思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

平成時代!?令和時代!?そんな時代はどこにもありません。凄まじいばかりの天皇教=元号教には呆れ返ります。怖ろしいこと。

2019-12-28 | 社会思想

 最大の陰謀家と歴史家が言う岩倉具視(ともみ)がつくった一世一元の新元号制度は、明治維新当時は多くの民衆、とりわけ東国の人は、天皇という存在を知っている人が極めて少数であったことを受けて、天皇をいやでも意識させるために、元号と天皇を1対1に対応させたのものです。

 それは、まんまと成功し、まるで、特定の天皇の存在=元号名の時代が実在するかのような幻想を日本人に深く植え付けることに成功し、今では、左右を問わず(共産党は別)元号表記を当たり前のものとして受け入れ、役所は元号を実際上、強制しています。戦後の一時期を除き、いまはまた天皇という記号を絶対化するニッポン教=天皇教=元号教で染め上げられています。

 今年2019年の5月1日からは、日本では令和という新しい時代が始まったというのですから、呆れるを通り越して、あまりに容易く占脳・染脳されるわが日本人には言葉がありません。愚かも度が過ぎます。お人良しも度が過ぎます。理性はどこにあるのでしょうか。

 日本人は、無宗教どころか、世界一の宗教国家ではないでしょうか。天皇教とは、仰々しい儀式だけがあり、中身は形式主義=序列主義という思想ともいえないイデオロギ=で、その時々の世俗の価値を肯定し絶対化する世俗ISMですから、知らずに心身の奥まで侵食されてしまいますが、それに気づくこともなく「天皇陛下」などという民主制とは二律背反の言葉を平気で使う人が大多数ですから、なんということか、です。

  「陛下」という言葉は、階上にいる天子=天皇には、階下の役人を通してしか話すことすらできないという意味で、民主政治とはおよそかけ離れた言葉で、近代市民社会でこんな言葉が使われることには、絶句するほかありません。日本人は、いつまで明治政府がつくった天皇神話に呪縛されたままなのでしょうか。日本の歴史は天皇が中心だったというような真っ赤な嘘をいつまでひきづるのか、うんざりします。

 天皇を国事行為から解放し、伝統文化の象徴とし、住居を江戸城という徳川の城からほんらいの住まいである京都御所に戻す。そうすれば、日本には市民主権の民主制(政)が花咲き、皇族の人権も回復されます。


 ※「天皇ismは、理性を育てません」(クリック)


武田康弘



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天皇とは? 小説の神様・志賀直哉(学習院・白樺派)の見方と わたしの結語。

2019-10-22 | 社会思想

 

 以下は、小説の神様・志賀直哉が113年前(1906年 明治39年)に記したものですが、
江戸っ子の直哉は、長州藩の吉田松陰のつくった天皇教をとても嫌っていたことが分かります。

(志賀直哉は、1910年に親友のの武者小路や年下の秀才柳宗悦ら学習院の仲間たちと同人誌【白樺】を立ちあげ、やがてそれは白樺山脈と呼ばれる日本最大の文化運動に発展しました)


「天皇とは一体なんだろう?どうして何の為に出来たのだろう?誠に妙なものだ。こんな奇妙なものがなければならないのかしら?天皇というのは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)をゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々(こっけい こっけい)。・・・・・・・・」

   奇妙なもの  人間ではあるまい、単に無形の名らしい。

 という言い方は、さすがというほかありません。文学者の鋭い直観力で、見事にひとことで近代天皇制の本質を穿(うが)っています。中身・内容のない単なる「名」」であるゆえに「形」も定まらない。だから、人間ではなく、単なる無形の名に過ぎない というわけです。

 天皇とよばれる人は、その人固有の性質をもった一人の人間 (実存)ではなく、明治政府によって作られた近代天皇制というシステムにはめ込まれた人で現人神(あらひとがみ・生きてる神)と規定されました。

 これは、吉田松陰が、後期の水戸学や国学を用いてつくりあげた【天皇教という国家宗教(国家神道)】で、そのイデオロギーに感化された長州藩の若者(下級武士)たちの過激な思想と暴力を支えた「主義」です。

 したがって、天皇というのは、個性をもった一人の人間ではなく、「単に無形の名」なのです。現代の言葉でいえば、「記号」です。記号化された人間ですから、奇妙なもの、であるわけです。気の毒とも言えますが、その名により、数々の戦争や残虐が行われたのですから、評しようもない話です。

 「記号学」という学問は、政治に利用され、人々を特定の方向に導くための研究に使われたりもしています。電通などの大手皇国代理店ではなくて(笑)広告代理店において企業や政党(自民党など)のCMづくりに用いられます。人間は、ある言葉や動作、儀式や空間、音や音楽などを見聞きしたとき、自動的に脳は、さまざまなシンボルをつくります。そのシンボルをもとに思考は進みますので、記号学では、どのような言葉や儀式や空間や音をつくれば、特定のシンボルを脳内に生じさせることができるかを研究します。イメージの世界を支配する方法とも言えます。

 現代に生きるわたしたち日本人も、明治政府が考え決めた「一世一元の元号制度」(明治以前にはなかった新制度)により、日々、自動的に天皇と一体となっている時代名を使います。わたしの生まれは、昭和〇〇年で、今年の5月からは令和元年、平成という時代は云々だった、と言いますが、ほんとうは、時間がブツギレになり、まるで物の存在のように実体化されるのは、おかしな話です。日本だけに固有の時間ー時代がある、というわけですが、そういう意識を生じさせるのは、元号という記号のおかげ!です。そこから、「日本人」という特別の存在がある、という思いも生まれます。

 あまたの記号で、日本最大のものが、「天皇」という言葉でしょう。即位の礼と大嘗祭という儀式を行い、天皇という役を担うことになると、個性をもった一人の人間は天皇という記号へと変わります。この記号は、おそろしいまでの力を放射し、日本人は、この言葉=記号を聞くと完全な思考停止になります。天皇という概念や天皇制について考えることはタブーとされ、マスコミも天皇制の検討は一切しません。人々は、この記号により無意識領域まで管理されてしまい、思考は無となります。

 では、なぜ、天皇という記号が、これほどまでの威力をもつことが可能なのでしょうか。
 それは、天皇教という儀式宗教が、内容をもたないからです。特定の内容はなく、三種の神器という秘密めいた品があり、万世一系という神話(もちろん真っ赤な嘘)があり、さまざまな秘密の儀式があります。天皇は1年間に200以上の儀式を行い、その多くの核心部分は秘密です。このようにたくさんの儀式があり、中身がないのが天皇教の特徴です。

 内容・中身がないのですから、批判のしようがなく、対立もおこりません。「型」=「単なる無形の名」(名だけがあり内容を伴う形はない)があるのです。
 厳かな仰々しい儀式があり、その儀式の型は、代替わり、死去、米の豊穣、安心・安全、及び紀元節の祝いや神武天皇を実在の人物とする儀式などですが、儀式の真の目的は、天皇という記号の神秘性と権威性を示すところにあります。天皇とは吟味・検討を許さない超越的な存在であるという想念を人々に浸透させ、有り難いものと感じるように導くわけです。内容は、その時々の世俗の価値に合わせて変わりますから、戦前は皇軍の顔で戦争のシンボルでしたが、今は平和の象徴です。柔軟!?でなんにでもなれます。

 「どのような言葉を使い、所作をし、儀式を行えば神秘性と権威性を高められるか」その追求に特化して生き延びてきたのが天皇家ですから、ずっと昔から記号学の実践的研究に取り組んできた家系(血のつながりは途切れているが)といえるかもしれません。また、天皇家にしか使われない数々の特別な言葉=敬語をつくることで、世俗を超越した天皇というイメージをつくり出し、無言のうちに人々に頭を下げさせます。さらに、戦後の象徴天皇制においては、親しみをつくる言葉や所作や行為を追求し、その基盤を強める努力もしてきました。

 この方法はとても優れていて、上位者は、上位者であることを示せば、自然に勝てる仕組みとなりますから、日本ではみなが用いています。そのために、中身・内容の追求はおろそかになります。生き方の探求や実存の冒険がなく、わたし固有の意味充実の世界を拓く営為がひどく乏しくなります。個々人から立ち昇る精神の自立がなく、組織の中で決められた役割を果たすのが人生の意味となるのです。これは、人間管理の究極の形態と言えます。内容は乏しくとも形式だけが立派という生き方に誘導されます。

 恋知(フィロソフィー)の営み=実存としての生はありません。 

 明治政府がつくった近代天皇制は、いまもなお象徴天皇制として生き残っています。天皇という役を担う人の人権を奪い、その代わりに超がいくつもつく特別待遇をし、皇族と呼ばれる一族を縛り、一人の人間として生きる道を閉ざしています。思想や発言の自由はなく、参政権もなく、個人の尊重もありません。数々の権利がない分、義務もなく、多額の収入(すべて税金)はありますが、納税の義務は果たしません。それは、天皇は国籍を持たないからです。苗字はなく、住民登録もなく、日本の法律(実定法)は適用されませんので、法的には日本人ではなく、宙に浮いた存在です。

 こういう説明不能の天皇という存在が日本人全員を統合する象徴!? この理不尽なシステムを維持するには、永遠に「単に無形の名」である記号に頭を下げ続けさせる努力=染脳・占脳を続けるしかありません。

 

 天皇を国事行為から解放して一人の人間としての人権を保障し、文化的行事への貢献者とし、いまの数々の国事行為は、近代市民社会にふさわしい形に簡略化し、大統領(元首であり、政治権力はもたないが、首相の国会解散への拒否権はもつ)が行うのです。天皇制から共和制へのスムースな移行です。市民精神にも基づく話し合いで、混乱なく天皇を「単に無形の名」から解放し、明治以前の日本の伝統に戻し、同時に現代にふさわしい自由な生活を保障するのは、日本の名誉革命(市民革命)になります。住まいは、徳川家の城である江戸城ではなく、ほんらいの京都御所となります。それに伴い江戸城(皇居)は、公共の公園として国民みなのオアシスに変わります。首都東京=千代田区の真中に自然がいっぱいの広々とした公園がある国は、世界に誇れる民主主義=市民主権の国です。なんと素敵なことでしょう~~~~~~

 天皇教の呪縛から解放された国民と天皇家は、自由・平等・友愛の精神を現実に自らのものとし、生き生き伸び伸び、型ハメ、束縛、上下意識から自由になり、みながそれぞれの個性を大胆に肯定して生きる国へと変わります。

 ※天皇家にのみ伝わる宗教=儀式をどのようするかは、最終的には天皇家の人々の判断です。簡略化したり、不要と思われるものを廃止したり、あるいは、盛大に行うか、それは、信教の自由で、天皇家の問題です。ただし、税金を用いるのは、日本国憲法に反しますから、不可能です。(憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)

 
武田康弘
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「偉いのは俺たちだ。天皇なんかじゃない。」こどもたちに元気と勇気を与えました。 昨日のblog「日本で一番偉いのは、あなたとわたし」

2019-10-19 | 社会思想

昨日のBlogは、こどもたちに元気と勇気を与えました(嬉)。

読んだ子は、興奮気味によろこびを隠せず、上気し、満面笑顔。 天皇は、主権者に雇われている象徴なんだ! 給料は、親の出す税金からだ!

自分の自由と責任で国をつくる!!誰かに頼るのではなく、自分の頭で考える、自分自身として生きる、主権はおれにある、わたしにある、それがどれほどのパワーを生むか!!目の当たりにして、私も興奮。

中身のない儀式宗教=天皇教に基づく天皇制が、どれほどみなを委縮させているかその証明でもありました。なんだか分からない天皇という超がつく敬語で遇される存在があり、それに対しては、無条件で頭を下げる!? これでは、自分の存在を超えた他者に拝跪するということになってしまい、実存としての生=精神の誇りは消えてしまいます。

囚われなく、のびのび自由に考え、発言し、行為する。そこで初めて責任という概念が生まれ、責任を引き受ける私という主体者が誕生する。この絶対の原理が曖昧な日本という国は、もとからアウトです。変えましょう~~ あなたが変われば、変わります。


日本の国で、一番偉い人は誰?  国民主権の国ですから、あなたとわたしです。 じゃあ、天皇って何? 

2019-10-18 | 恋知(哲学)

日本の国で、一番偉い人は誰? 
国民主権の国ですから、あなたとわたしです。

じゃあ、天皇って何? 
主権者である国民が、「象徴」という勤め(務め)をしてもらうために雇っていて、身分は特別公務員です。
主権者であるわれわれ国民は、年に3億数千万円(天皇家の私費として)を払っています。ただし、特別扱いで、所得税も住民税もゼロ円ですし、各種保険料もゼロ円です。住まいは徳川家の城=江戸城で、広大ですが、それにかかる費用は別途、税金で維持します。

え!それなのに、特別な敬語で呼び、われわれ主権者より偉い!という扱いなのはなぜ?
キリスト教の国では、こどもが生まれると、すぐに洗礼を受けさせてクリスチャンにしてしまいます。 
日本では天皇教という宗教、中身はない(というより、その時その場の空気で変わる)【儀式宗教】の信者に自ずとなっていくのです。「私は私」という意識をあまり持たせないように教育しますから、周りに合わせるのが当然という考えに次第に染まっていきます。いつの間にか「天皇陛下万歳!」という人になっています。

ええっ!嫌(いや)だと言ったらどうなるの?
さあ? どうなるのでしょうかね。わたしは、天皇教はよくない、と思い、「恋知」(フィロソフィー)の生を提唱し、そう生きてきました。自分では、重苦しい天皇教という集団同調の生き方とは異なるよい生き方と思っていますが、周りの人がどう思っているかは、知りません。

明治政府がつくった天皇教という思想(国家宗教)とは切れた考え方ー生き方を選ぶか、あるいは、集団同調で生きるか、それは、あなた次第です。ブッダの言うように自分自身と法則を究極の拠り所にして生きるか、天教教徒=集団同調者として生きるか?

で、国の主人とはだれ? 天皇陛下!じゃなくて、あなた!とわたし!のはずですね。

 

 クリックで拡大します。


「私と共和制」 楽しい公共社会を生むために + 人類思想の三分類と恋知  ぜひ、お読みください。

 

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天皇色に染められる日本人! すばらしい威力の「天皇教=元号教」に脱帽です。精神の自由を担保し豊かに生きる「白樺同人社」をつくりたい。

2019-10-01 | 社会思想

 生まれた時から、わたしは、平成〇〇年生まれ、昭和〇〇年生まれ。
わたしたち日本人は、「天皇」と呼ばれる人とくっついた元号名の時代(昭和時代、平成時代、令和時代)が存在すると、誰でも自然に思い込みます。



 天皇が生きた神とされ、「神聖にして侵すべからず」(「大日本帝国憲法」第3条)で、皇軍のトップ・シンボルであった1926年~1945年までは昭和時代で、
1945年、無条件降伏(「神の国」なのに全面敗戦)して、天皇が「わたしは神ではありません」と人間宣言をして、憲法が全面改正されて、天皇主権から国民主権に180度変わっても同じく昭和時代といい、今度は平和の象徴になりました。


 人々は、昭和時代はこうだった、ああだったと、さもさもの顔をして語る。時間が実体化されて、昭和時代というものが存在する!?!?(驚)と思います。

 代替わりとなると、新しい時代が来た!と超がいくつもつく大宣伝がなされ、右派も左派もみなお祝いで、同調しないとは日本人とはみなされず、テレビは絶対に出してもらえません。これほどの思想統制があるのは、驚くべきことです。マスコミには異論も反論も載りません。

 「わたしは無宗教」、というのが多くの日本人ですが、それはまるで違い、立派な天皇教徒です。天皇教の信者でなければ、時間が何十年かでブツ切れになる元号など使うはずがありません。いつのことか、何年前のことかも分からなくなる元号制度、古代国家の王と共に時代を変える元号制度、世界で一か国だけ残った不合理極まる元号を平気で使えるはずがありません。

 知らぬ前に心身の奥まで「天皇教」に染められている証左です。これほどに染脳・占脳がうまくいくのは、天皇教には中身・内容がなく、形式・儀式だけがあるからです。仰々しい儀式・さもさもの儀式を見せられる。その立派な儀式とはあべこべに思想の中身・内容は示されないので、人々は安心して従うのです。形式だけだから心配ない、というわけです。実は、象徴動物である人間は、ある特定の形式を受け入れることで、生き方の基本形を決められてしまいます。日本人が恐ろしいほどに肩書に弱く、学校名がものをいうのも、有名か無名かでよしあしを決めるのも、形式が重要と思い込むのも、仰々しい儀式に無批判的に従ってしまうところに深因があるといえます。

 元号を連呼し、役所の書類は元号で書かせ、一番切実な銀行の書類も元号。元号を徹底させれば、知らぬ間に「天皇教」=全体一致の形式主義の精神に誘導できるのですから、明治維新の岩倉具視(武家政治を終わらせて公家政治を復活させる)や伊藤博文(天皇教をつくり長州藩による全国支配)による「一世一元」という日本の歴史になかった新制度の創設は、敗戦後もなお威力を保ち、現代の日本人の深層意識まで侵し続けています。

 実に見事な!明治。その呪縛力の強さは、世界一です。右派も左派も逆らえないのですから、脱帽するほかありません!(笑)


 ところで、わたしは1952年生まれですが、あなたは何年生まれですか?


追記

 役所から来る文書は、すべて元号で、最近では、西暦(エジプトの太陽暦にはじまる実際上の世界暦)に直すこともできないような体裁(書き込むスペースがない)になっています。まさに「一世一元」という明治維新がつくった元号制度は、天皇教の象徴です。キリスト教のシンボルは十字架ですが、天皇教のシンボルは元号です。日本にいると、その「役所権力=国体思想の政府権力」が強要する天皇教からいまのところ抜けられませんので、元号を使わず=天皇教から離れ、皇族の人々の人権の回復も目がける【共和制の日本】(国事行為から天皇を解放し、文化的行為・国際親善のみを仕事とし、国事行為は、政治権力を持たない大統領が行う。政治権力は首相がもつが、大統領は、首相の国会解散への拒否権をもつ)への移行をよしと考える人は、とても肩身の狭い思いをさせられてしまいます。無形の人権侵害を受けるのでとても不愉快。

 そういった事態からの個々人が解放されるためには、かつて、キリスト教と教会からの有形・無形の圧力を受けて自由が抑圧された欧州で、自由を守るためにモーツァルトやベートーヴェンが所属したフリーメーソンのような結社が必要と思います。秘密結社ではなく、公開で、みなに開放された結社がよいと思います。名称は、「白樺同人社」としましょうか。知恵、労力、少しのお金を出し合って、友愛の結社ができれば素敵です。すでに本部=「白樺教育館」はあるのですから現実的な話と思います。多くの自由な精神を守るために、日本主義=天皇教の呪縛から逃れて、真実を探求し、のびのびと学び、心豊かで自由な人生をおくるための結社って、素敵で有益だと思いますが、どうでしょうか?

その思想は、主義や宗教ではなく、各自の実存としての生を花咲かせるものですが、すでに「人類思想の三分類と恋知」英訳もあります)「私と共和制ー楽しい公共社会を生むために」に記していますので、ぜひ見てください。お時間があれば、精読=音読してみてください。

※小学生のときに暗記した憲法条項ですが、
「第二十一条 集会結社及び言論、出版その他一切の現の自由は、これを保障する。」の結社の自由の意味がようやく分かりました(笑)




武田康弘(フィロソファー=恋知者)

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日本人が戦前への反省を曖昧にし、誤魔化してしまう大元の原因は、天皇裕仁の「退位さえしない」という無責任な行為にあるのです。

2019-09-28 | 社会思想

 ※以下は、「私と共和制」-楽しい公共社会を生むために(武田康弘著) からの抜粋です。


 と
もあれ、敗戦後、主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をしたわけですが、これを曖昧にし、近代日本の歴史の意味をカオス化させたのが、昭和天皇裕仁の【退位さえもしない】という驚くべき行為でした。  

 憲法の全面改定により「人権思想に基づく民主制の国」へと変わったにも関わらず、裕仁がそのまま天皇という地位に留まった為に、日本の近現代史は混沌として意味の分からぬものとなりました。現人神!であった戦前も「人間宣言」をして人間!になった戦後も同じ「昭和時代」と呼ばれることになったのです。 
 

 これは、日本人全体の歴史認識を大きく狂わせてしまい、戦前の反省、その思想と行為の検討や批判を困難にしてしまいました。戦前は、学校で、天皇は生きている神と教えられていたため、神国日本は絶対に負けないと信じ込み、どのような悲惨な戦いでも白旗を上げないで全員戦死を選ぶことをよしとし、いつまでも戦争を続けましたが、その結果、最後は2度の原爆投下(米軍は13発を用意して日本全土を壊滅させる作戦でした)でようやく「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したのでした。それによる戦後の根本的な改革=出直しだったのですが、裕仁は、退位を勧める人たちの声を無視して天皇の地位に留まったために、戦前の明治天皇制と戦後の象徴天皇制との相違が曖昧となり、日本人みなの歴史意識と社会と政治への考え方を歪めてしまったのです。   
 

 
これは大きな負の遺産で、いまの安倍自民党政府に見られるように「戦前思想」への回帰-明治礼賛の政治を復活させてしまう原因ともなっています。明治維新以降敗戦までの「天皇現人神」と、敗戦後の象徴天皇制との次元の相違がボカされて混沌とさせられていますが、いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、それへの大きな違和をもち出来る限りの抵抗をしてきました。その最大の行為が「生前退位」です。岩倉具視や伊藤博文らがつくった天皇教(=靖国思想=国体思想)では、天皇は神であり、その死によってのみ時代は変わる=新元号となるので、退位は認められないとするのが明治から続く思想と制度でしたが、それを壊したのが、今回の明仁さんの決断でした。  ただし、「一世一元」という根源悪はそのままですが。

 なお、ここで敗戦時に昭和天皇の裕仁について兵士はどう思っていたかのエピソードをご紹介します。日本人の多くは敗戦後も「天皇現人神」という深い洗脳が解き切れなかった為に、なかなか表には出せなかった赤裸々な心の声です。
 

 
「天皇はのうのうと生き延びた!」 元兵士の憤りの声ーある証言 (わたしのblog「思索の日記」2018年8月16日から)。 

 わたしの義父の関根竹治さんは、1923年12月に埼玉県蓮田市に生まれた関根家の長男でしたが、2010年8月に亡くなりました。 
 農家の総本家の長男で、頭はしっかりし心も強かったですが、先祖代々の農家の後継ぎでしたから政治思想などは特になく、ふつうに保守的な人でした。政治の話、まして天皇の話などをしたことはありませんでしたが、亡くなる数年前のお盆の時、親戚一同の前で驚くべき発言をしました。   

 
みなで、テレビで、終戦記念の番組を見ていたとき、わたしは、「東京裁判で東条英機が罪をかぶり絞首刑になったが、ほんとうは、昭和天皇に大きな責任があるはず」と発言しました。親戚一同は何も言わずに黙っていましたが、 その時、竹治さんは、大きな声で断固とした調子で「そうなんだ!」「わしら兵隊はみな、天皇は、自害するものと思っていた。」「だが、天皇は、のうのうと生き延びた!!」と言い、赤紙一枚で、無意味な戦争に行かされ、農民は、どれだけ大変な思いをしたか、を話しました。   

 
誰もが口を聞けませんでした。心からの明晰な声、揺るぎない言葉にみな黙るほかありませんでした。始めて聞く竹治さんが話す兵隊たちの思いに唖然となりました。  自害どころか退位さえしないで、最高責任者がそのまま天皇の名で、「のうのうと生き延びた!」ことに、強い憤りをもつ竹治さんの声は、誰の耳にも心の真実を伝えたのでした。

 

 

 

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弱者救済が政治の核心、この前提がない政治は、反民主主義にしかならない。安倍とは諸悪の代名詞。

2019-09-12 | 社会思想

弱者救済こそが政治の核心だ、という強靭なイデーが前提としてあり、その上にはじめて対話も討論も成り立つのです。

 

そういう明確なイデーがないまま話し合えば、形式民主主義に陥り、必ず、金持ちや社会的強者(地位ある者)の有利に陥ります。

 

そうなら、政治は、政治屋さんの職業=喰うための仕事に堕ちます。

 

社会的弱者を助けるという大前提=強いイデーがない政治は、ただの権力支配の道具にしかならないのです。この原理を弁えないインチキ政治家=政治屋さんで溢れるのが今の日本です。

 

山本太郎一人に人気が集まるのも当然です。

 

台風の大災害ー大停電の悲惨などおかまいなしの政治ショー=内閣改造で支持率アップ!というのが安倍自民党の赤裸々な姿です。

 

憲法順守義務がある筆頭の総理大臣が、憲法改定の音頭を取る、それ自体が最悪の憲法違反ですが、そういう愚か極まる言動が許されるのが、わが日本という国です。元からアウトです。


武田康弘


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天皇家のみなさま、江戸城に住み続けるのはよろしくないと思います。元々天皇家の財産ではないのですから。

2019-09-09 | 社会思想

 天皇家は、薩長同盟による革命=明治維新に利用され、同調し、利害を共有しましたが、
それにより、まったく縁もゆかりもない江戸城に住む(住まわされる)ことになりました。150年前のことです。

 皇族は神の系譜であり、天皇は現人神(生きている神)と規定され、そのように遇されました。
全国民は、臣民と呼ばれ、軍隊は天皇の軍隊=皇軍と言われました。国民=臣民は天皇の赤子とされました。

 日本人は、政府=国家権力により天皇の下に拝跪させられましたが、国民は好んで天皇に拝跪したとも言えます。天皇教という宗教(国家宗教)ですから、信者である国民は、自ら進んで天皇に帰依して自分を差し出したのでした(今も世界に一カ国だけ残った「元号」を有り難がり、令和令和と喜んでいるのですから、天皇教は健在ともいえます)。

 自分自身を拠り所にせよ、というブッダ=釈迦の思想とは逆に、天皇を拠り所にするのが日本人のようです。今でも公的に天皇・皇室制度を批判することは許されませんので、テレビも新聞も天皇礼賛のみで、本来の思想の自由は、日本という天皇主義の「官僚王国」(ギリシャ史家の村川堅太郎の言葉)にはありません。野党第一党の立憲民主党も、基本政策を「令和デモクラシー」と呼んでいます。


 いまだに江戸城に住み続ける天皇家では、道徳に反してしまいます。

 1945年9月2日に降伏文書にサインして、無条件敗戦をし、

主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をして、明治憲法(「大日本帝国憲法」)から日本国憲法に変わり、昭和天皇が「人間宣言」をして現人神(あらひとがみ)ではなくなった後もまだ、赤の他人である徳川家の居所=江戸城に住み続けているのでは、誰が見ても「不道徳」と思います。国民の公園として、日本国民の共有財産とすべきではないでしょうか。

 天皇家は、ほんらいの住まいである京都御所に戻らなくていけないはずです。それは理の当然でしょう。権力で奪えば正当というのでは、人の道に外れてしまいます。

 天皇家のみなさま、きちんと考えてください。不道徳はいけませんので。


武田康弘


以下は、fbのコメントですがその通りと思います。


  • 菅沼緑 GHQは天皇を裁判にかけるよりも、象徴の役割を担わせて、人々の精神的なシンボルとして存続させることにしたと言いますが、それは、明治以後の主権天皇を温存することにも結果的になってしまったのではないでしょうか。
    そして、日本人の精神構造もなに一つ変化を為し得ず、根底も同じままだという気がします。
    現在の皇室典範というものの成り立ちを一つも知りませんが、これとて、戦後改定されていたとしても、おそらく戦前と変わったのは、現人神ではないということくらいで、扱いはまんまなのでは。
    皇族たちの生活は庶民のそれとはかけ離れた、実体など想像も及ばないことで、目も手も届かない遠くの存在として、現人神に近い尊き人々としてあることで、庶民は逆にありがたき存在として敬いざるを得ないことになったのではないでしょうか。
    そうしたことが、日本人の精神構造を金縛りに押さえ変化のひとつも許さなかったことが、私などからすれば全てが間違いだったと思います。
    皇室典範というものを解体するべきだと思うのです。

 



 

 



 

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昭和天皇の言葉!? 調子のいい部分公開が許されるのは、他国ではありえない酷い話です。

2019-08-20 | 社会思想

昭和天皇の言葉!?

このような調子のいい部分公開が許される国は、民主政の国では、世界中でただ一カ国です。

なぜ、これほどまでに愚かなのか?まるで、いつまでも天皇教という国家宗教の中にあるようです。

現政権と天皇家にプラスのイメージを与える部分のみを抜粋しての公開は、公開とすら言えないのです。詐術でしかありません。

こんな初歩的なことも分からず、遺族の意思とやらに踊らされるNHKという放送局や日本のマスコミのテイタラクには、ほんとうに呆れ返るしかありません。

理性=判断能力そのものが欠如しています。もし、昭和天皇がほんとうに戦争責任を感じ、自己批判の意識があったらのなら、退位する、と宣言し、実行すべきだったのです。それすらできない人間が、現人神と呼ばれ、主権者であった国がわが日本であった事実は、みなが明晰に認識しなければならないでしょう。

 

以下は、朝日新聞デシタルから(太字は武田)

終戦後に宮内庁の初代長官を務めた故・田島道治(みちじ)(1885~1968)が、昭和天皇との約600回に及ぶ面会でのやりとりを詳述した文書を残していたことがわかった。遺族から入手したNHKが19日、一部を報道各社に公開した。昭和天皇が国民に向けたおことばで戦争への「反省」を表明しようとこだわったことや、改憲による再軍備の必要性に言及していたことなどが記されている。 この文書は、1948(昭和23)年に宮内庁(当時は宮内府)長官に任命された田島が、翌49年2月から退官した53年12月にかけて昭和天皇とのやりとりを記した手帳やノート計18冊。全体は公開されず、NHKが報道し、遺族の同意を得た部分のみを抜粋して公開した。一部には「拝謁(はいえつ)記」と記されている。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員・「日本国憲法の哲学的土台」を国会所属の官僚に講義)

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NHKの「ヒトラーのこどもたち」を見て、純潔主義=「天皇の赤子」というわが国の思想と制度を思った。

2019-08-16 | 社会思想

 いま、NHKで、「ヒトラーのこどもたち」と題するショッキングな番組を放映していました。

純粋なアーリア人のこどもをつくる施設を欧州に10数ヵ所つくり、そこで世界支配の「エリート」を育てる計画が実行されていた事実をフランス人ジャーナリストが明かしたのです。

 

  ヒトラーのドイツは、純粋なアーリア人!?という意味不明の計画を真剣に追求していたのですが、それを見て、わたしは、日本の純潔主義=天皇を出す皇室は神の系譜という主張を思いました。

 昭和天皇は、自分は人間であると戦後に「人間宣言」をしましたが(アメリカの提案を受けて)、それでも、皇室の祖先は神との認識を持ち続けたと言われています。

 

 70年余り前まで日本という国は、天皇を現人神(生きている神)として崇め、教育を通して、皇族は古事記の神話から続く特別の存在なので敬わなければならないと教え、それに疑問を持つ者を逮捕・投獄・拷問にかけていたのでした。非国民として排除しました。世界支配の八紘一宇という思想も共通してます。

 

 なんとも言葉にならぬほどの話ですが、明治以降、国民は臣民とされ、日本臣民は「天皇の赤子」であると言われてきました。戦後の新憲法14条で、「門地(生まれや家がら)により差別されない」と明瞭に記されていても、いまなお皇族は、超がいくつもつく特別待遇で、そのかわりに個人の発言や行動の自由は大幅に制限され、人権が奪われています。退位した後も「上皇」と呼ばれ(今はいつの時代なのか!)、死ぬまで個人にはなれません。

 

 これほど異様な制度とそれを支える思想を21世紀の今日でも維持している国、「一世一元」という明治政府が拵えた制度で全国民の時間・時代を決めている国は、190か国以上ある世界の中でただ一カ国です。 
 ついでに言えば、まったく縁もゆかりもない江戸城に住み続けさせている(最初は伊藤や山県らが京都御所から満15才の睦人を連れてきたのだが、戦後の新憲法下でもまだ江戸城に住まわせている)は、酷い話で、他者の家を奪っている(奪わせている)一家を高貴なものとし、その長を国民統合の象徴とするとは、これでは、「不道徳の勧め」のような話にしかなりません。京都御所に戻してあげないといけませんよね。


武田康弘

 

 

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ポツダム宣言受諾=無条件降伏から74年。一枚の紙にすべてが書かれています。最重要文書ですが、安倍首相は、つまびらかには読んでいないとのこと(阿呆)

2019-08-15 | 社会思想

 以下は、戦後の日本を決めた最重要文書ですが、数年前、安倍首相は、国会で、志位さんの質問に、「ポツダム宣言はつまびらかには読んでいない。」と答弁しました。

「ポツダム宣言」は、以下のような短く極めて明瞭な文書です。この最重要文書さえ読んでいない人間が首相を務めるとは、おそろしいほどの知的退廃にある国というほかありません。阿呆!

日本への最後通告でしたが、昭和天皇も外務省も政府も軍部もみなこれを無視その結果、原爆投下が現実となったのです。まず、「ポツダム宣言」を読んでから考え、語る。誰であれ日本人の常識のはずです。


(外務省情報局トップで防衛大学教授であった孫崎享さんの著作より転写)


 資料① ポツダム宣言(米、英、華三国宣言) 〔口語訳:文責編集部〕
(一九四五年七月二六日「ポツダム」 において)

一、 われわれ合衆国大統領、中華民国政府主席および英国首相は、数億人の国民を代表し、協議のうえ、日本国に対し、今回の戦争を終結する機会をあたえることで意見が一致した。
 
二、 西方から陸軍および空軍による数倍の増強を受けて巨大になった合衆国、英帝国および中華民国の陸海空軍は、日本国に対し最後の一撃を加える態勢を整えた。この軍事力は日本国が抵抗をやめるまで、同国に対し戦争を行なっているすべての連合国の決意により支持され、かつ鼓舞されているものである。

三、 立ち上がった世界の自由な人民の力に対する「ドイツ」国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例をきわめて明白に示すものである。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗する「ナチス」に対してもちいられたときに、すべての 「ドイツ」国人民の土地、産業および生活様式を荒廃にいたらせた力に比べ、はかりしれないほど強大なものである。われわれの決意に支持されたわれわれの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅を意味しており、また同時に日本国本土の完全な破壊を意味している。

四、 無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた身勝手な軍国主義的助言者によって日本国が引きつづき支配されるのがよいか、または理性の道を日本国が歩むのがよいか、日本国が決める時が来た。

五、 われわれの条件は以下のとおりである。
   この条件からの逸脱はないものとする。これに代わる条件はないものとする。遅延はいっさい認めない。

六、 われわれは無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまでは、平和と安全および正義の新しい秩序が実現できないことを主張する。したがって日本国の国民をだまし、彼らに世界征服の挙に出るという誤りを犯させた者の権力および勢力は、永久に排除されなければならない。
   

七、 そのような新しい秩序が建設され、また日本国の戦争遂行能力が破壊されたことが証明されるまでは、連合国の指定する日本国の領土内の諸地点は、ここで指示する基本的目的の達成を担保するため、連合国が占領するものとする。

八、「カイロ」宣言の条項は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに、われわれの決定するいくつかの小島に限定される。

九、 日本国の軍隊は完全に武装を解除されたあと、各自の家庭に帰り、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることを許される。

十、 われわれは日本人を民族として奴隷化しようとしたり、または国民として滅亡させようとする意図をもっていない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者をふくむすべての戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられることになる。日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対するすべての障害を排除するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする。

十一、日本国はその経済活動を維持し、かつ公正な実物による戦争の賠償の取り立てを可能にするような産業を維持することを許される。ただし、日本国が戦争のための再軍備を行なうことができるような産業はこの限りではない。この目的のため、原料の入手(その支配とはこれを区別する)は許可される。日本国は将来、世界貿易への参加を許される。

十二、前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意思にしたがい平和的傾向をもち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍はただちに日本国より撤退するものとする。

十三、われわれは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつその行動における同政府の誠意について、適当かつ充分な保障を提出することを要求する。これ以外の道を日本国が選択した場合、迅速かつ完全な壌滅だけが待っている。


 武田康弘

 

 

 

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政治は何のために、誰のためにあるのでしょうか? 簡明なことも分からない今の日本人!

2019-08-15 | 社会思想

 金持ちや、高額年金を受け取る人や、権力保持者のために政治があるなら、それは、元からアウト。政治は社会的弱者のためにあるーこれは民主主義の原理です。

 政治は、この社会から大きな利益をあげている人たちや、得なポジションにあってリッチな生活をしてる人や、権力者など有名人の家系に生まれ、何不自由なく生活している人のためにあるのではないのです。

 リッチな生活をしている人は、税をよく払い、また、よく寄付をして、公共社会に貢献する、それが基本にして絶対的道徳です。そういうことしないで貯めこんだり、贅沢をするだけの人には、天罰が下ります。実名はあげませんが、わたしは多く見てきました。

 これは政治の常識であり、いまさら言うべきことではありませんが、明治維新の極めて過激な人々の末裔が政治の表舞台に立ち、マスコミを通じて人々を支配しているいまの日本は、ニューヨークタイムズ・元東京支局長の言う通り、「これほど酷い民主主義国は見たことがない」というほかありません。

 

 正しいことを誰にも遠慮することなく言う山本太郎や、辻元清美などが、ふつうの政治家であり、権力やお金をもつ人や大きな団体に気を使い=忖度し、形式的にだけ「正しい」ことを言うような堕落した政治家にはほんとうに吐を気もよおします。彼らは、自分の名前(それなりの肩書と名声)とお金のために生きていて、「うまい職業」としての政治を仕事にしてるだけのこと。

 テレビ番組のように、右派、保守派提供、少しはましな保守派提供、お堅い左派提供・・の番組制作者に過ぎず、言葉の上では対立していても、同じテレビ放送維持のお仲間です。山本太郎のいう通り、みんな仲良く永田町!の住人で、民衆支配のテレビ番組のそれぞれの提供者でしかなく、そこからはみ出た者はテレビには出さない(ああいう変な人、過激な人は排除が当然だよね~という共通了解で一致・笑)。

 この与野党でつくる暗黙の了解は、山本太郎の出現で、とりわけ重度障害者の当選で、激変しはじめました。社会全体が、わたしの身の周りまで一気にプラスの影響が出はじめ、ふつうの人々の意識が急激に動きだしています。

 山本太郎こそがほんとうの愛国者ではないか、と思います、ウヨクの狭い愛国主義=明治維新がそれまでの日本の伝統を暴力的に断ち切って拵えた過激な日本を伝統とするあまりにも愚かなニッポンイデオロギーから目を覚まさないと、愚かなまま人生を終えてしまいます。根源的な不幸です。

 籠池夫妻のように、騙されていたことに気付き、過ちを反省して、よい考えに基づいた行為ー生活に転回しないと、いつまでも「ウヨクイデオロギー 内 人生」が続きます。それでは人生の失敗というほかないのです。

 政治は、金持ちや成功者や権力者のためにあるのではなく、社会的弱者のためにあるのです。金持ちは、自民党に寄付するのではなく、社会にお金を還元すること。それが基本的にして絶対的な道徳です。わたしは、愛の教育(はみ出すくらい愛を!)のために全財産を使ってきましたが、使い過ぎて、もうありまん(これはやり過ぎ・笑) 
  

 

武田康弘

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「元号は伝統」というのは、真っ赤なウソです。

2019-07-04 | 社会思想

 中国にならった「元号」の制度は、「大化」(645年)にはじまり、二度の中断をはさみ、「大宝」(701年)から続きましたが、その伝統は、江戸時代と共に終わりました。

 明治からは、一世一元という新しい元号制度=天皇と元号を結び付けて、近代天皇制と呼ばれる天皇中心主義国家のシンボルとなったのです。国民に一世一元の元号を使用させることで、日々、自然に天皇という存在を意識させるのが、明治政府の目論見(もくろみ)でした。  明治維新が、大化から慶応まで1200年あまりの日本の伝統を壊して作った「天皇現人神」という国家宗教=国体思想=靖国思想は、大きく深く日本人に浸透し、いまなお続く呪縛力にはただ驚くほかありません。

 一世一元の元号の果たす役割(天皇という存在を人々の深層心理にまで入り込ませる)は恐ろしいほどのものと言えます。

 江戸時代までの伝統の元号とは、大化(645年)から慶応(1868年)までの1223年間に244の元号ですから、一つの元号の平均の長さは、5年強です。天皇在位とは結びつかず、頻繁に変わる時代名でした。江戸時代では庶民は、時間を測る尺度にはならないので、干支(12年×5=60年で一巡)を使っていました。  ちなみに、最初の「大化」は、4年8カ月。次の「白雉」も4年8カ月、「朱鳥」6カ月、「大宝」3年1カ月、「慶雲」3年7カ月です。 最後の江戸時代末は、「万延」11カ月、「文久」2年11カ月、「元治」1年1カ月、「慶応」3年5か月です。

 ※また、天皇という中国にならった呼び名は、天武(673年)が最初であり、平安初期の村上天皇までで、その後は800年間もの間「天皇」と呼ばれる存在はいませんでした。天皇と呼ばれた一族は、実権を失い、京都のローカル王にすぎなくなったからです。「天皇」の復活は、江戸時代後期の光格天皇まで待たねばなりません。しかし、今日でも、今上(こんじょう)とか御門(みかど)などと呼称され、死後は「〇〇院」と呼ばれた存在もみな「天皇」としているのは、明治維新による歴史の改ざんのままです。明治政府の方針(日本の歴史は天皇の歴史というウソ)にいまなお従っているのでは、あまりに愚かです。スサマジイまでの洗脳が続きます。


武田康弘

 

 以下も、ぜひ、お読みください。

人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」

 英訳もあります。クリック

 

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儀式好き・形や名まえで判断・陛下万歳!とか言う(笑)それは、「ネクロフィリア」という怖い精神の病です。日本文化の危険な性向。

2019-06-23 | 社会思想

 ネクロフィリアということばがあります。ヒトラーとナチズムを分析した著名な社会心理学者のエーリッヒ・フロムが繰り返し使った概念が、ネクロフィリアです。

 死んでいるものへの愛、とか、死体への愛という意味で、バイオフィリア(生きているもの・命への愛)という言葉の対義語ですが、ネクロフィリアの傾向を持つ人は、教師や医師や官僚などの上位者に多く、人と対等な関係を持てず(それを恐れる)従わせようとします。

 上下倫理を尊び、上か下かに敏感に反応します。 互いを対等な存在として認め合うのでなく、権威、権力、金力、学力、暴力などにより他者を自分の思う通りにしようとするのです。

 生きているものは、予想がつかない行為をするので苛立ちます。子ども、とりわけ幼子を嫌います。すべて予め決めてある通りにならないと不安になります。厳しい規則や固い組織など動かないものを愛します。モノや思い通りになる人だけしか愛せないのです。

 臨機応変、当意即妙とは無縁で、すべて自分の計画通りにならないと怒ります。固く、ぎこちなく(独裁者の言動や軍隊行進がよい例)、表情は紋切型で、魅力がありません。心から笑うことができず、作った笑顔しか示せません。

 生きているものは、思い通りにならず、たえす流動しますから、恐れます。イキイキとしてることを不審に思い、愉悦の心は取り締まりの対象です。エロース豊かなことを罪悪だと感じます。〈根源的な不幸〉としか言えませんが、そういう人は、自身も親や教師によりそのように扱われた人に多く、なかなか自覚できず、不幸と抑圧の再生産に陥ります。表情が紋切型でいつも同じ、身体の動きがどこかギコチナイのが特徴です。

 

 わたしは、先にも書きましたが、 安倍首相は、自著『美しい国へ』で、個人とか市民という概念を嫌い、「日本人ないし国民という概念を第一にすべきだ」 と言いますが、  いま、ここで、イキイキと生きている一人の人間、一人の女・一人の男から始まる社会・国という「社会契約」(人民主権)の考え方が受け入れられず、自分の思う「日本人」とか「伝統」の枠内にこどもや市民を閉じ込めようとします。そのように管理したいと「欲望」するのです。

 彼をはじめ『日本会議』のメンバーのように「戦前思想」に郷愁や肯定感をもつ人は、物や制度(国家など)そのものを愛するという倒錯=「物神崇拝(フェティシズム)」ですが、その精神の基本の様態は、ネクロフィリアと言えます。

 心のありようがネクロフィリア的な傾向にある人は、管理社会を好みますから、こどもや人々が自立心をもち、「私」からはじまる生き方をすることを恐れます。

 個人や自由や解放というイメージを嫌い、批判されるのを避けます。オープンな話し合いが苦手で、一方通行です。そのような傾向にある人は、様々な手段を用いて他者を抑圧しますが、それを合理化するための理論をつくり、その概念で、生きている人間を管理しようとします。

 特定のことば=概念に人々を閉じ込め、様式(パターン)の下に意識を置き、儀式的な生を営む「紋切人」をよしとするわけです。「神武天皇から125代続く男系男子の遺伝子を守れ!」と異様な主張をする『日本会議』のメンバーはその典型ですが、ネクロフィリアの傾向が強い人は、対等な関係性ではなく、上下倫理で自他を縛りますので、「民主的倫理」とは無縁ですし、個々の市民を主権者とする「民主政」とはひどく相性が悪いのです。人民主権の社会契約論を否定するのですから呆れます。

 ネクロフィリアは怖い精神疾患です。 もちろん、現実の人間を単純にバイオフィリアとネクロフィリアの二つに分類することはできませんし、ネクロフィリアそのものという人がいるわけでもないですが、そのような傾向にある人を見分けること、と、自分自身がそのような傾向に陥らないように注意することはとても大切です。

 精神の基本のありようがネクロフィリアの傾向が強い人が政治権力をもったり、教育者になったりするのは、社会にとって大変危険です。大きな厄災をもたらす可能性が高いのです。個々の「自由な市民の敵」とさえ言えます。彼らは、「幸福をつくらない日本というシステム」(ウォルフレン)の担い手となります。


武田康弘(2015年8月1日の再録)

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なにが元号ですか、神話がまかり通る日本では、再びカルト国家に堕ちてしまいます。

2019-04-20 | 社会思想

 元号を世界の国がみなやめたのは、あまりにも不合理だからです。

過去も未来も分からない。何年前かもわからない。ある家族(皇室と呼んでいる)の一人の人間の死や都合で、時間が切られ、時代が変わる、

これほど人を馬鹿にしたシステムはないので、世界中でやめたのです。最期に残るのはニッポンのみ。

 

 もういい加減に「国家宗教」の国をめやないといけません。神話を現実と言い張るのは、あまりにも愚かです。神武天皇の墓!?そこに遺骨があると言うなら、見せてみなさい。万が一遺骨が出てきたら、DNA鑑定をしなさい。血のつながりなど大嘘であることが証明されるでしょう。

 

 その証明もやらずに(できるはずはありませんー真っ赤な嘘であり神話でしかないのですから)、万世一系という酷い嘘を流布する人たちは、とんでもない嘘つきで、天罰が下るでしょう。

 

 嘘と偽りで固めた国など、まともな国家とはよべません。仰々しい皇室儀式で嘘をホントウだとし、デタラメを押し通そうとする心根は元から治さないと、健康で優れた人間には永遠になれません。

 


 今までは平成時代でこれから(5月1日)は令和時代、これほど人を馬鹿にした話はありません。元号の時代があるとは恐れ入ります。病気の進行が止まりまん。わが日本人に理性はあるのでしょうか。愚かにもほどがあります。ひどい迷惑です。


※なお、皇族を含めてみなが幸せになるにはどうすればよいか? ぜひ、わたしの論説をお読みください。 「私と共和制」(+人類文明の三分類と恋知)


武田康弘

 

 

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人間は、その社会の道徳や規則に反することもするものです。それは必要なことです。

2019-04-19 | 社会思想

人間は、その社会の道徳や規則に反することもするものです。

遵法主義者ー道徳主義者とは、ギリシャ神話(プラトンによるソクラテスの対話編「饗宴」)に出てくる厳禁の神のアナンケのような存在ですが、このアナンケを打ち負かし、自由と柔らかさと平和をもたらしたのが恋愛の神、エロースでした。規則や道徳に縛られ過ぎないことは、よく=楽しく豊かな人間性をもって生きるためには大切です。

 

問題は、その質と程度です。特段に他者への迷惑とならないことであれば、一人ひとりが自由に思い通りに行為することは、よいことであり必要です。固い、うるさい、細かい、というのは、ほんとうの道徳ではなく、規則のほんらいの意味でもありません。

 

テキトウ、ほどほど、まあまあ、うるさいことを言わない、というのは、最大のよいなのです。この人間の生の真理を分からない愚かな者が「正論」を吐くのを見ると、吐き気がします。

 

アナンケのような厳禁の精神をもつ人間は、皆を不幸にする最悪の存在です。お話になりません。それがいまの日本で、世界1位の管理社会と認定されています。



武田康弘

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