思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

写真で見る「武田先生との哲学対話」4月15日(土)五反田アイアイスクール

2023-04-21 | 恋知(哲学)

 (終了後の集合写真)

 



次回は、7月22日(土)「21世紀からの新たな生き方と知」
古代の実存思想と20世紀のサルトルを手掛かりに。

お申し込みは、五反田のアイアイスクール(NPO法人)まで。

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「恋知する実存者」として生きるとは? 簡明にご質問にお応えします。

2023-04-17 | 恋知(哲学)

わたしは、【恋知する実存者】として生きています。

キリスト教徒として生きる、世俗教者(世俗の価値を追う者)として生きる、○○教の信者として生きる、というのとは、全く違います。

実存者=たった一人のこの私として生きるのです。
そして、すべての規準は、このわたしの内面=心にあります。

善美に憧れ、真実(ほんとう)とは何かを求める心は、人間だれにでもあります。育ちの影響で、それに目をつぶってしまう人はいるでしょうが、誰にも、よい(good)と美しい(beautiful)に憧れ、真実(truth)を求める心は、先天的に備わっています。
何かに、誰かに頼って生きるのはなく、わたし自身の内なる座標軸を規準にして生きるのが人間ほんらいの生き方です。

みなが、【恋知する実存者】として生きるようになれば、人類は、新たな段階に進みます。宗教的な生ではなく、世俗価値に従う生ではなく、恋知する実存の生が、深い幸福を生む条件です。

2023年 4月 15日 五反田アイアイスクールでの講演と対話の会で。

(次回は7月22日・土  お問い合わせは、NPO法人アイアイスクールまで)


武田康弘

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)イデア論。哲学とは学問ではなく、端的に知的。

2023-03-20 | 恋知(哲学)

 

内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)

 

「つまらない顔はイヤ」からはじまったー武田哲学のルーツと質。

2016-01-04 | 恋知(哲学)

インタビューの続きです。

最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。

そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。

プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。 

内田卓志

ーーーーーーーーーーーーー

内田さん、そう、「理想国」なのです。プラト ンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験 です。

また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者も ずべてそれにならっていますので、同じです。

イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。

プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えない と、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教ーー大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。

そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。

なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学 する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。

プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。

プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外 ですので。


武田康弘

武田先生

『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』

先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。

私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。

私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。

ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。

私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということでしょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。

武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。

ーーーー

続けて、

次にプラトンのイデア論のこと、

先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。

プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。

ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときます。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。

フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。

 ※イデア=理想とは厳密には理解すべきでないとか、研究者の間では議論があります。納富教授もそのような見解ですが、結論は結構武田先生のプラトン理解ににも近いと感じます。その他プラトンのことで語りたいことは、つきません。戦前の南原繁の『国家と宗教』でのプラトン理解は、学者の良識の頂点のような勇気ある著作でした。 

内田卓志

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内田さんの実存的レベルの話が入ったので、とても分明で、優れたインタビューになりました。ありがとう!
武田康弘


7さいー小学2年生のわたし
 (撮影は、父)

なんで、皆、つまらない顔をしているんだろう?
楽しそう、とか、嬉しそうではなく、曇った顔をしている。
生き生きしている人は少ししかいなくて、かたい顔、濁った顔が多くて、魅力のある人は少ないな。

小学生のわたしは、学校でも街でも電車の中でも、つまらない顔をしている人が多いのが疑問でしたし、嫌でした。

それが人間の生き方を考える一つのキッカ ケとなりました。

どのように生きるのがよいのか?
何と、どう向き合って生きるのがよいのか?どんな態度で生きるのがよいのか?
楽しく、イキイキと、よろこびの多い生き方、意味の濃い、深く納得できる生き方、それは何か?どう考えればよいのか?

そう思い、悩み、、考え、試して、対話して、という人生は、そのようにして始まったのです。
幼いころから、父への質問は毎日のようでしたし、友人との話も、意味や価値を問う内容で、知らずに、フィロソフィの毎日だった、というわけです。

だから、書物もよく読みましたし、これは、と思う本は、書き込みをしながら熟読しました。中学2年生の時にお小遣いではじめて買ったのがヤスパースの『哲学入門』でしたが、感動しつつも、賛成できないと思うところもありました。

書物は書物としてしっかり読み、わたしが思考する訓練や手助けとしましたが、哲学書が真善美の基準になることはなく、ある考えが、【私の赤裸々な精神= 頭と心身の全体で感じ知る現実】に如何に応答するか、それが基準なのでした。
『聖書』などの宗教書は真面目に読むほどに、その独特の雰囲気=超越的思想に嫌気がさし、わたしの宗教(一神教)嫌いを決定的にしました。イエスその人への評価とは別の話ですが。

 
また、それと同時に、真理とは何か?どの ように考えるのが「正しい」のか?という純哲学的=学的追求も執拗なまでに(笑)行いました。認識論の原理としての現象学です。

簡単ですが、これが、内田さんの最初の質 問へのお応えです。

次に、フィロソフィの本質に関わる核心点についてお応えします。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをされましたが、大事なことなので、確認します。

ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。

またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。

また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 
思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか。思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。また「主観性の知」であるざまな創造、講演や作文などは、最高度の知的作業です。

思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段としてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

以上は、核心中の核心(原理中の原理)と思います。

 
武田康弘

 

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー3  「東大病」 「実存とは」

2023-03-19 | 恋知(哲学)

  8年前(2015年)の   内田卓志による武田哲学へのインタビュー3  再録

 

主観性の知への無知   日本の教育の病=「東大病」      内田卓志

 

  実例を多く示していただきありがとうございます。本来眼目であるはずの、主観性の知を育て、鍛えるべきことは二の次、三の次にしておいて、客観知を中心とする技術知、パターン知のみに優れた人間を創ろうとする逆立ちした教育が、いまだに日本では主流と言うわけですね。その象徴こそが、東京大学を頂点とするヒエラルキーにあり、この国の病(東大病)だというのが先生の長年のご主張でした。

 

 私がスエーデンの教育について、聴き読んだところによると先生の言われる通りで、全く日本の学校の勉強の仕方と違います。まだ江戸時代の寺子屋のほうがスエーデンに近いです。(笑)私も大学で学んだ教育原理とやらを思い出し、敬愛するジョン・デューイの教育哲学を考えながら先生のお話伺いました。私は、25年以上ビジネスパースンをしていますので、学校教育の現場はほとんど存じ上げません。そこでもう少し先生に現場を踏まえた教育のことを話して頂き、そこから哲学の使命について話をつないでいきたいところです。

 

武田先生                      内田卓志

    一休みしたところでインタビュー・質問の続きです。
  主観性の知について、語っていただいています。今までは、その認識論的・存在論的な側面についてのお話でしたが、次にその実存論的な側面について伺います。

  まず、実存という言葉について伺いたく思います。一般的には実存とは、古代ギリシャからある概念と言われていますが、20世紀の思想的・哲学的成果の一つと考えられています。実存主義とか、実存哲学とか言われます。サルトルやヤスパースは、自らの思想・ 哲学 にその名を与えました。日本でも実存的不安という言葉が流行したのはいつ頃だったでしょうか。評論家の山崎正和氏が、実存(主義)的分析を自らの評論、『不機嫌の時代』で見事に応用したことを想い出します。

  それでは武田先生の考える実存について語っていただき、その後、教育と主観性の知における実存の問題、近代と実存の問題、そして、社会と個人の問題へ話を展開できればと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 内田さん

 わたしは大学の哲学徒でもありましたから、実存(現実存在の略)の思想を哲学史の中におく見方も分かりますが、今は、それらはわたしの思索の肥料になってしまい、そのものとしては検討する必要を感じません。

 以下に、わたしの実存の定義やそこから得られる帰結についてお話します。

 わたしのいう「実存」とは、私は、一回限りの私の生を生きている、という自覚を意味します。ほかの誰でもない、ただ一人のこの「私」が生きる、という明晰な自覚をもった生を実存としての生と呼んでいます。実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

 私は世界の中に生きていますが、世界の意味を汲み取るのは、私の意識です。何をどのように見、考えようと、私は私の意識を超えてその外に出ることはできません。私は外なる存在をはっきりと意識できますが、それも「私」の意識であるというパラドクスから逃れられません。この認識論の原理は、実存として生きる以外に人間の生はないことを教えます。

 したがって、私にとって意味のないことは認識の対象にはなりえません。他者が意味あるものとして遇する事象も、もし私がそう感じなければ私には存在しないも同然です。これは原事実です。人間の認識は関心がなければ成立しないので、関心が認識の出発点ですが、関心はこの一回限りの生をいきる「私」の関心ですから、実存としての生と重なっています。認識と実存が結び付いてることを知ること は、フィロソフィ(恋知)の原点なのです。

 主観と結び付いてしか客観はなく、客観それ自体を問うことが理に反するのは、現代ではすでに「常 識」になっていますが、 主観とは、抽象的な人間の主観ではなく、最後は必ずこの「私」の主観でなければなりません。それを離れれば主観は根付く場所を失い、ただの言葉=概念に陥ります。もしそうなれば、言葉や数字を概念としてだけ扱う精神疾患者(アスペルガーの一種)の意識と同じなってしまいます。 生々しい実感・ピントの定まったクリアーな意識を伴わない主観とは生きた主観ではなく、ただの言葉=概念です。要注意。

 人間の主観としての意識が、この世界を世界として定立させ、世界に意味を与えているので、各自の人間存在は、物の存在とは存在のありようが逆です。物はそれ自体で存在しますが、人間とは意識存在で、物やさまざまな事象を意味づけ価値づける主体者です。意識のない人間とは人間ではありません。ここで注意すべきは、前意識や無意識の存在ですが、意識されない意識としての無意識領域も、それが意識=自覚にもたらされた時にだけ現実的な意味をもつことです。検討・吟味(=意識化)されなければ意味をもちませんので、無意識領域を実体化させて物の存在のように見てはダメです。

というわけで、どこまでも「私」が見、感じ、想い、考え、生きるという根源的な事実から目を離さないこと、それを明晰に自覚することが「実存」という意識です。繰り返しますが、実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

 この人間の生の原理が自覚された時にはじめて各自の私は協力や共同が可能となり、各自の実存は、 響存(響き合う存在)ともなります。各自の「対立」は、対立があるからこそ豊かな成果をあげます。対立は否定ではありません。必要不可欠な人間の生の要素です。 自己であれ他者であれ、否定したら元も子もなくなります。大事なのは「対立」で、それゆえに各自の実存は輝くのです。この話は、すでに教育論に移行していますね。では、また。


2015.9.30

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー2 「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ。

2023-03-18 | 恋知(哲学)

8年前2015年の内田卓志による武田哲学へのインタビュー2  再録。

全体論についての回答、ありがとうございました。続けて質問します。 内田卓志

 

 先生の考えている全体論は、哲学の使命に関わる根源的な点だと思います。私の質問の前提とした全体論は、哲学の領域に関しての問いでした。
 存在論・認識論・価値論のように・・・。先生の問題意識を承知したところで、さて個別科学は、論理的、実証的な系統立った説明が必要になります。
つまり科学性ということでしょう。その科学的な知のありようを客観性という人もいますね。

 それでは、主観性の知の哲学は、ある種の科学性(皆が了解できる地平)を担保しなくて良いかとの疑問が湧きます。主観と主観の衝突ばかりでは、
 何が真なのか、何が善なのか、何が美なのかが分からなくなります。つまり好き勝手に利己的に考えることも主観性の知になってしまうのか、との疑問です。

 そこを解決する考え方が、ギリシャ以来の、哲学の本質的な意味と考えてよいでしょうか。つまり哲学的な原理についての問題です。そのあたりについて、
お話し頂けないでしょうか?

 

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「ほんらいの哲学=恋知」の核心について                武田康弘

まず最初に、
諸科学の「客観的」認識と言わるれるものも、誰か個人の頭の中で得られるものですから、事実としては「主観」です。ただし、その認識内容が、その領域に携わる人々の共通了解になれば「客観的認識」と呼ばれることになるわけです。

というわけで、主観と客観とは並立して対立する概念ではないのですが、言葉がつくりだすイメージが、「二項対立」を生み出します。要注意です。

では本題です。
フィロソフィ(直訳は「恋知」)は、主観の感情や想念ではなく、「主観性の知」ー「知」なのです。主観=私の直観や想いを絶対化するのとは対極にある営みです。

誰でも想いや直観から認識は始まるので、それは全く正当なのですが、そのはじめの直観を固定して絶対化するならば、自分勝手な思い込みに留まり、なんの普遍性もない「私的認識」に陥ります。

フィロソフィは、心身(五感)と頭(思考力)をフルに用いて「吟味」すること=疑い、試し、確かめる作業です。その自問自答を他者に示し、問答し、だんだんと普遍性の豊かな考えに鍛えていく営みですので、その限りでは個別科学と変わりません。それは、(1)宗教的信念のような絶対的「真理」ではなく、また、(2)みなが言うからという一般的「真理」でもなく、(3)腑に落ちる・深い納得という 普遍的「真理」を目がけるものですので、諸科学をその一部(手段)として含むのです。

ただし、諸科学は、認識対象を狭く限定することで細かな観察や実験が可能となり、質的相違を量的(数字)相違として表すことで、客観的と呼ばれる認識を得る努力をしますが、第一回目のご質問でお応えした通り、フィロソフイ―は全体的な見方や総合判断をしますので、頭の用い方が異なります。フィロソフイ は、諸科学における客観知を手段とする主観性の知であり、これが知の目的です。

人間の生の意味や価値を直接に問題とするのではなくとも、例えば、どのような家を建てるか、どのような音楽ホールをつくる か、それを思案するのは主観性の知であり、安全性という基本的要件のみならず、用途を満たす程度や、美しさの程度や、使い勝手の程度などが問題になりますが、それは客観知として測れるものではなく、全体知としての主観性の知による総合評価となります。

また、優れたセンス、企画立案能力、創意工夫や臨機応変の才、自由対話の力、作文力、問題発見と解決の能力、想像 力・・・・・・・などは、みな主観性の知であり、それらは受験知ーテスト知・客観知ではありません。繰り返しますが、人間の生きる意味や価値の問題を土台として持ち、含むこれらの主観性の知こそが知の目的であるわけです。そのことをわが日本人がほとんど自覚できていないのは、とても困った問題と言えます(東大病)。
わたしは、これに取り組んではや40年。時の経つのは早いもの、まだまだ頑張りますよ~~~~。全身 がだいぶボロくなっていますが(笑)。

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 なぜ主観性の知に無関心なのか          内田卓志

 

 続けて伺います。なぜそのような、想像力(構想力)の源泉ともいえる主観性の知について無関心なのでしょうか。それとも誤解しているのでしょうか。

 また、主観性を消去したほうが、誰かに都合がよいのでしょうか。かつては、お上、大日本帝国、今なら会社とか・・・・。

 私は武田先生とある高名な哲学者※との対話を隣で聴いたことが数回ありますが、このことを説得し理解してもらうのに、かなりの時間が掛かりましたね(その先生は、対話をはじめて二時間ほど経って、「武田哲学は、哲学の王道だ。」と言われていました)。

 デカルト以来の機械論的自然観批判、近代批判が哲学会でも流行ですので、主観性についての誤解は学者の間にも蔓延しているのかもしれません。

 私はデカルトやベーコンの機械論的自然観には与しませんが、近代の超克などは、たやすくできるものではないと思っています。後期ハイデガーは、ちょっと危険です。この話をすると長くなりそうなので、このあたりで武田先生にバトンタッチします。

(※ 山脇直司先生:ミュンヘン大学で哲学博士号、東京大学教授ー今は名誉教授。数年前に、武田先生と山脇先生との対話ー論争が幾度も行われた。)

 

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   「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ   武田康弘

単に「学」の問題というのではなく、現代の人間の生き方・考え方の根源的大問題、それが、主観性の知こそが「知」の目的であり、読み書き計算にはじまる客観知(答えが決まっている知)は手段にすぎないことを知らないーその逆転に気付いていないことなのです。
  
  この逆立ち、価値転倒は、世界的な問題ですが、とりわけ日本は酷いと言えます。その原因は、幼いころから「想う→考える」という【対話による子育て】(表情やボディーランゲージの交感を含む)がなく、芸を仕込むようにして「読み書き」という技術を教え込むもうとする教育ならぬ強育が支配しているからでしょう。

    答えは決まっている=正解があるという思い込みは、日本の型の文化に、正解として輸入された近代欧米学問が接ぎ木されたことで、酷い歪みとなって、手段も目的も分からないままに「知」に接するという事態を招いている、というわけです。これは、小学校から大学院まで変わらずです。教える側も教わる側もこの逆転の事態を自覚していません。この問題を明瞭に述べたのは、おそらく公式には、参議院のわたしの論文がはじめてでしょう。

 キリスト教という唯一神への信仰がつくった「近代西ヨーロッパの学」は、ニュートンの力学・数学や宇宙論に至るまで神の偉大さを証明するためという宗教思想を背後に持ちますので、人間の主観を離れた「純粋な客観」(神がつくった完全な世界)があるという根深い(深層心理にまで入り込んでいる)思い込みから自由な人は、稀にしかいません。ここからの解放は、21世紀のいちばん重要な課題だとわたしは思っています。

 キリスト教文化圏※は、さすがに本家本元だけにこの弊害に気づくのも早いようで、オランダや北欧にフランス、それにイギリスのエリート族などの間では少し前から「正解」のない問い、フィロソフィの教育をはじめています(幼少期より)。絶対的な真理を求めるのではなく、普遍的な思考を鍛える教育です。いまだにテスト知のチャンピョン崇拝=東大信仰が揺るがない日本は、どんどん置いてけぼりですが、教育改革をするにも、政府関係者には、東大病の官僚と、アナクロニズムの国体思想のイカレタ学者しかいないのですからお手上げです。

(注)※なお、フィロソフィは、西洋ではなく、小アジア(いまのトルコ)で起こったもので、かつ一神教の思想ではない(紀元 後4世紀にキリスト教によりプラトンがつくったアカデメイアは廃校にされた)のですから、「西洋哲学」という言い方は、欧州 人の我田引水でしかありません。インドの釈迦(仏教)の思想と近親性をもちます。要注意です。

 なお、後期ハイデガーは、論外です。彼のように、詩的言語で語っても、それはフィロソフィにはなりません。詩作品として発表するなら分かりますが、それを哲学だと言うのでは、知的退廃というほかないでしょう。きちんと吟味、検討、批判のできない言葉の用い方は、論理ではありませんから。超論理(笑)。



(武田康弘・2015.8 式根島キャンプ&ダイビングで

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武田哲学の芯に迫るためのインタビュー  内田卓志

2023-03-17 | 恋知(哲学)

武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=内田卓志



8年前のものですが、再度投稿します。いっぺんには載せられませんので、3、4回に分けて。武田


 以下は、内田卓志さんからのメールです。
 内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

 

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   武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問       内田卓志

 

  もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

 いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問します。

 私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行わるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイデガーの哲学でもないでしょう。

 武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論>がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にしたいと思います。

 まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」との対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

 そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

 この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。

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  内田さん、よいご質問、とても感謝です。          武田康弘

 

   早速ですが、まずはじめに、
フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィーというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィーそのものと言えます。

なお、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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灰色・艶なしから彩色の人生へ!  染脳・占脳ではなく、洗脳が必要です。

2023-03-11 | 恋知(哲学)

灰色・艶なし・
意味論のない事実学とそれがつくる事実人(犬でもサルでもなく人ではあるというだけ)・
仰々しい儀式主義=形式主義(天皇という記号が象徴)・
管理主義・厳禁の精神・学校化・病院化の社会。


わがニッポンに「私」に付き、「私」から旅立ち、伸び伸びと生きる魅力ある人は極小。人間になりたいですね。


受験知しか知らず、それに体制派・天皇教に知らずに占脳・染脳されたおじさん、あばさんが大勢いますが、気の毒で危険な人生です。脳を洗い透明にすること=洗脳が何より大切です。


武田康弘

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【魅力】とは人間とその営為の最大の価値 灰色から彩色の人間へ。

2023-03-09 | 恋知(哲学)

【魅力】とは人間とその営為の最大の価値。エロース(キューピット)が担います。わが日本人は魅力のない人の集合態(失礼)。人のマネ、一般的価値を追う、ブランド志向、何と魅力のないことか! 私の心身に正直に、オリジナルなことが、真の魅力の条件です。流行のツマラナサ。

天皇教=形式主義=集団同調主義は、灰色です。彩色世界への飛翔が大切です。あなたとわたし、ただ一人の私=人間が色づかない日本という国は、幸福をつくりません。それに気付いた人から幸福になりましょう~~~。小さな勇気を貫けばよいのです。宗教ではなく、周りの価値に合わせるでもなく、恋知する実存者として生きるのです。

一般的価値の海に沈む人は、永遠に不幸です。
一般的価値よ、さようなら。わたしはわたしの声をだす。



武田康弘

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「哲学」「信念」「思想」「宗教」の違いについて教えてくださいとの質問にお応えします。

2023-02-21 | 恋知(哲学)

先ほど、fb友人で建築家の岩崎俊介さんから、メールで以下のような質問がありましたので、お応えしました。
武田康弘
ー----------------

岩崎駿介

武田さん、一つ質問ですが、「哲学」と「信念」または「信条」とは異なると思うですが、安倍晋三元首相は、いいか悪いかはともあれ、彼なリの「哲学」を持っていたと言っていいのでしょうか。もう一つ、哲学と宗教は違うと思うのですが、宗教は一つの哲学であるということは可能でしょうか。お忙しいのにすみません。よろしくお願いします。岩崎駿介
ー-----

19:40
武田康弘

今、授業中なので、9時30分におわります。 家にかえってから、夜にメールします。

ー-----

岩崎駿介

恐れ入ります、感謝します

ー-----

23:20
武田康弘

   アテネのソクラテスの造語=プロソピアは、知(知識、知恵、その他すべて)と恋愛の情を足した言葉です。 知を恋する営みで、善美に憧れ、ほんとうとは何かを探求する情熱を指します。それをディアレクティケー(問答的に探究)として行ないます。生きた話しことばにより行い、文字は死んだ言葉とされました(プラトンによるソクラテスの対話編「パイドロス」の最後の方に記されています)。

 唯一の正解がある、というのではなく、普遍的な納得を目がけての対話です(絶対や超越ではなく普遍的了解をつくる)。 したがって、「信念」や「信条」とは異なります。結語・結論ではなく、たえざる思考の実践であり捉え返しなので、哲学という名詞形よりも哲学するという動詞形で語るのがよいのです。

 持ち歩けるもの、または、確定した真理のようなものとは根本的に違います。 そういう営みは明治以降の日本にはないので、「日本に哲学なし」と言われてきました。

 明治維新を礼讃する安倍晋三の思考法や言説は、哲学するとは、ほとんど正反対です。

 次に思想と哲学の違いですが、思想という言葉の概念はとても広く、信条や信念もみな思想ですし、マルクス主義のような体系だったものも思想です。
 カント哲学とかヘーゲル哲学とは言われても、マルクス哲学とは言われないのは、人間の認識の原理論(認識論)がないからです。マルクスの認識論はヘーゲルの認識論に依拠しています。唯物論という発想からは、認識論をつくることが不可能です。フッサールで一応の完成をみる認識論は「純哲学」の世界ともいわれます。インドでは、紀元1~2世紀に竜樹により「中論」が書かれましたが、フッサールとダブるところが多々ある認識の原理論で更に深い考察とも思えます。ともに難解な書物です。

 古代ギリシャのプロソピア=哲学するという問答的思考法の話しからズレましたので、戻しますが、結論を言えば、哲学は原理的思考の強いもので、思想とはさまざまなイデオロギー全般を指します。ただし、明確な区分けはできません。

 宗教は、信じることが求められます。哲学は、自由に考える作用であり、固定した真理があるとはしませんので、信じることを求める宗教、とくにキリスト教のような一神教は、哲学ではありません。疑似的な一神教である明治政府がつくった天皇教(現人神)ももちろん哲学とは無縁です。宗教は、一つの思想ですが、哲学ではありません。


武田康弘

 

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共鳴・共感・感動のNHKこころの時代ーウスビ・サコ(マリ共和国・京都精華大学学長)の哲学と教育実践。

2023-02-19 | 恋知(哲学)


真に普遍的な思想と教育実践に、わたしは共鳴・共感し、深く感動しました。ぜひ、ご覧になってください。

絶対的とか超越的という宗教的な世界ではなく、みなが深く納得できる普遍性とは優れた個性から生まれるもの。

必聴・必見です。

NHKオンデマンドで見られます。

武田康弘

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本音は「勝つこと」という文明は死へ至る病だ。「ただそのまま愛する」という当然がないのではお終い。

2023-01-03 | 恋知(哲学)

自己の不全感・疎外感から人を愛する。いわば穴埋めだ。

理屈をつけて人を愛する。利害損得勘から抜けられぬ悲劇だ。

金への執着、出世への執着。主義や主張への執着が凄いと、人を愛することができない。

ただそのまま人を愛するという当たり前ができない不幸は、底知れぬ不幸だ。

存在は汚れ、濁り、狡知が支配する。

そういう嫌な人が出世し、金を為め、何気に威張る。それがどれほどの醜さであり厭らしさであるか。
それを自覚できない不幸は、自他を道連れにして、己と世界を腐食させる。

そういう不幸な人を現代文化は量産している。

幼いころから競争、なんでも競争、それを当然とする。幼子の愛する心を消去して、勝つ、上に立つことを教え込み馴致する。

柔らかな人間性の魅力は減じ、戦士の名誉を羨望する存在に変える。堕落は極限的だ。

自覚なき罪は、永遠だ。世代に受け継がれる人間性の堕落。それが「エリート」だと思い込む。これ以上の罪はない。

武田康弘

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『個独という生き方』下重暁子著 個性と豊穣な孤独  ときめき感覚は、自分だけのもの。東京新聞刊

2022-11-26 | 恋知(哲学)

以下は、今朝11月26日の東京新聞10面からです。


 下重さんはこれまで「孤独」をテーマに多くの著作を出してきた。
自分を探求し自分の感覚を研ぎ澄ますことで得られる充実した孤独ー
ただ最近になり気付いたことがある。個性豊かな人たちとの交流が
「個」の確立に影響を与え、それにより「孤独」を楽しめるように
なったことだ。

 本書で紹介される個性を読むと47通りの「ときめき」があると
感じる。恋愛で、仕事で、抑えがたい感情、情熱に駆られる個性た
ちだ。たとえそれが苦悩や葛藤をもたらすとしても、・・・。
知識や教養と違い、ときめきを抱く感覚は自分だけのものです」。
豊饒な個性の源かもしれない。

東京新聞刊1540円 30日発売(稲熊均)



下条暁子さん、86歳の写真にはただ驚きしかない。

武田康弘

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「南無恋知」 21世紀の念仏で、ブッダ思想の究極を現わします。一神教を超えて。

2022-11-17 | 恋知(哲学)

 「南無恋知」(なむれんち)

 浄土真宗東本願寺派(大谷派)の東弘寺がわたしの恋知思想につけてくれたお念仏。
21世紀の新しい念仏で、かつ、ブッダ思想の究極を現わしています。一神教を超えて。
 わたしは、恋知する実存者。

南無は、帰依する。 恋知は、元から考える営み。
南無恋知は、イコール ほんらいの恋知=哲学することを指します。

神ではなく、自分自身の日々の体験をもとにして、大元から考えてみるという営みを拠り所にする、という意味です。


武田康弘
 
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竹田青嗣著「新哲学入門」講談社現代新書 2022年9月刊 竹田さんとの長い交際をもつ私の直球コメント

2022-11-09 | 恋知(哲学)

竹田青嗣著『新哲学入門』講談社現代新書 2022年9月15日刊のAmazon書評に、
彼と私の根本的違いを記しました。竹田青嗣さんや彼のグループの方からの返信をお待ちします。


トップレビュー

上位レビュー

武田康弘

5つ星のうち3.0  竹田さんとの長い交際をもつ私の直球コメント。

2022年9月24日に日本でレビュー済み

Amazonで購入

 竹田青嗣さんとは旧知の仲、89年のNHKブックス「現象学入門」の見事な現象学解釈を広めるべく、我孫子市全世帯に配付の「緑と市民自治」紙(わたしの発案でつくられた福嶋浩彦我孫子市議・後市長の新聞)に詳しい案内を載せて、市民会館で「ほんとうとは何か」(真理論)の講演会を行ないました。
 わたしは、現象学を、社会改革運動をマルクス主義的発想から根本的に変えるための認識論の基盤と位置付けてこの講演会(90年9月24日・我孫子市民会館)を企画したのでした。竹田さんは、その時はそこまでの思いはなかったかもしれません。

 わたしは、小学6年生の時の思想的悩みから、人間の生の原理を欲望として捉え、その視点で自分や他人の生き方を見てきましたから、竹田さんの欲望論の投企は当然のものと思い、賛同します。
 ただ最初に気になったのは、竹田さんは、西ヨーロッパ哲学(キリスト教スコラ哲学の改革版)の淵源をエーゲ海の知と見ていますが、これは欧米人に騙される日本の学者の典型で頂けないのです。水と油、多神教のギリシャを強い一神教の西欧の起原とするのは彼らの我田引水でしかなく、古代ギリシャはブッダ始原の仏教と対話し、ポリスの王たちは多くが仏教に帰依したのです。詳しくは中村元著の「古代インド」にあります。

 この本は、竹田さんが長年かけて西欧哲学(一部はエーゲ海文明の知)を仲間と共に精魂傾けて読んできた成果ですが、おそらく今も今後も、大多数の日本人には関係の薄い西欧の話しでうめられています。西欧人の西欧のための言説が日本語で書かれていて、引用もまたすべて日本語訳本によっています。そして、【哲学言語ゲーム】というタームが絶対の前提に据えられています。全西欧哲学+エーゲ海の知が、哲学言語ゲームの展開として俯瞰され、竹田解釈により首尾一貫とした【絶対精神】のように提示されています。
 ですから、ゲームに乗りにくい話し=竹田解釈にとって無意味とみなされる思想ははカットされ、20世紀最大のビックネームであったサルトルはまるで存在しなかったような扱いです(驚)。竹田さんが昔、西欧哲学が読めずに悩んでいた時に救世主となったフッサールにしても、竹田解釈学を進めるアイテムとなっています。まことに竹田による西欧哲学の全解釈ですが、昔、彼は、「哲学は趣味だ」とわたしに強調して言っていましたので、これでよいのかもしれません。

 そのように遇すれば、個々の哲学者の解釈は優れていて、大学内哲学よりも本質をついていますので、役立たせることができます。その点ではお勧めです。しかし本全体を読むとなると、竹田解釈学を習うことが哲学することになり、ソクラテスが造語したプロソピア(恋愛の情+知=直訳すれば恋知)としての白紙に戻して自分の体験をもとに自分で考える営みではなく、西欧哲学の竹田解釈をよく知ることが「哲学」となります。
 事実、熱心な彼の読書会の参加者である高校教師は、「自分は教育問題には関心がない」と言ったように自分の仕事や目の前で起きていることには関心がなく、哲学書の読書会が最大の関心事となります。わたしの周辺でも、哲学言語ゲームを竹田本を次々と読むことで行ない、自分の頭で考える代用品にし、それまで関心のあった社会問題は、本を読んで解決!(笑)となり、現実を変える行為はやめて、おとなしく読書する人になりました。人間から牙を抜いて保守化させる効果は見事なまでにあります。

 実際、竹田さんは、「学校は国家空間だ。ゆえに生徒の自由も教師の自由もない」という基本思想をもつ「プロ教師の会」の本を朝日新聞で絶賛してみたり、blogにアメリカのイラク戦争支持を書いたりしていましたから、保守主義者なのでしょう。こうなると論理などどこにいったのか、となります。主権者を人民(≒国民)とする民主政国家では、学校は主権者とこどものために官が市民サービスのために設置するものです。それを国家空間だから自由がない、というプロ教師の会の思想を擁護するとは驚きです。人民主権のルソーの社会契約論について、とても的確な評価と解説をしているのに、何故? また、少なく見積もっても50万人近くのイラクの民間人を殺したアメリカへの支持はいまも変わらないのでしょうか?

 わたしがお誘いし、参議院で一緒に客員調査員(官僚への講師)を務めたこともある竹田さんですが、哲学書の読解は得意でも、あまりに現実を知らないのは残念です。そのためにおかしな歪みが出てしまい、自己の少ない経験が絶対化してしまいます。公共問題も教育問題も実体験としてはほとんど知らずに、哲学言語ゲームの枠内で何でも言えるという勘違いが、とてもマズイ影響を自他に与えています。

 ハイデガーは「あなたのハイデガーより」と幾度もヒトラーに書き、交流をもちナチに強力してきましたし、日本の西田と田辺も戦前の天皇制=現人神という天皇教を支持しましたが、そのようなその時々の現状への追認がもたらす愚を避けるために、よくよく注意してほしいものです。
 また、現実政治への批判はなく、いつも政治批判をしてる側への批判ばかりなのは、日本の社会問題解決は、在日韓国人の自分には関係しない、と思っているのでしょうか。残念なことです。これらは、竹田さんには幾度もお話してきたことです。

 竹田読書会は、将棋のプロ養成所のようなものですが、「哲学は趣味だ。」とするならば、それでよいでしょうが、わたしは、哲学とは西欧人の書いた哲学書を次々と読んでいくものではなく、世界の誰もに得と徳をもたらす楽しく有用な営みであると考えています。白紙に戻して考えるというこどもが得意とする頭の自由で柔軟な用い方のこと。
 ソクラテスによる哲学者・正訳は恋知者の定義は、「知を求め、美を愛し、楽を好み、恋に生きるエロースの人」です。すべての始原は恋(惹きつけられる)で、エロース、英語ではキューピットが人を人間にするわけです。昔の映画「ローマの休日」で、王女は新聞記者との恋で人間になりました。恋知とは、人間になることです。ほんらいの哲学=恋知は、哲学言語ゲーマーになることではありません。言語は広大なイマジネールに支えられてはじめて意味と価値をもつもので、イメージとの往還が必須です。詳しくは、サルトルの処女作「イマジネール」(想像力の問題)が参考になりますが、読まなくてもふつうの多くの人は了解しているでしょう。

 竹田真理学に陥っている方は、ご自身の日々の体験につき、それをご自分の頭で考えて、ご自分の現実を生きるようにと願います。哲学書はアヘンだでは困ります。

 55人のお客様がこれが役に立ったと考えています―(2022.11.9)


 

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なにごとでも、一番大切なのは、好きだということ。好きだから選ぶのですし、好きだからそれに向かうのです。

2022-10-22 | 恋知(哲学)

わたしが、何かするとき、
わたしが、何かを選ぶとき、
わたしが、何かに頑張るとき、
わたしが、何かに夢中になるとき、

それは、わたしが「好き」だからです。
好きでないのに、何かをする場合は、義務・強制であったり、金を儲けるためであったり、地位や名誉を得るためですが、
それは、もちろんよくないことです。

現実の人間の生は、好きでないことをしなければならない場合もあります。
でも、ほんらいは、好きだからやるのですし、それが健康・健全な心・精神を育てます。

今までの社会、今までの大人は、効率第一という思想を仕込まれているために、不健全を当然と思い込んでいます。
好きを抑圧してしまえば、人間性のよさはどんどん減ります。歪みます。
だから、子どもから大人になるに従い、ツマラナイ存在に堕ちていきます。
いつまでも子どものよさを持ち続ける大人は、ほんものの人間です。
それを恋知者(哲学者)と言います。

好き、恋、愛、がなければ、すべてなし。
知との恋愛というのがソクラテスが造語したプロソピア(フィロソフィー)の意味です。
ソクラテスの恋知者(哲学者)の定義は、「知を求め、美を愛し、楽を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』)です。

学も知も「好き」でなければ、成り立ちません。内側からでないと、すべて歪みます。


武田康弘

 

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