が「客観学」の虜であることを感じる。)

とにかく、新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。
実は、そのような「新たな理念」の提示はさほど難しいことではありません。一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生み出すものだと思います。
肝心なのは、古い知の常識ー知を評価する基準(客観知の目的化)からいかに自由になるか?その方途を見つけて、その課題に応えることです。人間の知性のありよう・教育の革命こそが喫緊の課題です。

以上が武田による回答です。ご検討ください。
―――――――――――――――――――――

明晰な回答ありがとうございます。
『知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにある』
これが絶対条件。これ、すご~くよく分かります。
『受験知には何も期待できない。』
これ、当たり前ですねえ。
『一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生みだすものなの。』
確かにそうなんだろうなあ、今やっている公務員改革の話もいずれ教育の話に展開してけばいいなあ、と思ってもいます。

竹田さんの場合は多分、【学】の世界でそれができると考えているのでしょう。
『教育』に関心がある、とも言ってましたから。
ただ、この場合の『教育』とは『学』のことであって、武田さんの言う『教育』とはかなり離れた概念だと思います。
『新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。』
そうであれば、竹田さんには【学】の世界から半歩踏み出してもらわないと。

古林
――――――――――――――――――――――――――

古林さん、丁寧な返信、感謝です。

「知」のありようを根本的に変える、というわたしの主張は、北欧では学校教育でもすでに行っているものです。ただし、わたしが考えているのは、①生活世界の内側からの視点を徹底させること。②五感を鍛え、センスを磨き養うことと「知」を深く有機的に結びつけること。③対話型(先生と生徒、生徒と生徒)の授業による「分かり合い」を広げること。④不断の自由対話の創出によって思考回路を広げ、柔軟化・複眼化すること。⑤自己決定の機会を日常の中に多くつくり、試行錯誤を常態化すること。⑥身の周りの人間、物、自然、社会のていねいな観察により具体的経験から意味を汲みだす能力を養うこと。⑥なんでも自分でやってみることで、現実性と想像力を相互補完的に強めること。等々です。
日本から見ればうらやましい限りの北欧の教育も、「主観性の知」の追求においてはまだまだこれからです。そのことは当の北欧の教育者も自覚していると思います。絶えざる試行錯誤による前進を彼らは自身に課していることでしょう。日本は(韓国や中国も)どんどん置いて行かれます。タケセン一人で立て直すわけにはいきませんので(笑)。

武田
――――――――――――――――――――――

ソクラテス教室(白樺教育館)で日常的にやってることですね。でも改めて文章化されると、う~ん、こりゃ大変だ!24時間頭を使いっぱなしになりそう(笑)。
でもほかに方法がないのは間違いなさそうです。

ps.『すでに行っている』という北欧の話は次の機会に聞かせてください。先日テレビで韓国の教育事情を見ましたが、日本よりひどくて絶句。

古林
―――――――――――――――――――――――

古林さん

そうですね~。32年間、試行錯誤でやってきたことですね。
言うまでもなく、社会問題の解決や人間のよき生の探求は、宇宙論をやるのとは根本的に異なります。
もし、それらを「有用な知」にしようと思うなら、現実との絶えざる応答、対象と共に生きること=責任をもって関わりながら哲学する以外にはありません。
ただ「書物の読解」で出来ることではないのです。当然ですが、人間の生や社会の現実については、書斎や教場という間接経験の世界では決められません。
理論と実践、思考と行為、行動と批評は、今更言うも愚かですが、両輪です。自問自答と真の自由対話以上に価値あるものはありません。
白樺の哲学と実践(=「主観性の知」を鍛えることにより現実に深く関与する)を更に前に進めたいですね。共に。

武田。
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