私の人生は創造者としての生(進行形)ですので、思想書の研究者や愛好家ではなく、思想家=哲学者=恋知者です。音楽で言えば作曲家です。ですから、組織人では全くありません。学校や会社とは縁がなく、私であり私塾であり、その輝きです。それを知らないと武田の了解は不可能です。
みな恋知する実存者として生きよう!
武田康弘
武田康弘
木内克作 レリーフ
人間賛歌=恋知のシンボル
みなが、恋知する実存者として生きることができますように。
それは思想や哲学でも同じで、固執・固着せずに自由に生きるために自分のありようを吟味するのではなく、あべこべに特定の見方・考え方を強めるために=確固とするために思想や哲学を用いてしまいます。そうすると、思想・哲学とは塊になり、宗教化してしまいます。○○主義に陥ります。西欧中心主義者が偉い、というような著しく歪んだ思想をもつ学者が大勢います。
武田康弘
今日は敬老の日! こどもの日を何度でもです。
革命と進化は必須でそれなくしては社会は終ります。こどもは未来です。希望です。大人のもつ既成価値にはめ込むのは最低かつ最悪です。
Growing young (成長するにつれ若くなる)でないと害毒をまき散らす大人になってしまいます。敬老に値する大人は日本にいますか?極小と思います。
悪しき伝統に縛られた大人は、社会を元から腐らせます。幼きこどもたちに学べ!です。
自分と自分ち、ではなく、普遍性と公共性に開かれた領野に生きなければ、哀しいし愚かです。
ニッポン主義者ではなく、人間にならないといけません。国家主義とは愚かな思想で、すべてを破壊します。
今日は、大人が豊かで度量の広い人になるための日です。こまごま固くて狭い大人では生存価値がありません。
武田康弘
私は運動神経はよいですが、スポーツ部活動は嫌いで一度も入りませんでした。
先輩・後輩という言葉=概念=イメージが嫌いですので、上司と部下というのも嫌です。
小学生以来今日まで様々な活動のリーダーですが、組織人とは全く無縁で、根っからの実存者です。いい気分(笑)
それでは学生服、制服も嫌いと思いますが、ランドセルは高価になり、セイラー服など校名のブランド化です。スポーツ校も同様ですね。管理下と商売は社会に出ても同じ。感じないのでしょうか。
高校生のときは全学議長で、制服制帽廃止などさまざまな自由化を成し遂げました。校長・教頭・教務主任の3人と生徒代表はわたし一人という超変則対話で変えました。前代未聞でしょうね~~メチャクチャ自慢できることかもしれません。
私もそう思います。みんな平等です。
わたしは、小さいときから女性の先生にはひいきされ、男性の先生には理不尽な暴力を受けてきました。威張りたい=偉がりたい人には、毛嫌いされます(笑)何も知らないのに知った風でいたい「エリート」!?は、化けの皮が剥されるのをおそれるからでしょうね(笑呆愚)
まあ、男はボス猿(日本では天皇という記号化された哀れで超特別扱いで税金で最高贅沢に暮らすヘンテコな存在)ならぬミニボス猿になりたい愚か者ですね~~(笑)
恋知のシンボルは何がいいでしょうか?
プラトンの学園「アカデメイア」の主祭神=エロースの像(テラコッタ人形=写真はルーブル美術館蔵)でいいのですが、
わたしは木内克さんのレリーフもいいと思います。限定60部の「定本 木内克」の本の表紙(真鍮の鍛造+手仕上げ)です。
こちらは、作者もモデルも日本人です。モデルは、徳川との縁の深い女性、松平須美子さん(18歳から30年間近く、木内克のモデルは彼女一人のみ)です。ポーズは取らせずに、生命力の権化のような輝く女性=須美子さんが自由に動き回るのを捉えたイメージ。
人権思想の淵源は、宗教(一神教)や哲学(理論体系の哲学及び人生哲学)ではなく、幼子の存在です.
昨日の大学クラスでは、同時代人であるルソーの「自然人」と安藤昌益の「真人」との重なりと違いをやりました。
(『中江兆民と安藤昌益』安永寿延著1978年レグルス文庫から))
そこから、話は広がって、
《人権思想の淵源》の考察となりました。
強い一神教であるキリスト教を下敷きとして持つ「人権」の概念は、人類普遍の、とは言いますが、そこには超越神の存在を置く宗教的信念が隠されています。
わたしの、人権思想の淵源についての見方は、欧米のキリスト教思想(人格をもった一人の神が宇宙も人間も創ったという物語を事実だとする強烈な一神教)とはまるで異なりますので、そのお話をしました。
それは誰にも、どこの国の人にも納得できるとおもわれる話です。
人権という思想の淵源は、赤ちゃん・幼児の存在です。
幼子は、生まれた瞬間から「個性」をもち、泣き方もみな違います。その一人ひとりの命は、かけがえのないもので、他の誰とも取り換えることのできない命です。金持ちや有名人の家に生まれた子も、貧乏な家に生まれた子も、そこには上下はなく、価値に少しの差もありません。赤ちゃんは、みなが大事で尊い存在として生まれてきたのです。これは、特定の思想や宗教とは何の関わりもなく、子を持つ親が誰でも自然に感じ、思うことです。子を守り育てようとする心は何よりも深く大きいです。固い言葉で言えば、この心にこそ「究極の普遍性」があると言えます。わが子のない人も、そこが淵源であることは十分に了解できるはずです。病的に歪んだ人でない限り、幼い命に対する思い=愛情は、みなに共通しています。
ここに「人権思想」の淵源があり、特定の宗教や哲学に淵源があるのではありません。だからこそ、人権とは、決して侵すことのできない人類普遍の原理なのです。自由も平等も博愛もみな、〇〇主義や〇〇宗教ではなく、自然な人間の想いや感情から生まれますので、人権は、幼子への心身全体による愛情を淵源とすると言えます。そこから自ずと立ちあがってくる思想です。
一神教的でも、共産主義でも、安倍首相らの戦前思想=国体思想でもなく、自然な人間の感情から生じる世界共通の人の想い、それがほんらいの人権思想の淵源だというのがわたしの考えです。
一人ひとりのかけがえのない人間=「個人」の尊厳、みな「唯我独尊」として生まれてきたことの自覚、それが人間が人間として生きる上での土台となる考えです。
fbに出した、短文3つ。
公共に開かれていない私、とは、何をし何を語っても、結局は自我主義で、自分ち、でしかなく、生活世界から立ち昇る自由も創造もなく、既成価値と秩序の中で眠り込み、承認欲求の生を終えるだけ。自己に風穴を開けるには、覚悟を持ちリスクを負い、投企することが必須。
開かれた私=公共性に生きる踊り上がんばかりの悦びと輝きは「自我 内 私」「組織 内 私」「既成価値意識 内 私」では、決して得られない。かつて公共哲学が流行ったが、彼等は結局は活躍の場がほしかっただけ。今は宗教&世俗教の信者に。公共とは真逆。
女性性は人間性のよさ満載ですが、女性だから女性性があるとも言えません。柔らかさ・しなやかさ・華やかさ・可憐さ・美・受動性・自然性・率直・耐性・・耐えると言えば、ソクラテスはアテネ一と言われましたし、受動性も豊かでしたので、男性にも大事な女性性。未来を拓く!
武田康弘
37年前に感動した「自我の終焉」クリシュナムルティー著を再読。長年月-私の人生経験で熟成され、ますます深く共感。
自我拡張を諫(いさ)める思想や宗教は、思想や行為の経験を増やすことで自我をさらに強固としてしまう。
自我のツッパリが消えないと創造(なぞるのではなく生み出すこと)は不可能だが、それには愛が不可欠。豊かな愛のみが自我主義を消すことができ、創造的生を可能とする。
ーーーーーー
何をおいても「愛」がなければすべては無であり、マイナス価値しか生まないが、公共的憤りに基づく社会悪との「戦い」がない愛は、溺愛や仲間内のイヤラシサしか生まない。
逆に愛に不足する戦いは、自我拡張の害毒しか生まない。
ともに人間失格であり人生の失敗だ。
自我主義を消去して透明な意識を得ないと、自由はなく、創造はなく、豊かな愛もない。
武田康弘
以下は、以前に、参議院調査室からの依頼で書いたものですが、
Aiチャットの時代に突入して、「主観性の知」の育成こそが知の目的であることが、了解されると思います。
なお、「立法と調査」(参議院調査室発行)のわたしの「キャリアシステムを支える歪んだ想念」の全文は、クリックしてください。
・・・・・・・・
読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。
・・・・・・・・・
全文はここ。
武田康弘
fb談議
誰であれ、自分の頭の外には出られない。人間は、自他共に「対象分析はできない」という原理中の原理を踏まえている人は、意外と少ない。自己の内に他者を取り込もうと必死になる。不遜の極みだが、自覚がない。よい関係性をつくるには不可欠な前提だ。(武田康弘)
ーーーーーーー
石谷 真
人間は、自他共に「対象分析はできない」ということの、説明をお願いします。
対象分析が、心理学主義というなら、意識を対象物とみることが、なぜいけないのか、いや、できないと言い切るのか、説明が欲しいです。
ーーーーーーーー
武田 康弘
石谷 真 さん、人間はどこまでも主体者なので、対象にはできないわけです。主体者同士(対象を措定する者同士)は、互いの生の憧憬や欲望を知り合い・語り合うことにより了解するほかなく、客体(対象)にはできないのです。
したがって科学としての心理学は本質的には成立せず、人間精神の意味は、ただ存在論としてだけ知りうるのです⇒現象学的存在論。
ーーーーーーーー
石谷 真
これは主体者と言う言葉を拡大解釈してると思います。武田さんは、ボクにとって客体です。これは、ボク以外の全ての人が、客体です。
例えば、話し合うことができるためには、言葉が通じるか?話し合う意思が、相手にあるか?それを想像しないとできない。それは自分と同じでは無いからです。主体者同士と言うのは、欺瞞です。主体者と客体です。気づいているかどうか?振るのは、ボクが、客体が、気づいていないと考えるからです。対象にできないのでは無く、対象にして欲しくないだけではないですか?
ーーーーーーーー
武田 康弘
対象にすれば、「対象となった人」が捉えられるだけであり、生きた主体者は消えてしまいます。人間はいない。
ーーーーーーーー
石谷 真
武田 康弘 様
主体者が、生きているかどうかは、対象にするかどうかとは、分けないと。例えば鏡を見て、自分の顔を知ることは、ここのヒゲ剃れてい無いとか、言うことは、生きているかどうか、とは関係無いです。鏡の対象にしたからと言って、人間はいなくならない。対象にしたヒトの見せ方を指摘しても、人間を、否定していません。ボクにはこう見えるよ。それで良いのではないですか?
ーーーーーーー
武田 康弘
ぼくにはこう見える、でよいですが、
それでは心理学にはならないのではないですか?
ーーーーーーー
石谷 真
武田 康弘 様
ボクにはこう見えるよ。は、カウンセリングの基本です。だから心理学です。
具体的には、こう見えると伝えることで、相手の反応を見る。眉間に皺が寄ってますね。とか、ニコニコしてますね。とか、そういうことです。主観で観るので、笑って無くてもニコニコしてますねとは、言います。オドオドしてるように見えます。とも言うので、正しいかどうかとは、別ですが…。まぁ心理学とは、本質を探る技の様なものというボクの解釈です。
ーーーーーーーー
武田 康弘
カウンセリングが必要な人には、その人に寄り添ってあげる人が必要なのは分かりますが、
心理学という一個別科学があり、それにより人間存在のありようが分かるはずと考えるならば、明らかに誤謬と思います。人間存在は「主観性の知」により掬い取るようにしか知れないですし、互いの憧憬・欲望を分かり合うことで了解するしかない、と考えます。
ーーーーーー
石谷 真
武田 康弘 様
カウンセリングをメインにした、心理学の考えでは、対人関係を重視します。つまり関係論です。
心理学は、分析する場合もありますが、いろんな考え方があるので、コミュニケーションの訓練としても、使えるケースもあるのです。
後、人間存在のありようが分かるとか、言う前に、楽天的に考えさせる方法とか、生き辛くない生き方とか、方法論を考えさせることもあり、心理学全否定ではそれはそれで生き辛いと思います。
ひとつ例を出せば、例えば、他人が、あなたの噂話をしています。その噂話は、良い話ですか?悪口ですか?というのがあります。
多くのヒトが、悪口と考えます。特に心理的に落ち込んでるヒトは、悪口と考えます。
でも心理学としては、これはフラットに考えないといけない。噂話=悪口という考えにクサビを打ち込みます。方法論としては、噂話=良い話と仮定した方が生き易い。そういう意味で心理学に良い面があります。
ーーーーーーーー
武田 康弘
心理学の善用は結構なことですので、異論はありません。
「心理学という一個別科学により人間存在のありようが分かるとするのは明らかに誤謬」ーそれがわたしの見解です。最初のとおり、人間を対象認識で分かるとする構えは、哲学(人間存在論)の原理上、ありえませんので。
ーーーーーーーー
石谷 真
サルトルのイマジネールの副題は、想像力の現象学的心理学です。存在と無の実存的精神分析を推奨するなら、心理学ということで、全否定するのではなく、対象認識で分かる部分、例えば医学的なこと、とか、人間存在論の原理にこだわる意味がもう一つよく分からない。
街中で、ブツブツ言ってるひとは、やはりおかしいとか、心理学の原理もあるのです。
ていうか、サルトルの実存的精神分析が、優れていると思う点は、武田さんにとって何ですか?現象学的心理学と、一般的な心理学の違いとは?
ーーーーーーー
武田 康弘
現象学的、という意味は、従来の心理学とは根本的に異なるという意味です。サルトルが青年期、現象学との衝撃的出合いにより、実存的回心を起こしたのです。
いま、外出(とわの会での恋知講座)するところですので、詳しくはまた後で。
武田 康弘
現象学を方法論として踏まえたサルトルは、対象認識により分かる人間心理は、対象となった人間の心理でしかない、と看破しました。
「浄化的反省」という作用がないと、いつまでも反省意識の地平に留まってしまい、非反省的意識(フッサールの言葉では純粋意識)を顕在化させることができません。
自己正当化の底意を取り払って、反省を浄化させるには、各自の根源的選択が何かを探りださないとなりませんが、その目的は、人間の諸行動の意味を解読することです。出発点は、生活世界の具体的経験です。
対象分析(相手を客体として扱う)ではなく、寄り添い、語り合うことでしか意味の解読はできないのです。
ーーーーーーーー
石谷 真
武田 康弘 様
寄り添い、語り合いこと、は、カウンセリングに近いですね。
対象分析を、どうやら、狭く捉えている様に思われます。
フロイトはどこまでも、精神科学に拘りましたが、多くの心理学者は、それ程、拘ってはいません。
それよりも今、流行りの、解決させるための認知療法とかが、精神科学的なのかも知れない。
ーーーーーーー
武田 康弘
よいカウセラーは、実行しているのでしょうね。
人間関係は、【対象化したら終わり】です。【相互主観性をそのまま生きる】というのが幼い子からお年寄りまでとのわたしの人間関係の中心・土台で、基本的態度です。
なので、わたしを対象化しようとする人は、大勢いましたが、みな自然と縁がなくなり断絶しました。わたしは、その人個人を対象化しませんので(=それが存在論的に優れた態度)、今の世の多くの人とは、折り合いが悪いでしょう。でも、多くの支持者、とりわけ子供たちと、人生経験の長い高齢者にはとても信頼され、愛されています。ただし、こどもも成長して【一般化の海】に沈んでしまえば、わたしとの交際は終わります。
その人 個人を対象化しない=その人を概念化しない=言葉に閉じ込めないというのは、【恋知する実存者】の究極の基盤です。
(終了後の集合写真)
次回は、7月22日(土)「21世紀からの新たな生き方と知」
古代の実存思想と20世紀のサルトルを手掛かりに。
お申し込みは、五反田のアイアイスクール(NPO法人)まで。
わたしは、【恋知する実存者】として生きています。
キリスト教徒として生きる、世俗教者(世俗の価値を追う者)として生きる、○○教の信者として生きる、というのとは、全く違います。
実存者=たった一人のこの私として生きるのです。
そして、すべての規準は、このわたしの内面=心にあります。
善美に憧れ、真実(ほんとう)とは何かを求める心は、人間だれにでもあります。育ちの影響で、それに目をつぶってしまう人はいるでしょうが、誰にも、よい(good)と美しい(beautiful)に憧れ、真実(truth)を求める心は、先天的に備わっています。
何かに、誰かに頼って生きるのはなく、わたし自身の内なる座標軸を規準にして生きるのが人間ほんらいの生き方です。
みなが、【恋知する実存者】として生きるようになれば、人類は、新たな段階に進みます。宗教的な生ではなく、世俗価値に従う生ではなく、恋知する実存の生が、深い幸福を生む条件です。
2023年 4月 15日 五反田アイアイスクールでの講演と対話の会で。
(次回は7月22日・土 お問い合わせは、NPO法人アイアイスクールまで)
武田康弘