思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

元号のもつ恐ろしさ

2019-04-06 | 社会思想

  満州事変による中国侵略から対米戦争まで続く14年間の戦争の時代。それは天皇を神とし日本国の主権者とした時代でした。この人類史上最大の戦争で、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏しました。 敗戦後は、主権者を国民とする新憲法へと大転換を遂げ、天皇は「人間宣言」をし、天皇現人神の思想を否定しました。国の形が根本的に変わりました。戦後の荒廃から朝鮮戦争による特需をきっかけに高度成長への道を走り復興し、最後はバブルに浮かれて大騒ぎとなりました。

 

 恐ろしいまでに異なる時代でしたが、なんとこれを「昭和時代」と一まとめとしてしまうのが元号のもつ恐ろしさで、味噌も糞も一緒です。これほどデタラメな話はないでしょう。裕仁の【退位すらしない】という驚くべき行為(恐るべき戦略)により、敗戦前も敗戦後も同じ「昭和時代」とされたのです。

 
明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代、で、2019年5月1日からは令和時代、なんのことか。

このような極めて人為的な区分(天皇教という国家宗教に基づく)をし、時間の流れを切断し「実体化」してしまい、それを怪しまない。なんとも愚かで恐ろしい詐術であり、深い洗脳です。

 

 わたしたち日本人はいつになったら目が覚めるのでしょうか。世界暦(西暦)で表記すべきなのは、理の当然です。

 

 

 

武田康弘

 

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「改元詐欺」が横行とのこと。わたしは元号そのものが詐欺と思います。(fbのコメント対話です)

2019-04-04 | 社会思想

以下は、わたしのFBの記事とコメントです。

武田 康弘

15時間前 · 

 

「改元詐欺」が横行とのこと。わたしは元号そのものが詐欺と思います。
 元号が変わったら時代が変わる!?(笑)何も変わらないのに、「新しい時代」と宣伝されてそう思う日本国民は、世界の笑い者でしょうね。
「平成」という名の時代がある!?世界の七不思議ですね~~

 

 

 

池 順子
私、そこのところを相当調べたんですが、一世一元制度はあり、天皇一代に一元を当てはめる制度はあるんですが、元号=時代という説明は出てきません。
日本には、今まで248元号があるらしいが、平安時代や江戸時代にはたくさんの元号が存在する。元号=時代ではないわけ。さらに、「時代」という概念を調べても、《区切り》という概念であり、例えば地質学では氷河時代、歴史では社会体制が多く戦国時代や首都名の江戸時代など、「時代」っていろいろな概念であるわけ元号=時代という表現は短絡的過ぎますね。だから、「新しい時代」とか、「時代がかわる」という表現は謹んでほしい。印象操元号=時代という表現は短絡的過ぎますね。だから、「新しい時代」とか、「時代がかわる」という表現は謹んでほしい。印象操作だから作だから

武田 康弘

Yes yes

Yoshihisa Nagai
池さん ごもっともなご意見です。世の中の変遷ですかね。私なども会話のなかで時の経過を説明するのに便利で つい使ってしまいます。

 

池 順子
Yoshihisa Nagai さん、難しい概念ですが、言葉で仕事をしているメディアは、そういうところを慎重に使って欲しいですね。

 
Yoshihisa Nagai
平成の30年間を観てると、マスメディァは視聴者、購読者受けになっている傾向がありますので、私と同様安易に使っていることは否めないでしょう。元々日本人の多くは体制の中で意見も発しないし、社会的同意の中で生活している特色があります。根は農耕民族の長短を持った特性が江戸時代から延々と続いています。地方に行けば行くほど「出る杭は打たれる」 「長いものには巻かれろ」等の傾向が見られます。

 · 

池 順子
Yoshihisa Nagaiさん、乱暴な言い方ですが、「考えて話して欲しい」と思いますね。物事は、考えて反応したい。田舎の叔母が「元号が新しくなってよかったね」と言うので、私は、「何がよかったの?」私は、何がよかったかわからないことは、よかったとは言わない(笑)

 

 

武田 康弘 yes yes

 

 

塩津 民樹
元号が変わっても時代は変わらない。安倍政権が変われば時代は変わる。

 

中村 厚 
例えば、元禄時代は文治政治が確立したとか、文化・文政時代は町人文化が栄えたとか言います。しかし、それは元号で表象させているだけであり、鎌倉幕府とか室町時代と呼んでいる〈時代〉ではありませんね。

 
武田 康弘 
中村さん
元号で表象させる→「元号の時間」があるという錯覚を起こさせる。それが、時間を実体化=物化させるので、日本人は本質論=意味論として事象をつかめずに、事実学の累積しかできなくなるが、その恐ろしさに気付いている人は稀。

 · 

 

前田 誠一
シェアします。

Takamichi Yamaguchi
シェアさせていただきます。
テレビで軽薄なお笑い番組がドンドン増えてきていることに違和感を覚えています。同じ笑いでも、心地よい微笑みと、バカ笑いとありますね。笑うことは大切なことですが。

 

 

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元号制度は、一人ひとりの人間存在の価値を薄め、不合理で利便性を阻害し、過去と未来の認識を曖昧にします。やめないければいけません。

2019-04-03 | 社会思想

 世界でただ一カ国だけ残った「元号」という制度はあまりに不合理で、連続する時間の流れを極めて人為的に断ち切るものです。

 

 人間とは「時間的存在」ですが(芸術では音楽や朗読などは時間的な存在)、ぞの時間の流れが切断されて人間・社会・歴史が「物化=実体化」してしまいます。したがって、人間存在のありようと元号制度は背反するのです。

 

 元号使用をやめることは、人間存在の現事実を知り、大切にし、一人ひとりの人間をそのまま愛する=肯定することにつながります。また、われわれ日本人が、短いスパンでしか考えず、スケールが小さくなるもの、こま切れの時間・時代をつくる元号の影響が大きいのです。

 

 何年前のことか分からず、未来の時間表記も分からず(いつ変わるかは不明)、という元号制度は、人間性を尊重するという観点からも、利便性という観点からも誤まりであり、よき新しい時代を拓くことを阻害してしまいます

 

 だからこそ、世界中で、やめたのです。日本以外の国では。

 

 世界で通用する通し年の表記にすることは、いま、極めて重要な日本の課題です。世界暦(西暦)を使う国民運動を起こしましょう~~~~!!



武田康弘

 

 

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水の国・日本にふさわしい「民主共和党」 共和政治へのスムースな移行が大切。

2019-03-24 | 社会思想

  水の国・日本にふさわしい「民主共和党」

  わたしは、小学生(文京区立誠之小学校)の時に、ふつうに「正しい」ことが言われない自分の国はなんか変だな、と思い、先生に頼んで「政治クラブ」をつくってもらいましたが、それから50数年が経った一昨年に、ついに政党を立ち上げました(笑)。2017年の秋にフェイス・ブックで【バーチャル政党・水の国=日本にふさわしい「民主共和党」】をつくったのです。一円の費用もかからず、労力も時間もかからないので、できました。1年数カ月たち党員?は250名を超えましたが、超ミニです。参加者は、自由にいろいろ投稿しています。出入り自由ですし、利害損得がないので、活発に議論が行われますし、党首?であるわたしへの異論・反論も出て、活気ある楽しい場です。

   以下は、そのコピーです。

  民主政を前に進める共和政、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~~~~ 

 まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ。

 ふさわしいのは学問・芸術に通じた品格の高い人ー例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣。美濃部亮吉(豊かな学識をもち東京都知事を務めた品格のある人)。※高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して大原社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)。大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者ー心優しい博識の実業家)のような人。

 国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。

 元号は個人で自由に。役所と公共機関では、世界歴(西暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので。例えば、パブロ・ピカソ1881年~1973年、棟方志功 明治36年~昭和50年ではとても困ります)。

 天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

 天皇は、国事行為は行わず、文化的行為と国際交流を行い、基本的人権が保障される(いま天皇がしている国事行為は大統領が行う)。

 

 簡単ですが、骨子です。この線で市民憲法案も出さねば、です。


 なにはともあれ、、オープンに共和制の意味や意義について語られる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。

 
細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくらた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルト的な精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。

 
集団同調でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本にふさわしいしなやかで自由な共和政治って、いいでしょ~~~

 ーーーーーーーーーーーーー

   ここには記載しませんでしたが、日本の初代大統領としては、優しさと強さを併せ持つ人、明晰で品位の高い人、国際感覚に優れた人が適していますので、わたしは、官邸の圧力で降板させられるまではNHKの顔だった国谷裕子(くにや ひろこ)さんを推します。


 大切なのは、古代と近代では「国の形」が根本的に異なることの自覚です。民主政治の国では、主権者はわたしでありあなたです。市民精神をもつ国民によって現実政治はつくられるのであり、古代のような「祭政一致」ではありません。宗教や儀式と現実政治は次元を異にするものであり、混同させれば、大元から民主制(政)は崩れて神聖政治になってしまいます。天皇家の私事である宗教儀礼を税金で行い、政治と絡めてはいけません。次期天皇となる浩宮(ひろのみや)さんの弟、礼宮(あやのみや)さんの言う通りです。それでは、明仁さんも忌み嫌う明治維新がつくった国体思想(戦前の思想)に戻ってしまいます。


武田康弘

 

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大原社会問題研究所100周年記念シンポに参加して。 法政大学にて。

2019-03-21 | 社会思想

わたしは、昨日(3月20日)、法政大学での「大原社会問題研究所100周年記念シンポジウム」に参加しました。

大原社会問題研究所は、1919年に大原孫三郎と高野岩三郎の強い志をもつ二人の個人からはじまった財団で、恐ろしいほどの業績を上げました。その研究や調査の内容は、統計学の日本のパイオニアである高野を頭にしたために、東大や京大を上回る圧倒的なものでしたが、大原の実業の危機で1937年に資金難となり、その後は紆余屈折でした。

労働者、庶民の生活の実際を正確に把握するために彼らの生活に入り、同じ人間としての愛情をもって研究した高野らの「統計学」は、生きて血の通ったもので、現代では失われてしまいましたが、大原社研の方法は原理上正解で、それ以外はあり得ないでしょう。

敗戦後には、徹底した民主主義者で労働者の味方であった彼らは、引っぱりだことなり(高野は改組された初代NHK会長、弟子の森戸辰男は文部大臣、やはり弟子の大内兵衛は吉田首相から頼りにされ・・・)また、彼らは、現日本国憲法の骨子となる憲法草案を作成したのでした(文章をまとめたのは高野に指名された鈴木安蔵)。

1937年以降は、偉大な大原社研はタイヘンな財政難でしたが、戦後に法政大学に移されたことで存続し、100周年を迎えることができたのです。ただし、個人の強い理念を貫ける財団ではなく、大学という大きな組織に組み込まれた(そうせざるをえなかった)ために、「偉大」や「感動」は消えました。

昨日の会は、高野岩三郎らのフィロソフィー(意味論と本質論)の探求が弱く、迫力に欠けましたが、今後、初心の志を活かして(戦前の政府さえ動かすパワーをもっていた)、大原社研の活動を支えた思想の探求(共和制と労働の哲学など)をぜひしてほしいと思います。ただの事実学ではなく本質学をはじめよう~~! 現研究者=教授連にエールを贈ります。現状を打開する豊かで深い探求、常識をうちやぶる思想と行為をぜひ!!








武田康弘



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元号問題 明仁さんは、明治維新の思想(天皇現人神)を嫌悪し、それを絶ったのです。

2019-01-24 | 社会思想

 元号問題についてです。

 いま天皇という役にある明仁さんが自身の意思で「退位する」ことにより、明治維新がつくった「天皇教」(国体思想=靖国思想=国家神道)は壊されることになりました。
 現在、靖国神社の理論的中心者である小堀圭一郎(東大名誉教授)は、嘆き憤っていますが、大多数の国民にとっては、岩倉具視や伊東博文らのつくった天皇現人神(てんのうあらひとがみ)というカルト的思想がなくなるのは、とてもよいことです。
 天皇を神とするので、元号は天皇の死によってのみ変わるもの、というのが明治維新の思想でした。ですから、昨年の「明治150年祭」の式典には、明仁さん、美智子さんは参加しませんでした。



以下に、2004年8月31日に書いたものを再録します。


 一人の人間の死によって時代の名称―区分を変えるというのは、古代王政の空間・領土とともに、時間・時代も王が管理するという思想に基づくものですが、この制度が世界に唯一つ生き残ってしまったのがわが国の元号問題です。

 その死によって時代の名称や区分までも変えてしまう制度―誰も手の届かない超越的な人間が存在しているという感覚は、日本人の意識の奥深いところで、個人の自由意識と責任感を萎えさせてしまいます。「対等な個人がその自由と責任に基づいて公論を形成し社会を作り上げていく」という市民社会の原理がボヤケテしまうのです。新たな時代を開き歴史をつくる主体は、市民=公民=社会人としての自分であり、特権者はいないのだ、というシチズンシップ(市民精神)の育成を深層において阻害するのです。「エリート主義」という歪んだ考えを生み出してしまいます。

 また、この元号制度は、世界との通時制―共時性を薄め、日本にのみ固有の時代―時間があるという観念を生みます。例えば、天皇主権から国民主権へと国の基本のありようが変わっても同じく「昭和時代」などという時代区分で歴史が記述されます。これでは、ほとんど星占いと同じレベルで歴史の意味が語られる!というお粗末にしかなりません。「平成の世」などと言われると、何か分かったような気になってしまい、世界の中の日本という意識が育ちにくくなるのです。パブロ・ピカソー1881年~1973年、棟方志功-明治36年~昭和50年では困ります。

 したがって、年号は、出来るだけ通し番号の「西暦」(事実上の世界暦)で表すようにすべきでしょう。現在、役所は、自民党―中曽根内閣が強行採決で決めた「法律」により、元号を強制されています。北朝鮮も驚く国粋主義!ですが、これは当然逆にすべきです。元号は使いたい人だけが使う、とすればいいのです。

 世界的にはイスラム暦も多く使われているので、ほんとうは、ギリシャのソクラテスの誕生年(紀元前469年)を起点とする暦を「世界暦」とするように国連が各国に提唱すればいいのですが、現在のところ、これは夢物語でしょう。(ギリシャ文化を受け継いだのがアラビア=イスラム文化ですし、仏教思想もギリシャ思想と出自―基本が同じですので、世界的な了解が得られるはずです。)


武田康弘(2004年8月31日)

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1月20日は我孫子市長選挙  (24年前の福嶋市長誕生時の資料 No2)

2019-01-17 | 社会思想

今月の20日()は、我孫子市長選挙ですが、

昨日の続きで、24年前、1995年1月の我孫子市長選挙(千葉県初の非自民市民派市長=福嶋浩彦誕生)の資料です。現代史の1ページですが、今日的意味があると思います。


『緑と市民自治』紙(新聞折り込みで我孫子市全域に配布=4万部)は、いつもは福嶋さんとわたしの二人でつくっていたのですが、
この10号は、福嶋さんが市長候補なので、わたし一人でつくったものです。若い人に発言してもらおうと考え、主に教え子たちに頼みました。
直接参加民主主義」を理念にして、新しい政治をつくるための哲学探求と政治実践をしてきましたのでみなの思いや考えを集めたのです。

※この10号は、元旦とその数日後の2回、新聞折り込みで配布し、さらに手配りもしました(発行は11万部)

 



エピソード
そういえば、この24年前の市長選で、
選挙通?とかいう人が事務所に来て、
「なんだ、これじゃ、女子どもの選挙じゃないか!」と言うのを聞き、「その通り!だから勝てるのだよ」とわたしは笑ったのでした。

武田康弘

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我孫子市長選の投票日は20日(日) 24年前の我孫子市の変革=福嶋市長選とダブる。現代史の証言=写真。

2019-01-16 | 社会思想

1月20日は、我孫子市長選挙。候補者は市民派の優れた市議の飯塚まことさん(49才)前知事の福嶋浩彦さんと全野党の推薦で、現職の星野市長に挑んでいます。現 星野市長は、公約で3期12年間までを謳いましたが、4期目の立候補です。

ふと、わたしは、24年前の市長選を思い出しました。千葉県初の非自民の市民派市長=福嶋浩彦の誕生は、大きな希望で迎えられ、その後の国政変革のさきがけとなったのです。

その時の選挙はどうようなものだったのか、 当事者のわたしは、その記録を開示しないといけない(公共的義務がある)のですが、
まず、はじめに、わたしのアルバムに整理された写真をご紹介します。


貴重な現代史の1ページですので、後でまとめてホームページにも載せます。

以下は、アルバムのコピー写真です。 明日には資料と説明文を載せます。


1994年11月27日~~1995年1月26日
 (投票日は1月22日(雨)でした)




拙宅で。


武田康弘




 

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明治政府がつくった靖国思想(天皇教)と、戦後の天皇制との断絶を知ろう。

2018-12-16 | 社会思想


 吉田松陰の抱いていた思想、尊王攘夷廃仏毀釈 と 軍事による海外拡張思想により明治維新は成立しました。

長州藩の超過激な若者たちは、師の思想に忠実に従って維新を断行し、その後の政治を進めました。

 ただ一つ、「尊王(天皇を敬い)攘夷(外国を打ち払え)」のうち、長州藩のお金を横領してイギリスに渡った伊藤博文らは、そのあまりの文明の差に攘夷は無理だと知って開国するしかないと悟り、「尊王開国」と変更しました。
江戸幕府(徳川慶喜)が開国したことに激しい怒りをもち糾弾していた彼らですが、自分たちの思想の愚かさ=未熟で単純な思想の過ちに英国の地に渡ることでようやく気づいたのでした。

 それ以外は、彼らが崇拝していた松陰の思想に忠実に維新とその後の政治を行ったのでした。

 明治政府は、それまでの神道(多くは中国の道教によっている)の思想を逆転させて、敵と味方を分け、味方(官軍側)だけを祀る施設を長州藩に「招魂社」としてつくっていましたが、維新が成就した後、早くも明治2年に東京にも招魂社をつくり、政府神道=国家神道という新宗教の柱にしました。それを10年後に神社という名称に変えてしまったのでした。それが「靖国神社」で、ほんらいは、神社ではないのです。

 この神社ならざる神社を中心にして、天皇現人神(皇室は神の系譜であり天皇は生きている神である)の思想を、教育により全国民に徹底させました。各小学校の教頭先生は、白手袋をして毎朝「天皇の御真影」(写真をもとに威厳ある姿に描いた絵)をもち、全生徒に敬礼をさせましたが、素手で御真影に触れた先生は退職させられましたし、敬礼の頭の下げ方が足りない先生も退職させられました(現代の「君が代」をちゃんと歌わない先生を処分する東京都などの強権はその名残です)。カルト的思想に基づく強権には寒気がしますね。
 

 その思想の行く着いた先が、満州侵略(昭和天皇が承認)にはじまり太平洋戦争にいたる14年間の戦争「ポツダム宣言」受諾による無条件降伏=敗戦でした。昭和天皇は、わたしは神ではないという「人間宣言」を出し、主権者を天皇から国民に変えた(天皇主権は絶対に認めないという占領軍の意思により)新憲法が誕生したのでした。まさにコペルニクス的転回でした。ただし、最高責任者の天皇の裕仁が自害どころか退位さえしなかっ為に、この転回が曖昧にされ、混沌がつくられてしまったのです。

 いまの天皇の明仁さんは、儀礼を司り政治的力は持たない象徴天皇制こそが、ほんらいの天皇の姿だと認識し、戦争への反省をし謝罪を重ねてきました。国民主権の新憲法こそほんとうの憲法だと考え、それに従って「天皇の仕事」をこなしてきたのです。だから、日本会議など戦前思想や戦前回帰を画策する安倍政権には、許される限りで抵抗してきたわけです。

 こういう流れを逆行させ、天皇を中心にした国家(靖国神社の思想に基づく天皇崇拝)※(注)にしたいという願いをもつのが、日本会議というウヨク団体に所属する安倍首相以下大多数の閣僚と自民党議員たちです。かれらのもつ思想は、吉田松陰の思想=水戸学であり国学ですが、これは、近代民主制(政)とは二律背反であり、新憲法(いまの日本国憲法)下では到底認められない思想です。このことを皆が明瞭に意識しないととても危険です。


(注)日本会議というウヨク連合≒いまの自民党議員の多数派は、天皇という位にある一人の人間としての天皇の想いや考えとは無関係に、明治維新政府がつくった『天皇制というシステム内の天皇崇拝ないし敬愛』(=国体思想=靖国思想=国家神道)という宗教で国民を一つにするという日本型全体主義の思想をもちます。
 そこでは個人という言葉=概念を否定し、人類という言葉は抽象的で意味がないとし、各人は、日本国籍をもつ国民の中の一人なのだという思想を浸透させ、官僚政府がコントロール可能な人間を教育でつくることを目がけます。人間とか個人ではなく、ニッポン人であることに誘導され、強要されます。従わない者は、無視されるかデマや人格否定の攻撃に合います。


武田康弘



 



 

 

 

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私たちのお金で暮らす人・皇族・役人・政治家に主権者が頭を下げる日本文化は、奴隷精神丸出し。自分に誇りをもとう!

2018-10-23 | 社会思想

 わたしやあなたの出しているお金で生活している皇族や役人や政治家(みな公務員です)の方が偉い!?という国は、おとぎ話の国でしありませんね。

 憲法1条にある通り、主権者である国民の総意で「象徴」という役割(明仁さんの言葉では「仕事」)をしているのが、天皇です。その一族を皇族と呼んでいますが、明仁さんの言う通り「象徴としての務め」を果たすことで、その対価として、年6億円の収入を得ていますし、宮内庁という役所には年180億円という予算(税金)がついています。

 主権者の意思の代行をする(今の安倍首相は自分の意思を権力を用いて貫きますので、根本的に民主政治とは異なり、憲法違反です)国会議員の歳費は約4,200万円で世界最高です。

 官僚の年収も45歳以上だと年1000万円を超えますし、退職後の天下りでは、楽してお金がもらえます。数年ごとに民間企業を退職・再就職を繰り返し、その都度多額の退職金も得られます。わたしの友人の警察官僚も懐は温かく、仕事は飲むこと、と笑って話しています。日銀などは、役員は年3000万円(総裁は更に上)です。

 そういう主権者の税金で暮らしている人に敬語を用いたり、頭を下げているのは、お人良しを通り越して、純粋な奴隷精神と言えますね。

 いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、その思想も行動もすばらしいもので、わたしは、高く評価していますが、そのことと、構造的な問題とは話が異なります(別次元)。

 国の主権者は国民(わたしでありあなた)です。主権者が、主権者の出すお金(税金)で雇っている公務員たちに頭を下げるのは、昔の全体主義国家、天皇現人神の国家宗教の国の話です。

 きちんと正しく考え、行為するのが健康・健全な精神です。いまの日本は、主権在民の民主政治なのですから、より豊かにより深く民主主義を発展させることが必要です。



武田康弘

 

 

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反日?非国民?それこそが人間として生きている証では? 「国のため」とはなんですか?

2018-09-26 | 社会思想

大前提

 よく自民党やウヨクの人々は、「国のため」「国家のため」と言いますが、
そもそも「国とは何か?」が定義されないと、国のため、とは何かは分かりません。意味不明です。


 再びそもそもですが、明治政府が廃仏毀釈の思想によりつくりあげた「伝統」というは、
日本最大の仏教宗派である浄土真宗(親鸞)と2番目の浄土宗(法然)の思想・文化とは内容が正反対です。法然門徒たちは、後鳥羽上皇により4人が死罪、法然・親鸞ら8名は島流しとされたのでした。

 仏教文化としての日本の伝統靖国神社の思想とは二律背反です。

 ーーーーーーーーーーーーー

 戦前にいわれた
「国のため」とは、学校教育で教え込まれた、国体護持のことです。滅私奉公の道徳教育に基づきますー教育勅語はその象徴。
公とは天皇家のことで、「君の時代は、苔のむすまで永遠に続く」と歌われましたー伊藤博文は、大日本帝国憲法を発布するにあたり、「未来永劫、主権は天皇にあり、日本では、主権が国民に移ることはない」と全国の知事たちに教説しました。

 また、日清戦争も日露戦争も、その後の第一次世界大戦参戦も、ロシアへの内政干渉=シベリア出兵も、満州事変から対米戦争までの14年間の戦争も日本が行った戦争はすべて、日本政府(天皇を主権者とする保守主義の政治家たち)が仕掛けたのであって、日本の領土が攻撃されたので防衛した=国を守るために国民が戦ったのではありません。

 天皇政府の命令で、国民は、赤紙一枚で、戦争に動員されたのです。犠牲者であって(他国から見ればもちろん加害者ですが)、靖国神社が主張するような「軍神」(軍人・兵士の集合神)ではありません。

 明治政府のつくった「天皇国家としての日本」とは、一人ひとりの人権を抑圧した「全体主義国家」であって、そこで言われた国のためとは、「国体(天皇国家)主義」による支配階級のためなのですが、それを、国民全体のため、と学校教育で洗脳したのです(毎日行われた天皇像への礼拝と君が代唱和と日本は天皇の国という歴史教育による)。


 その根本思想(天皇を生きた神とする国体主義=国家神道=靖国思想)の下で、軍国主義も成立しました。その廃棄を求めた「ポツダム宣言」を受諾し、日本は無条件降伏し、主権を天皇から国民へと転回した新しい国=民主主義の国として再出発したのです。伊藤博文らがつくった明治の思想(=国家神道に基づく国体主義=靖国思想)への後戻りは許されません。これは、原理原則次元の話です。


武田康弘

 

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国旗に敬礼したり、神聖視する人が今もなおいるのには驚きます。戦前思想=フェティシズムの呪縛の強さ。

2018-08-07 | 社会思想

 国旗に敬礼したり、神聖視する人が今もなおいるのには驚きます。 
 もちろん、他国との区別が必要な場面においては、国旗は必要で意味がありますが、
国旗それ自体を神聖視したり、それに敬礼するのは、物神崇拝(フェティシズム=下着類などを愛するという倒錯)という精神の病です。

 そういう行為をこどもたちと全国民に強要していたのが、戦前の日本で、明治から昭和にかけて天皇の肖像画(写真をもとにして描かせたもの)に敬礼をさせ、敬礼の程度が低いという理由でしばしば先生は辞職させられ、生徒はひどい体罰を受けました。学習院の近くの公立小学校の1年生は、当時の皇太子(明仁さん)の顔を見ようと顔を少し上げたらば、後から思い切り頭を殴られました。

 国旗という名の旗に敬礼し、御真影という写真画に敬礼することは、【戦前思想の象徴】といえます。わが国は、ほんとうに驚くほどの【洗脳国家】であったわけですが、その事実を明晰に自覚することは、近現代史を考察する上で何よりも必要な営みです。さまざまな具体的な問題の前に、この物神崇拝の天皇教(=天皇は生き神)という狂気と恐怖の国体思想にいつての反省と批判がなければ、何事もはじまりようがありません。

 水戸学に心酔した明治維新政府の異様な思想、その狂気性を自覚しなければ、民主性・民主制・民主政とは御題目に過ぎず、永遠にはじまらないのです。自分の体験を元にして自分の頭で考える自問自答と、ほんとうに対等で自由な対話により物事を決めるという自治は、日本では永遠に不可能なのでしょうか。

 21世紀の現代でもなお天皇教のタブー(それを嫌っているのが明仁さんと美智子さん)に支配され、上位者の気持ちを忖度してしか生きられない国を愛するのなら、それは極限的な愚かさでしかなく、おぞましい行為としかいいようがありません。なぜ、今もって、わが日本人は、哀れな奴隷根性のまま生きるのでしょうか。政治家も官僚も教師も生徒も会社員もみな「人間管理」されてTHEニッポンというシステムの一部品として生きる!?
あまりにも哀れです。

 いい加減に目覚めたらよいでしょう。愚かも度が過ぎます。国家主義という恥ずかしい低次元の思想からの脱却なしには、よいことは何も生まれません。これは原理です。

 

武田康弘

 

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個人の自由はない-【学校・会社・団体】 内 【個人】--見事に完成された全体主義国はどこでしょう?

2018-06-02 | 社会思想

日本人、とくに管理教育世代以降は、個人が消滅し、すべて組織・団体が優先します。
個人の都合というのは、わがままとされ、ダメです。
個人からの出発はなく、「団体 内 個人」 になっていますので、
自立した精神をもつ個人のあつまりが団体なのではなく、
団体(その上位者の思惑と都合と気分)が先立ち、団体のために一人ひとりが存在しています。それは、学校教育(とりわけ部活動)により、骨の髄まで染み込まされ、個人の都合は通りません。さらに道徳教育でますます加速されます。

まさに昆虫社会のようですが、人間ですからすべて全体一致というわけにはいきません。
そこで、芸能とスポーツとオタク趣味で、フラストレーションの解消をします、というよりそれしかないのです。ですから自治政治はひどく困難です。個々人に社会の主体者である自覚がないのですから(受験主義のテスト勉強と集団主義の部活によりそういう人間にさせられる)。
個人の精神世界とか精神的自立とかは、死語になり、なにもかもシステム化されて、その中で生きるのです。

世界に冠たる全体主義国ですが、
ここからの脱出、人間性=個人性ゆたかな社会への転換は果たして可能なのでしょうか?

わたしは、『恋知』の生を広めることで、みながそれぞれの精神世界を拓く人生、私からはじまる輝きの生をつくりだしたいと思い、実践していますが、日本の全体主義は学校教育を通して、生活の隅々まで神道、ではなく、浸透しています。この変換ミスには納得(笑)
明治政府の廃仏毀釈=仏教(個人意識につき互いの平等と自由と慈悲の思想)を廃して、神道(明治政府がつくった国家神道=靖国思想という全体一致)による天皇国家づくりで、滅私奉公を道徳の柱としたのですから、やっぱり日本は、神の国で、個人はいないようですが、わたしは、その現状を変えることに挑戦し続けています。半世紀たちました。

必ず、成就します。課題は困難なほど面白い!!



武田康弘

Kunimitsu Kobayashi 現憲法の悪いところ、それはまさに、基本的人権、主権在民、平和主義だと言い張った自民党議員さんがいたような~~怖いですね。個人があって国家でなく国家あって個人、でもこの思想には個人の概念がみえない。それはまさに恐怖の国家に向っているのでは。

 
 武田 康弘 小林さま、みなさま

自民党が憲法改正草案をつくるとき、議員立法を支える参議院法制局の荒井達夫さんに対して、自民党議員は、「日本の独自性を出すため、社会契約説によらない憲法案をつくりたいので、よろしく」と依頼してきたとのことですが、

荒井さんをはじめ参議院法制局など調査室の職員はその意味(社会契約説およびそれに依らない)がよく分からず、

それでわたしに聞いてきたのがきっかけで、荒井達夫さんは「ソクラテス教室」の大学クラスの生徒になり、そこからわたしは参議院との深い関係をもつことになったのです。

人民主権(国民主権)にもとづく新しい社会=民主制(政)の国家をつくるためのアイデアがルソーの「社会契約論」であり、主権者を市民とする社会思想の原理であるわけですが、それを知らない調査室職員では困るということで、後にわたしは官僚(直接には「行政監視委員会調査室」の職員)に講義することになったのです。さらに広く調査室全体を対象とした講義や、人事院職員も含めたパネルディカッションのパネラーも二度務めました(それらは、参議院ホームページや白樺教育館ホームで閲覧できます)。

いくらなんでも社会契約論によらない憲法をもつ「西側諸国」とはありえない話で、満点大笑いなのですが、これが現実なのです。国連の掲げる理念=社会原理と根本的に矛盾してしまいますが、それも分からないのが自民党国会議員なのです。怪談よりはるかに怖ろしい事実です。
 
 
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二つの国体(菊と星条旗)論 ー白井聡の論考は正鵠を射るもの(集英社新書)

2018-05-12 | 社会思想

 

戦前は、「天皇陛下は、その赤子であるわたしたち臣民を愛してくれる」、だから、その愛に応えることが日本人の生き方。
戦後は、「アメリカは、敗戦国の国民であるわたしたちを愛してくれる」、だから、その愛に応えることが日本人の生き方。

なんだか超哀しい~~!ですが(笑呆)
著者の言う二つの「国体」という妄想=物語に共通するのは、なんでしょうか?
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それは、「自由と責任をもつ精神的に自立した個人」が存在しないことです。
日本人には知性はあっても、個人の精神がないのです。
だから、事象の判断を自分ですることのできる人はほとんどいません。
いつも権威に従い、有名である人を評価します。自立した精神がないので、それ以外には判断の方法を持ちません。
学者は、欧米の研究成果が基準ですから、オリジナルな知性=精神がありませんが、それに疑問を抱く人もいません。
そのため、明治から今日まで「日本に哲学なし」と言われてきました。日本では、哲学(フィロソフィーの正しい訳語は「恋知」ですが)と言えば、大学内の一つの専門知とされ、哲学書の読解と記憶に過ぎませんから、日々の体験に基づき自分の頭を悩ませて考える=精神の力を強めていく実践とは切れています。

天皇陛下に従属し、
アメリカに従属し、
プライドのある「エリート」族は、西ヨーロッパに従属します。
みな従属です。

従属なき知性=自立し精神は、疎まれ、無視されます。その構造的「虐め」(序列と型の二つで人間を閉じ込める)に屈せずに、なんでも受入れつつ精神の自由=恋知をつらぬける人は、どうも「天然記念物」レベルの少数者のようです。まあ、国の特別天然記念物として丁重にオモテナシしてくれるなら嬉しいですが(笑)、そうは問屋がおろさず、村八分にされる(干される!吊るされる!)のが落ち。ズコッ(失礼)。それにしてもなんと底意地が悪い国なのでしょう~~~

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話がこの本「国体論」からズレて広がってしまいましたが、
これは、稀にみる優れた論考で、とてもお勧めです。著者の白井さんは、本道を歩み、立派だと思います。まだ若いので、これからも楽しみです。
一つだけ苦言を呈しますが、これからは、天皇の「おことば」に依拠するのはやめないといけません。天皇家は京都御所に戻して文化的行事のみに(国事行為から解放)、そして人権を認めて自由な生活に、という方向に変えていくというのが正論のはずですから。




武田康弘

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社会は、みなでつくるもの。「高収入は高負担」は、民主的倫理の基本です。

2017-11-17 | 社会思想



社会は、その社会の成員みなでつくるものですから、
社会から多くの収入を得ている者は、社会に多くを返すのが常識で、それは倫理の基本です。

昨日のblogに記しました通り、基礎年金のための基金は、現在は年収800万円までは年収に応じていますが、それを超えるとそこで固定されてしまいます。高収入者になるほど負担割合が減っていきます。

同じ額の基礎年金しかもらわないのだから、そんなに払うのはおかしいというのが高収入者の言い分ですが、それは、社会人=公共人としては失格の思想です。

「高収入は高負担」は、民主的倫理の基本です。余裕のある者が倫理を踏まえた人生を歩まなくてよいのでしょうか。社会の中で人として生きる基本=民主的倫理を失うなら、その人の人生は、善美とは無縁となり、生きる意味・価値は減じていきます。

もし、年収800万円以上のサラリーマンも同じ割合で年金のために負担をするなら、数兆円がプラスされ、年金問題はほぼ解消します。

 

武田康弘

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