北条革命=承久の乱は、東国まで支配しようとした後鳥羽上皇ら京都の朝廷が、「義時を討て!」という院宣を出し、戦いを仕掛けたことにより起こりましたが、
「朝敵になった」ことに動揺する鎌倉幕府に集う東国武士たちを、北条政子は歴史的大演説により一つに団結させ、義時の長男・22歳の泰時は、深く敬愛する伯母の政子と父の義時の命でわすか18人で京を目がけて出陣。やがてその数は19万という大軍にとなり、京都の朝廷を完全に制圧し、後鳥羽上皇側は執権・北条義時に対して無条件降伏したのでした。
朝廷・後鳥羽上皇と10名あまりの息子たちは、遠島(後鳥羽と順徳は無期懲役)と出家で全員処分され、財産=数百か所の荘園は没収され、京都とその以西もすべて北条政権が統治することになりました。ここに東北から九州まで日本全国が統一されることになったのです。1221年の5月から6月の一か月間で勝負はつき、処分も終わりまた。
その処分により出家させられた後鳥羽の息子の一人は比叡山では周観と名乗りましたが、東国に来て、念仏宗を精力的に布教していた親鸞に帰依し、名を善性と改め(親鸞が名付)浄土真宗開宗に尽力しました。父の後鳥羽上皇の悪業(=親鸞の兄弟子4名を死刑とし親鸞など法然とその門下8名を流罪とした)を超え、親鸞の弟子として念仏宗布教のために東弘寺(現茨城県常総市)と板敷山大覚寺(現茨城県石岡市)などを開基しました。
この日本史最大の革命は、政子が念仏宗の寺(法然の浄土宗・安養院)をつくり、親鸞は、泰時に依頼されて政子の供養に尽力したように(茨城にいた時も京都へ帰ってからも)、新しい民衆(武士も含む)のための念仏宗=新仏教の布教と深く結びついています。釈迦の初心に帰ることを目がけた親鸞の浄土真宗はやがて日本最大の宗派に発展することになりました。なお、2023年は浄土真宗開宗800年、親鸞生誕850年です。
再来年2022年のNHK大河ドラマは、この北条政権の執権 義時を主人公とするものであると、わたしは、永井路子さんの「炎環」で知り(文庫本の帯に記されていた)、驚き、喜んでいます。昔の本ですが、読んでいなかったので購入したらお知らせがあったのです。
東国初の政権(将門の夢であった!)を源頼朝が現実としたのも、承久の乱という革命にまで進んだのも、すべては北条政子の燃え上がるような純愛にあります。13才で伊豆に島流しにされた源氏の御曹司の頼朝と、片田舎の小豪族の平氏側の長女である政子とが出合わなけば、何もなかったのです。政子が父親による軟禁から豪雨の中を頼朝の元に逃げなければすべては起きなかったことですが、その政子の一生を史実にそい描いたのが「龍になった女―北条政子の真実」です。とてもお勧めです。
なお、吾妻鏡(あずまかがみ)は北条政権の第一級資料ですが、全16巻もあります。マンガでは3冊に圧縮されています。
ありえないものを目の前にして、なんとも言葉を失いました。
「忠」という精神は、中国にはない日本独自の道徳で、「忠」の精神=道徳こそが日本を世界に冠たる国にした最大の精神的エネルギーであると説明するのは、靖国神社の理論的支柱=東大名誉教授の小堀桂一郎さんです。
小堀さんは、「忠」とは公=天皇のために「私」を捧げて、ついには命まで捧げて公=天皇を守るという精神である、と言い、それが日本を立派な近代国家にした原動力であるとします(「靖国神社」で平積みで売られているパンフレット『靖国神社を考える』)。
そういう国家主義思想とは反対に、一人ひとりの人間のありのままの生につき味方するのが、親鸞思想で、浄土真宗です。それゆえに、差別戒名とは無縁で(浄土真宗は戒名ではなく法名)すべての人に平等に、最初に「釈」という文字がきて、その後にその人をあらわす固有名がきます。生まれや家柄や社会的身分による差別は元からなく、人間存在の対等性の思想で、ブッタの思想そのままです。
こともあろうに、親鸞自身がつくった寺院(国の重要文化財)の境内に日清戦争で戦死した軍人のための忠魂碑がありました!! あまりのことに私はその場で倒れそうになりました。だからこの寺の境内は、国宝に指定されているのでしょうか?(笑) 親鸞が呆れ返り、憤ること100%確実です。
断われない柔弱な住職(あるは自身も明治政府の天皇教に侵されていた?)により、設置を認めてしまったと予測されますが、
戦後、天皇主権から国民主権にかわり75年も経つのですから、靖国思想を是認する近くの神社に移築すべきものと思います。
2 承久の乱と念仏宗
1221年、朝廷(平安時代初期の村上天皇までは天皇家と呼ばれていた京都王)を真正面から打ち破り、完全勝利して新たな日本をつくったのは、権力や財への興味などなかった北条政子と弟の義時とその息子の泰時でした。日本史最大の革命でした。
伊豆の片田舎の小豪族でしかなかった北条の姉弟は、朝廷と戦うことなどは夢にも思っていませんでした。伊豆に流されていた源頼朝への政子の純粋な愛がすべての始まりでした。親の反対を押し切り、政子は頼朝の元に飛び込み結婚しましたが、頼朝が平氏との戦いに勝ち、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたので、その国造りを全力で支えたのでした。
政子は、頼朝の突然の死(1199年)の悲しみから僧となりましたが、二代目の息子頼家は情けなく力に欠け、三代目の実朝も貴族文化に憧れ軟弱で、鎌倉幕府は求心力を失い、結局は、冷静で頭がよく胆力も強い弟の義時が執権としてトップに立ったのでした。
京都の後鳥羽上皇は、大変に権力欲が強く、王者意識をもっていましたので、源頼朝が征夷大将軍の時から東国も朝廷の支配下にしたいと考え、頼朝の忠誠心など当然の事とし、遅れた東国の武士集団の長としか見ていませんでした。
後鳥羽は、源から北条に実権が移ったのをチャンス見、「義時を討て!」という院宣を全国に出し、朝廷による全国支配を企てたのです。義時が「朝敵」となれば、幕府は瓦解し、東国武士団は分裂するとみた頭のよい策士・後鳥羽上皇ならではの決断でしたが、
彼の大誤算は、法然の念仏宗に帰依し、愛情深く恐れをもたぬ天才政子の存在を見なかったところにあります。頭も心も優れた武将の義時とはいえ男集団だけならば、犬のように上下意識の強い武士集団は分断され、戦いにならなかったでしょうが、女性の政子の東国武士への熱い想い、最愛の夫頼朝が言語を絶する苦難により拓いた鎌倉幕府を守ることへの強固な意思、再び京都に支配され誇りのない惨めな生活に戻ることへの断固たる拒否、それらを訴えた「大演説」により、動揺していた鎌倉武士たちは一致団結したのでした。
朝廷軍が鎌倉に攻めてくるのを迎え撃つのでは敗北する、直ちにこちらから京へ攻め登る必要を政子は、弟の義時の息子で心身とも強壮な泰時に話しました。幼少時からずっと伯母の政子を慕い尊敬していた若干22才の泰時は、死を覚悟し、わずか18騎で出陣しましたが、泰時出陣の3日後には、関東の武士たちは続々と京へと進撃を開始したのです。ついにはその数19万に達しました。
宇治川を渡り切り、東国武士が勝利を目前とした時、後鳥羽上皇の使者が来て、院宣が渡されました。
「この度の合戦は、朕(ちん)の意志からではなく、周囲の者たちが企てたことだ。今となっては、北条義時が言う通りに万事を行う。よって、洛中での狼藉(ろうぜき)を禁ずる旨を東国武士に命じてほしい」
泰時は苦笑しました。父の義時の殺害を全国の武士に命じておいて、負けるとなると、周囲の者のせいにし、自分は戦いもせず、責任を取ろうともしない。
京都・朝廷を完全制圧した後、義時は、後鳥羽上皇らを処分しました。後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しで、終身刑。後鳥羽は、流刑を解けばまた何をするか分からないので、流刑者は数年で元の場所に戻すという従来の慣行を変え、60歳で死去するまで19年間隠岐の島に閉じ込めました。順徳天皇も流刑地の佐渡で21年後に45歳才で死去。土御門は自ら申し出て流刑となりました。皇室所有の荘園数百か所はすべて没収されました。
後鳥羽上皇の残りの息子10名は、出家させられましたが、その中から、ちょうど東国茨城の地で誕生しつつあった親鸞の浄土真宗を助ける者が出たのです。親鸞の弟子となったのですが、なんという劇的な展開でしょうか。誰でもが南無阿弥陀仏の6文字で救われるという念仏宗は、傷心の息子たちの拠り所になったのでしょう。
1207年、後鳥羽上皇は、「法に背き、義に外れ、法然門下4名を不当にも死罪とし、法然上人他を流罪とした」(「教行信証」親鸞著)のですが、その14年後に起こされた後鳥羽上皇の鎌倉北条幕府転覆の企て失敗により、自らは終身刑となり、息子たちは僧となり、なんと彼が弾圧した念仏宗に帰依して、親鸞を助けることになったのです。
なお、親鸞が念仏門の法然門下となったのは1202年ですが、政子が法然門下になったのも同時期、少し前であったと思われます。また北条幕府と親鸞は深い結びつきをもちますが、それはまた後日に。
ーー続くーー
日本史の大転回=後鳥羽上皇の二つの悪業 vs 法然・親鸞、北条政子・義時・泰時。
後鳥羽上皇が28歳の時に私怨(女官=愛人の2名が念仏宗に帰依)より法然門下を死罪・流罪とした1207年の法難と、
後鳥羽上皇の権力欲(激しい王者意識)が起こした1221年の承久の乱の二つは、
実は一つの出来事だと気付きました。
わたしは、今年8月に親鸞の足跡を求めて38ぶりに板敷山 大覚寺に行ったとき、「後鳥羽上皇の第三皇子が云々」という寺の記述に疑問を持ち、住職の長男の板垣真澄さんに尋ねたところ、今井雅晴さんの著作を紹介されました。実証的で平明な今井さんの著作(10冊ほど)を読むことにより、法難の詳しい事実と、東国(茨城の稲田を中心とする)での親鸞の言動が分明になりました。
それが分かると、法難の14年後に起こされた後鳥羽上皇による「承久の乱」とピタリと符合することが私の中で明瞭になり、最初の謎が解けたのです。どういうことかと言うと、
当時つくられた新仏教である浄土宗の法然が書き、親鸞が広めた「悪人正機」の説は、皇族・貴族らのための旧仏教とは異なり、武士や庶民のための宗教であり、京の都で優雅に暮らす貴族らが救われるなら、彼らに命じられて人殺しをする武士たちの往生ー極楽浄土は間違いないというものです。生活苦から悪を行わざるを得ない庶民たちも同じこと。
後鳥羽上皇が「北条義時を討て!」と院宣を出し、鎌倉幕府から朝廷に権力を取り戻そうとして起こしたのが「承久の乱」ですが、
頼朝の死(1199年)後すぐに法然の念仏宗に傾倒して僧になっていた北条政子の鼓舞により東国武士たちは一つになり、この戦いに完全勝利しました。京都もそれ以西もすべて鎌倉幕府が治めるところとになり日本は新たな時代を迎え、以後650年間武家社会が続いたわけです。
この承久の乱で後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しとなり、その地で死去しましたが(土御門は討幕に反対でしたので処分されませんでしたが自ら島流しを希望)、残る10名の息子たちは出家させられたのでした。その息子や後鳥羽上皇の家臣は親鸞に帰依して親鸞の布教を助けたのです。なんという大逆転! 親鸞より17才年上の北条政子は、親鸞と同じ法然門下でしたので(わずかに政子が早い)、ここで現実の大転回と精神の大転回が一体であったことが分かってきます。島流しが解かれ、東国(現茨城県中心)での布教をはじめた親鸞の浄土真宗開宗と後鳥羽院の息子らが親鸞の弟子となったことによる深い繋がりは、驚きのドラマです。
種々の詳しい経緯は続きとしてまた後で書きます。書かねばならぬ事実がたくさんあります。
--------------------------------------------------------------
後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2
武田康弘
みなが知るべき大前提!
日本が完全にオカシイ。もうヤバイぐらいに変だ。
小池百合子女王の街・東京では連日数百人の「PCR陽性者」が発見されて、感染者が全国に広がっているような報道だが、チョイ待てや。
ウチは菌の専門企業なので昔から菌の種類を判別するのにしょっちゅうPCR検査を使ってきたし、PCRを普段から使う医療関係者なら知っている常識だが、あれは「感染者数」じゃなくて「陽性者数」だ。
いいか、ど素人のテレビコメンテーターども。
決して「感染者」ではない。あくまでも「陽性者」である。
その中には「感染」に至っていない「曝露者」が大勢いる。
コロナウィルスが細胞に侵入したら「感染」なのだが、その前に、ほとんどが自然免疫で処理されてしまう。更に「感染」しても普通はT細胞が細胞ごと破壊する。だから、ここまで「曝露者」と「感染者」の98%が「自然免疫」で片付いてしまう。
今の統計を正確に読み込むと分かるけど、 「PCR陽性者」(曝露者+感染者)のうち約98%が、無症状か風邪程度で治っている。
国による違いがあるがコロナは「日本人の場合」、曝露力は強いが、感染力が弱いから、重症者も死亡者も大変少ない。
1、陽性反応者
単にウイルスが「曝露」(ばくろ・体の中に入る)しただけで、「感染」(細胞の中に入って増殖する)には至っていない人。
免疫にやっつけられて破壊されたウイルスの残骸が出てきただけの人
2、感染者
ウイルスが細胞内に侵入した人。無自覚、無症状多数。
3、患者
発症してる人
そして死亡者は全然増えていない。
なのになんでこんなの国を挙げて第二波だの緊急事態宣言だのと騒いどるんだ?
なんでNHKも保健所までただの陽性者を「感染者」と呼んだり「患者」と呼んだりするんだ?
一体どうしてしまったのだ?日本は。
ノーベル賞の山中伸弥先生まで出てきて「厳重警戒」だの「元の生活にはもう戻れない」だのwithコロナだのアフターコロナの「時代」だの、なんかもう人生がめっちゃ変わるかのような報道合戦だが…山中先生…どうしちゃったの?
ワシ大ファンだったのに…。
コロナ、日本は絶対もうすぐ終わるぞ?
まるでマスコミが大騒ぎして煽って第二次世界大戦に突入していった頃の日本に戻ってないか?
日本人、テレビの見過ぎでバカになったのか?
大橋 眞 徳島大学名誉教授・免疫生物学専門
以下は、このYouTubeにあるビデオの要約です(改行・下線・太字は武田による)
しかし、今回の騒動においては、ある研究者が病原体遺伝子を特定したわけではありません。中国のあるグループが、重症肺炎の肺から取り出した液体から、ウイルスのゲノム配列を決定した報告に基づいて、世界各国でPCR検査をするようになりました。やがて、一人のPCR陽性者が無症状期に接触した人から、同様にPCR陽性になったという科学論文が数編出されました。このことから無症状の人から感染する伝搬力が強い感染症の病原体であるというイメージがつくられました。
しかし、前検査をやっていないために、もともと各人が持っていた常在ウイルスであれば、伝染性の病原体であるとは言えないのです。しかもその後に出された論文においても、病状の進行と局所での問題とするウイルス量の増加と関連するという記述も見当たりません。動物への感染実験も同様です。感染に用いたウイルスと動物内で増殖したウイルスの同一性の確認が取れていません。すなわち、問題のウイルスが病原体であるという証拠がどこにもないのです。このような事実から、問題のウイルスは、病原体ではなく、常在性のものであると考えるのが妥当です。
https://www.youtube.com/watch?v=Mr05_0_OkD4
これは、決定的なビデオと思います。
日本人(アジア人)は、すでに免疫が出来ているという京大医学部大学院研究科特定教授で医師でもある上久保氏の説明は、極めて説得力が強い。
第2弾です。必聴・必見です。
武田康弘
「私たちはすべて被造物であり、これはキリスト教でもイスラム教でも同じです。
私たちの罪がゆるされたという福音をあらゆる人たちに伝えること。
これがミッションです。
ほかは枝葉にすぎない。」
fbで友人のクリスチャンのSさんが、わたしのと討論的対話で言われてた結語で、とても分かりやすいと思いました。
日本でも各種キリスト教会は、幼稚園から大学までたくさんのキリスト教の学校をつくり、布教に努力していますが(Sさんの言う「これがミッションです」)、広がらず、キリスト教徒はわずかつづですが減少していて、現在はすべての派をあわせても70万人台です。全国民の0.7パーセントほどに過ぎません。
キリスト教もイスラム教も、世界を創造した神=創造神が実在するという一神教思想ですが、韓国では60パーセントがキリスト教徒になっているとのことです。
「私たちの罪がゆるされたという福音で、これを伝えることが最大のミッションだ」というキリスト教の宗教思想は、
「南無弥陀仏と唱えれば直ちに救われる、また、唱えずとも救われたいと願えば、誰でもが直ちに救われる」という親鸞の驚くべき宗教思想があるために、入れないのだな、と思いました。親鸞はさらに、「都にすむ善人でさえ救われるのだから、悪人はなおのこと救われる」と言い、阿弥陀仏の救いの徹底性を明らかにします。これ以上は不可能な思想の徹底性に感嘆した晩年のハイデガー(20世紀最大の哲学者と言われるが、わたしは、彼の存在論の挫折=敗北宣言により近代西欧哲学は終焉したと見ている)は、親鸞思想に帰依しました。阿弥陀仏の救いとは、救いに特化していて、他の余分な世界観を持ちません。
一言でいえば、親鸞思想があるために(浄土真宗はわが国最大の宗派)、キリスト教は日本に入れないのでしょう。
(これは偶然ですが、私の父も祖父も親鸞門徒で修行僧でしたーわたしは違いますが、「恋知」はかなり重なるでしょう)
武田康弘
事実として、日本は、
極端なまでに少ない新型コロナウイルスによる死者数。
アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学による。4月20日
▼ベルギー 死亡者 5683人 (人口10万人あたり49.75人)
▼スペイン 死亡者 2万453人 (人口10万人あたり43.77人)
▼イタリア 死亡者 2万3660 (人口10万人あたり39.15人)
▼フランス 死亡者 1万9744 (人口10万人あたり29.47人)
▼イギリス 死亡者1万6095 (人口10万人あたり24.21人)
▼アメリカ 死亡者 4万 661 (人口10万人あたり12.43人)
▼日本 死亡者 236 (人口10万人あたり 0.19人)
さらに若年層においては、ほとんどいません。(「東洋経済」)
また、極端な封鎖をした場合は、逆に被害が大きくなることも事実です。
英国(都市封鎖)とスウェーデン(穏やかな規制のみ)との比較ですが、他の国でも同様です。
インチキな患者数! 検査の数が大幅に違うので、まったく比較できない。
検査数を大幅に上下させて、感染者数のコントロール??
愚かというより、悪どい政治のわが日本、もう終わっているように思えます。
世界の中で、検査人数(青線)をこんなに上下させる国がどこにあるのでしょうか?
「白樺教育館の生きている物たち」 part1 です。
ぜひ、ご覧下さい。
この写真 故酒本雅行さんの作品=「回起」は、PARTー2のアルバムに入るものですが、
酒本さんの作品集の表紙になった代表作です。死を前に彼から寄贈されたものです。
武田康弘
「自分の理性を使う勇気を持て」 イマヌエル・カント 『啓蒙とは何か』(1784年)
啓蒙とはなにか。それは、人間がみずから招いた未成年状態から脱け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態に留まっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。そうすれば、自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金を払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかし、それは後見人を気取る人々、なんともご親切なことに他人を監督するという仕事を引き受けた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは、飼っている家畜を愚かな者とする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜たちがひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると、脅かしておくのだ。
ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、その後はひとりで歩けるようになるものだ。ところが、他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、その後は自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。
・・・・この未成年状態はきわめて楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。それに人々は理性を使う訓練すらうけていない。そして、人々を常にこうした未成年状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。これらは、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。
誰かがこの足かせを投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を跳び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから、自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、しっかり歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。
このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜け出すのは、ほどんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が、わずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。 このような人々は、みずからの力で未成年状態のくびきを投げ捨てて、誰にでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。
もしも一つの世代の人々が集まって誓約し、次の世代の人々がきわめて貴重な認識を拡張し、誤謬をとりのぞき、さらに一般に啓蒙をすることを禁じたとしたら、それは許されないことである。これは人間性に対する犯罪とでも呼ぶべきものであろう。人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。だから次の世代の人々は、このような決議を、そもそも締結する権限のない者たちが勝手に決めたことして、廃止することができるのである。
すべての人に変革しにくい宗教制度に合わせて一生をすごすようにと強制するのは、絶対に許されないこと(注)である。これを認めると、その間は人間が改善のための進歩を続けることを否定する結果となり、人生を不毛なものとし、子孫にとってもまったく有害な遺産を残すことになるからだ。
啓蒙を放棄することは、その人にとってもその子孫にとっても、人間の神聖な権利を侵害し、踏みにじる行為なのである。
【啓蒙とは何か】1784年 イマヌエル・カント(1724~1804) 中山元さんの訳文を使わせて頂きました(抜粋編集と太字などは武田)。
(注) 変革しにくい宗教制度のうち、最大のものは国家宗教です。政府が定めた宗教性を帯びた制度や儀式など(税金が使われる)は、そこから自由になることがきわめて難しいものです。現代の日本では、天皇儀式や、天皇という存在をいやでも意識させられる一世一元の元号制度(明治政府の岩倉具視が創作)、それを役所において事実上強制していることは、カントのいう変革しにくい宗教制度の最大のものといえましょう。一人ひとりが出来る限り世界暦を用いる努力=自分の理性を使う勇気をもつことが大切です。
今年生誕250年のベートーヴェンは、強い信念をもつ共和主義者でしたので、カントの講義を聴講しようと準備していました(実現しませんでしたが)。
カントは、当時のドイツの現実を見て、啓蒙君主の存在を認めていましたが、それは時代のもつ制約という意味であり、思想としては共和主義者でした。
ベートーヴェンは、音楽イデーの創造者かつ信念ある共和主義者でしたので、共和主義の理念を掲げ、第九(交響曲9番ー合唱付)をつくりました。
そこでは唯一者としての神(一神教・キリスト教)ではなく、すべて複数形で「神々(Gods)」として詩を書いています(元はシラーの歓喜によす)
武田康弘
わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。そうすれば、自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金を払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかし、それは後見人を気取る人々、なんともご親切なことに他人を監督するという仕事を引き受けた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは、飼っている家畜を愚かな者とする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜たちがひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると、脅かしておくのだ。
ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、その後はひとりで歩けるようになるものだ。ところが、他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、その後は自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。
・・・・この未成年状態はきわめて楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。それに人々は理性を使う訓練すらうけていない。そして、人々を常にこうした未成年状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。これらは、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。
誰かがこの足かせを投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を跳び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから、自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、しっかり歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。
ーー明日に続くーー
【啓蒙とは何か】1784年 イマヌエル・カント(1724~1804)著 中山元さんの訳文を使わせて頂いています(改行・太字などは武田)。
啓蒙とはなにか。それは、人間がみずから招いた未成年状態から脱け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態に留まっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
以上は、有名な書物の冒頭です。誰が書いたのでしょうか?
続きは、また明日。
(画はベートーヴェン)
『明治政府がつくった天皇という記号』は、わたしが小学生の時からず~~と感じ・想い・考えてきたことを記したものです。
わたしたち日本人の上下意識・集団同調主義(みんな一緒病)を生み、また、天皇をはじめ皇族の人々の人権を奪っている「近代天皇制=天皇ism」(明治政府がつくった思想と制度)の核心=本質を明らかにすることは、何よりも深く大きな課題だ、と考えてきました。
「序列と形の二文字ですべて収まる」という形式優先と儀式主義が人を幸福にしないのは、子どもたちは皆が、大人たちも多くが感じていることです。
この冊子は、「天皇教」とよばれている【儀式宗教】(中身・内容は無く、その時々の世俗の価値を肯定する重し)の呪縛から皆の心を解放するためにつくりました。
簡明に「近代天皇制」の意味が明らかになれば、意識はクリアーになり、事象の意味本質を知る事がしやすくなります。余計な重しは、天皇や皇族の人を含めて、みなの理性(綜合的判断能力)を育てず、徳と得を奪っています。
みなの利益になる冊子と思います。
武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/d88dc632c6fe1dc3cb61196d1ec276c0
「天皇」を務める浩宮(徳仁)さん。お誕生日、おめでとうございます。
いま、学習院時代のエピソード(恋文の話)などを友人に聞かされていました。よい思い出ですね。
「まだ還暦。」という発言は、よく分かります。天皇という地位についたばかりですから、還暦の節目は、「これからが本番」という思いでしょう。
8年年長(学年では7学年)のわたしも、還暦の時、ゆえあってそう思いました。
ちょうど天皇誕生日の今日、わたしが昨年書いた論考をまとめた『明治政府がつくった天皇という記号』ができました。今から、背表紙をつけて、先行予約者の方に郵送をする準備です。
この冊子(オールカラー70ページ)は、良識ある方なら、どなたでも納得していただけるであろう新しい日本のありようを簡明に記したものです。「日本会議」のような特別な右翼の方や共産主義の方はどう思われるか分かりませんが。
皇族の方や宮内庁の職員の方にも読んで頂けると嬉しく思います。
日本の伝統をこわして明治政府がつくった「近代天皇制」を「共和制」にスムースに移行させることは、皇族の人たちを含めてみなの特と得をつくります。それを明瞭・分明に記しました。
価格は多くの方に手にして頂きたいので、700円としました。郵送料は26日申込の方までは無料です。それ以降は書籍郵送代金310円を含めて1010円となります。
shirakaba2002@k.email.ne.jp までお申込みください。
代金は、〒振替口座 00110-1-124812 白樺教育館 まで。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
なお、白樺教育館の修繕工事のために、ご寄付をお願いしています。(クリック)みなさまのご助力がないと、工事ができませんので、よろしくお願い申し上げます。
武田康弘(白樺教育館 館長)
古林治さんが印刷・製本をしてもってきてくれました。
背表紙を張り付け、乾いたら透明テープでしっかり覆います。
消費税が10%になったので、書籍郵送料も300円から310円に値上がり。
写真にある切手では、あと8円不足でした(笑)