思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

受験知がつくる『構造欠陥人間』-底なし沼の日本社会

2005-11-24 | 私の信条

見栄えがよく、セレブっぽい、建築優秀賞受賞!のマンションは、実はインチキ・上げ底・手抜きの『構造欠陥』物件だった!
これは、現代日本のあらゆる分野に共通する大問題ですね。

人気があれば偉い、
金ころがしが偉い
東大が偉い、
皇族が偉い
・・・・・
内容―中身の検証ではなく、外見と名前でしか物事を見ることができない人間の集合。
「受験勉強」しかないこの国では、上げ底の「知」-意味を問わない技術としての「知」によって、すべてが覆いつくされています。
情報=ただの事実の羅列だけ。表層的な言葉と数字だけ。全身で感じ知り会得する=自分の頭を悩ませて考えるというほんものの知は消え失せました。
お手軽、手抜き、底上げ、外面人間たちのオン・パレード。
点数で計ることのできる「知」しか知らない人々で埋め尽くされている国。

まさに『構造欠陥人間』がさまざまな分野で社会のトップに立ち、中身のない肩書き・外見人間が支配する『構造欠陥社会』が現代の日本という国の実態です。

この恐ろしい事実を正面からまともに見据えること、そこからしかほんものの改革は始まらないでしょう。
恋知(哲学)に基づく思想がなく、現状追認の「保守主義」と感覚を刺激するだけの浅はかな「その場主義」が大手を振るう現状を変えるためには、おおきな覚悟が必要です。

そのための基盤となるのが「民知―恋知」という「知」の変革です。
事実学から意味論への転換が急務です。
「客観学」を先立てるのではなく、主観性を深め、大きくし、豊かにする「主観性の学」である「恋知(哲学)=民知」を血肉化する営みに取り組まなくては、未来を開くことはできません。これは原理です。

外見だけが立派な『構造欠陥人間』では悲劇です。

武田康弘


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いつまで「元号」?「天皇制」?おかしな「超越」は認めない健全な心を!

2005-11-15 | 私の信条

「平成」時代?「昭和」時代?
21世紀の今なお、時間・時代までも「天皇」と呼ばれる一人の人間の生死で規定されてしまう!このような「古代王政」の思想・制度を受け入れているようでは、「実存の生=エロース豊かな自分から始まる生=精神の自立の生」は始まりませんね~。

少年よ!青年よ!大志を抱け(Boys, be ambitious like this old man)とクラーク博士に倣って言いましょう。
「世間常識」に従う=「既成事実」に縛られる=その場の快・不快だけに左右され、真実を探求しようとしない=政府(官僚イデオロギー)・マスコミに誘導される操り人形もどき、受動的な思想に縛られ、受身でおとなしいだけ・・・・そういうことでは、深い悦びの人生はやってきませんよね。

外的価値を追いその価値に従うだけの人生から、自己の内奥の声(真善美)に従う意味充実の生へと飛翔しましょう。「大志を抱け!」というわけです。
原理上の中心=自己の心の声を基点にして、人類的、生物的、地球的、宇宙的規模で考え、遊び、学ぼうではありませんか。

私たちは、日本人である前に人類であり、生物なのです。つまらない想念に縛られてエロースの乏しい人生を歩むのは、なんとももったいないことです。島国日本にしか通用しないおかしな「超越」=「天皇教」では哀れです。知らずに意識の深くに巣食う権威主義・序列主義・形式主義の呪縛を解く努力が必要です。

深く厳しい健全な「批判精神」と人間・生物への「愛の心」を育み、柔らかくしなやかに、どのような権威にも頭を下げず、真に自分から始まる生を生み出しましょう!それが何より美しく素敵な人生です。

「靖国思想・天皇制、東大病・官僚主義」を元から断ち、ひとりひとりの人生を深く輝かそうではありませんか! 民知ー恋知に基づき、自分の頭で考え、語り、実践する人生を!

「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ見てください。

武田康弘




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自分をチェンジ。社会をチェンジ。

2005-09-10 | 私の信条

情報を集め、整理し、羅列するだけの「ノッペラボウ」。

他者の意見を誠実な議論なしに自分勝手に解釈する「独断自閉」。

様子を見て、強そうな方につくだけの「ドレイ根性」。

社会問題を自分の頭で考え、批判的意見をもつことができない「家畜人生」

そういう生き方をしていて、幸福ー悦びが得られると思うなら、それは極限的な「愚か者」です。

「天皇・靖国」という国家宗教的な象徴。
「東大・官僚」という現実権威的な象徴。
「自民党」という政治的な象徴。
「読売巨人軍」という娯楽的な象徴。
「IT成金・土地成金」という貨幣の象徴。

こういう外なる価値を崇拝するヒステリー=内面世界の豊かさ・強さのない外面追っかけ人生と「幸福」とは二律背反ですね。「遊んで暮らせる富」を得ることができれば、「幸福もどき」の生活は可能ー何でも金で買える?ーですが。いや、一番不幸の生に転落するかな?

おとなしい人、いい人、ただの常識人、傷つくのを恐れるためのうそつき人(自分を騙す「自己欺瞞」を続けると奈落の底に堕ちますよ)、そういう「人」から抜け出ないと、「出口なし」です。

わが日本人よ!とりわけ若者よ!
はっきり、きちんと、堂々と主張する練習をせよ!どうでもいいような「おしゃべり」しかできないテイタラクから自分自身を解放せよ!とあえて怒鳴ります。

「受動性の想念」に縛られていることが「カッコイイ」とでも思っているなら、お笑いでしかありません。ああ、勘違い!あなたは「昆虫的な人間」?としてしか生きていないことになります。いつも周囲にあわせるーでも人間ですから合わせきれなで時々「狂う」「切れる」-なんだか惨めもいいところ。

明日は選挙、それにしてもいつまで「自民党」なのでしょうかね。ずーと同じ政権、息が詰まるような閉塞感。昆虫的人間から脱却するはじめの一歩は、選挙に行き、「変える」意思を示すことです。自分をチャンジ、社会をチェンジ、それが一番「かっこいい」と思うのですが。


9月10日 武田康弘


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二次元の世界の住人は、自分を変えません.

2005-09-09 | 私の信条

金泰昌(キム・テチャン)氏から依頼された原稿・「民知―恋知と公共哲学」(11000字)を書き上げて、頭が疲労ぎみです。 「公共的良識人」紙の7月号に書いた民知宣言ー「出会いと民知と公共哲学」に続く第二弾です。

ボーっとしながら一言。
つくづく思うのは、日本人(だけではないでしょうが)の勉強好き?のマジメな人の頭=思考回路が二次元(平面)的だということです。

情報を多く集め、一見、整合的な理論をつくり、しっかりしているように見える。いろいろと考えていそうだ。専門知の知見を拠り所に「近代的自我」を持ち、自信もあるようだ。本もたくさん読んでいる。

でも、全部? 立体から見れば影に過ぎない「事実学」を積み上げているだけです。どこまでも平面の拡張に過ぎないようです。

それにしても、書き言葉は、どうしても平面になりがちです。なかなか難しいものです。というより、もともと「書き言葉」とは写真のようなもの。平面なので、工夫して元の立体を想起させることしかできませんが、ほとんどの人がそのことに無自覚なので、書き言葉に依拠した「インテリ」ほど文字世界に呪縛されて二次元世界に堕ちてしまうというわけです。

三次元の頭になる?ことは、可能です。変な教育を受けていない子どもは、三次元です。「なぜ?どうして?何のため?」と質問攻め!平面から見れば矛盾だらけーでも立体交差ならぶつかりません。 しかし、すでに自我意識を強くもつ大人の男性は、「一度死んでやり直す」ほどの覚悟が必要?「自我のよろい」ほど厄介なものはありませんから。「全身で思考する」練習をしましょう!

あなたも文字言語が偉いと思う「自我」の人? 
「我」は強く「思考」は弱いのが日本人のようです。いやですね。

私は、堂々と「あっけらかん」と自分を主張することで、「マジメな底意地の悪い自我」を消去!という生き方をしています。自分の「存在」を深く肯定できれば、自他の幸福をつくらないいやらしい「自我」は消えます。(ついでに言えば、「天皇家」の存続を第一に考える!?というような想念は、極限化された自我主義ですー皆を不幸にします。)

存在感は強く、大きいーでも自我は弱い。そんな人間になりたいもの。


9月8、9日 武田康弘




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わたしが好きな三つのこと + 日本人の「顔」

2005-08-26 | 私の信条

それは、

?明快で美しいこと

?品位の高いこと

?親しみがあり、遊び心があること

です。

健全な強さと豊かな大きさもち、上質な世界を目がける精神です。

世俗の権威には従わず、自己の内面の心につく精神です。



最悪なもの、

それは権力に迎合し、権威や金力に頭を下げる「男めかけ」や「媚を売る女」です。
私は、「寝返り女」や「裏切り男」は大嫌いです。自他を堕落させます。
テレビに出てくるいやらしく・おぞましい顔の男女は「公害」ですー顔は顕現する!
現代日本で「有名人」や「エリート」と呼ばれる人々の多くは、ほんとうに醜くいやな顔をしています。 「顔」をご覧下さい(クリック)。


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わたしのライフワーク (「民知」の補足説明-2)

2005-07-18 | 私の信条

わたしのライフワークは、「ものごとの知り方を変えること」です。
勉強、学習、学問の概念=スタイルと内容の双方を変更することです。

ハウツーの薄っぺらな「受験知」、
「事実学」累積の不毛性、
単なる「言語」の演繹を高等な知だとする妄想、
「生活世界」の根源性を知らず、既存の知の「体系」を前提にするアカデミズム、
一言で言えば、平面的=二次元的な知のありようの変更です。

意味を問う知、立体的な三次元の知、人間的な、真の有用性をもつ生きた知、
この「意味論」と「本質学」のことを、私は経験的なふつうの言葉にしてみました。それが「民知」です。日々の具体的経験から立ち上げる知、生のエロースに結びついている根のある知のことです。

「民知」とは、「学知」を含む「生活世界」全体の変更をもたらす「知」に対する基本的な姿勢、「知」の遇し方のことです。

権威や抑圧、重しとしての知を元から廃し、みなの得と徳になる知、悦びの知、人生が広がる知、自由が拡大する知です。真に自分自身から出発する人生をサポートする知の原理が「民知」です。

わたしのライフワークは、民知の実践です。
神経過敏の「言語依存症」や、単なる実務的な知とは次元を異にする、
スケールの大きなエロース溢れる知=民知の実践をぜひ共に。

7月11日の民知の補足説明ー1「実存的回心を引き起こすもの」もお読み下さい(クリック)

「民知宣言」全文はクリックして下さい。

7.18 武田康弘




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「自我主義者」か?否か? 見分け方は簡単です。

2005-07-16 | 私の信条

ある人が自我主義者か否か?を見分ける方法を伝授(笑)します。

「愛想」がよい人か、悪い人かは無関係です。
世間的な「うけ」がよい人か、悪い人かも無関係です。
おとなしい人か、「主張」する人かも無関係です。

見分け方は簡単です。
その人が、あなたのこと、あなたがしていることを、他者に話しているか否か?
それだけです。

自我主義者は、あなたから得たよきものを「自分の得」にだけして隠匿します。
まるで始めから自分のものであったかのごとくに。
必要な時には、「形式的」にだけあなたのことを話し、あなたのよき「内容」については黙っています。

自我主義者がもっとも輝くのは、他者の不幸を話すときです。マイナスのエネルギーで生きている彼らは、自他の喜び・悦び・歓びをつくらず、空気を汚染し、不幸をつくります。

エロース豊かな愉しい人生のためには、自我主義者から離れること、関わらないことが何より大切。個人から始まる人生=実存として生きる意味を消去して、「集団同調」で生きる他ない灰色の人生をつくる自我主義者は、人生の「不幸生産者」なのです。
わたしは「幸福生産者」として生きたい、といつも思っています。


7.16 武田康弘




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ああ、日本人!「幸福をつくらない日本というシステム」

2005-07-01 | 私の信条

一人の個人としてのエロースを求めることができず、そこから逃げて何かしらの「集団」や「仲間」の中に埋没する。そこでの役割―仕事に忙殺されることを選ぶ。「いやだ」と言いつつ「忙しく」している以外に、生きる術を持たない。忙しい、大変だ、という生き方が「唯一」の生き方になっている。

時間ができてもそれを実存のエロース・悦びの創造には使わず、再び既成価値の下でバタバタとして「自分から逃げる」パターンに戻してしまう。「そうするしかないのだ」と自他に言い聞かせつつ。

内的に愉しむ・悦ぶ=個人の深い意味充実のエロースを知らず、いつも世間がつくった外の価値に合わせて生きようとアクセクする。自分―個人は存在せず、世間の価値だけが存在する。右も左も依然として精神の深層は「天皇陛下・万歳!」?の全体主義から抜けられない。おおもとから考える心と頭を育むことをせず、結局は、情報知と制度知の紋切り型に支配されることを選んでしまう。

自己意識(「自我」ではなく「意識の働き」それ自体のこと)が弱いのでたえず「世間」の価値で生きるしかない。自分自身から発するエロースがないので「寄生虫」にしかなれない。「いろいろ考えた」といっても最後は「形式、世間体、外面」に縛られて何もできず、空しく消えていく人生。これでは一生、悦び・エロースはやってこない。底なしの不幸。でもそれを選んでいるのは、私たち自身。

わが日本人よ、「一歩」を踏み出そうではないか! ビクビク小さくなっていても何の「得」も「徳」もえられはしない。たいした「実害」もないのに虚像に怯えているのはただのバカだ。わが同胞に最も必要なのは少しばかりの「勇気」である、とつくづく私は思う。自分自身に素直になれば、内外の「革命」はやってくるのに。


2005.7.1 武田康弘


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「改革」派敗北の原因ー雪崩うつ右傾化=「靖国」思想を復活させれば日本は終わりなのすが・・・

2005-05-17 | 私の信条

わたしは保守派オンパレードの世の流れに「公共的怒り」をもつ者です。明治政府が人為的につくった新宗教=「国家神道」の靖国神社が市民権を持つようなら民主制は終焉するでしょう。もう一度山県有朋が中心となって作り上げた「近代天皇制」を肯定するなら日本は完全にアウトだと思いますが、自民党の戦略は着々と成果をあげています。
国家主義的な強制がまかり通る薄気味悪い世の中を、「実存」を原理とするエロース豊かな社会に変えていかなければならないと考えます。

こういう愚かな世の中=低次元のエロースしかない社会にしてしまった原因のひとつは、改革派と言われる左翼の思想=生き方にあると思います。

その時々の社会の「状況」をどう見るか・考えるか?は、
「学問や勉強」ではないのですが、「理論」が偉いと思ってきた従来の日本の左翼は、それを「学問」にしてしまったためにひどい権威主義に陥りました。権威にすがれば、個々人から立ち昇るエネルギーが消去されるのは当然の話です。象徴的に言えば、体制派以上に「東大病」に侵され、体制派以上に「事実学」の権威に縛られてしまいました。(左翼系といわれる「朝日」の序列―権威主義!)

《存在》そのもののよさを知り、そこにつくのではなく、知識・履歴・財産・の《所有》、左翼の場合はとりわけ知識の所有につく傾向があったために、人間の存在としての力=「人間力」を豊穣化させることに失敗したのです。それが、のびのび自由に「状況」に関わり、発言する力を弱めたのです。イデオロギー=理論に縛られたギクシャクした心身―紋切り型の頭にはまったく魅力がありません。

「理論」を優先し、権威ある「人物」に頼ろうとする思考・心理を元から断つ新たな考え方=生き方が必要だと考えて、わたしは1976年から私塾を開いて自他の改革に取り組んできました。「実存愛」の哲学を創り実践してきましたが、「病気」の根はおそろしく深いです。

「状況」への発言は精密さには欠けても、《自分のことば》ではっきりと言うことが何よりも大切で、そういう行為が「エネルギー」を生むのだと思っています。「理論」ではなく、生きたいまの考えが尊重されないと思考は死んだ無価値なものになってしまいます。主義や団体の発言ではなく、「わたし」の発言を主軸に据えないと改革派は完全に敗北してしまうでしょう。

自分自身の心身や思考や行動を、柔らかくしなやかで自由な愛=「実存愛」によるものに変えていきたいな、というのが私の思いです。

新しい生にむけて、“ここがロドスだ。ここで跳べ。”といきたいものです。

2005.5.17 武田康弘




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社会問題を語るのは自分を語ることー「社会」への逃避は有害です。

2005-04-20 | 私の信条

以下は、昨日のブログの最後に、「私の信条」として書いたものです。
以下の文だけでは唐突な感じで分かりにくいと思います。
この下のブログと共にご覧下さい。



最後に私の信条を書きます。

原理的な思考により、「ほんとう」をつかむこと、「現実」に負けないこと、愚直に本道を歩むこと以外には道はないと思います。
たとえ多くの人が「気だるさ」に支配され、「ごまかし」や「その場しのぎ」の生き方をしていたとしても、それに引きずられては「損」です。
「社会」に逃げてはいけません。問題とは、結局は「自分」の問題なのですから。皆がどう言おうと、自分がよく生きることです。

社会問題を考えるのは、既成秩序・価値のツマラナサを批判して、新たなエロースを広げるためです。受動性から能動性へと人生を転化するためです。真に自分を中心に生きるためです。それ以外にはありません。

あらゆる学と思考は、人生を肯定するためにのみ意味と価値をもちます。逆に言えば、自分の人生を肯定し、喜び・悦び・歓びを広げるような選び=決断を断固として行う勇気が必要です。展望のない思考には存在理由がありません。よき実践=行為をともなわない思考は、有害・有毒で、人生からエロースを奪ってしまいます。

2005.4.19 武田康弘






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「寛容の精神」のために必要なのは、「非寛容の精神」です。

2005-03-03 | 私の信条

寛容の精神とは、裸の個人同士・あなたとわたしの人間関係のためには、何より必要な態度です。

しかし間違ってはいけません。政治権力者や経済的な支配者の言動に対して寛容の精神を発揮する!としたら、ブラック・ジョークにしかなりません。

例えば、中曽根元総理は、懐古的な「元号」強制法案を作った男ですが、こういう人間が、「日本の教育改革に全力で取り組む!」ことに寛容であるとしたら、市民主権社会の発展は間違いなく阻害されます。

民主制社会の維持・発展のためには、彼のような人間の思想と行動には、明白にノーという必要があるはずです。再び国家主義の思想を喧伝する権力者に対しては、「非寛容」の精神こそが必要です。

現代の日本人の精神は、受動性の思想=思想ならざる思想に支配され、個人に対しては非寛容、権力者には従順という、 「真・善・美」に憧れる心とは程遠いものになっているのではないでしょうか。

自民党と文部官僚が長年推し進めてきた既成秩序に従順な人間づくり、体育会系の人間を優遇する教育政策は見事に?功を奏し、権力や体制を批判する者は、変な人・危険者とみなすがごとき不健全な精神が蔓延しています。日本社会の右傾化ー矜持を失ったテイタラクは眼を覆うばかりです。

実存者としての個人は、交換可能な「人」ではありません。私は、人間を受動者に陥れる歪んだ思想―既成社会の枠組みに個人を閉じ込める保守主義を、日々の具体的な行動の次元から変えていかなければいけないと考えています。

金の力で政権を維持している自民党の代議士が、「金の力で何でも出来ると思っているのはケシカラン」と言い、組織を上げて裏金作りに明け暮れている警察が、「青少年の非行を取り締まる」と言う。外部の厳しい監視の目が入らないこういう腐った団体・組織に「寛容」な精神を持つ!?保守主義の人間は、必ず、裸の個人―弱い立場の人間に対しては「非寛容」です。

哲学とは裸の個人―実存として生きる人間の側にたつものです。明治天皇へ奉げられた天皇讃歌=「君が代」を学校現場に強制することに象徴されるような国家主義のイデオロギーに対しては、断固としてノーを言う「非寛容」の精神が何よりも大切なはずです。

政府権力者が教育の場に自分たちのイデオロギーを持ち込むのが当たり前という風潮をこのまま許すなら、日本の社会は裸の個人から発するパワーを失い、必ず衰退していくでしょう。

健全な人間は、国を愛するのではなく、何よりも人間を愛するのです。権力を使って時代錯誤の「愛国心」を強要しようとするのは、裸の個人を愛することのできない歪んだ思想の持ち主にのみ可能な所業です。

限りない愛と寛容の精神が必要なのは、裸の個人―あなたとわたしに対してです。くれぐれも間違えのないようにしたいと思います。

武田康弘 2005.3.3




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至高の音楽=ベートーベン・ベルリオーズ・モーツアルト

2005-02-28 | 私の信条
私の好きな3人の作曲家。

生きることを支え、命のパワーを増大させる音楽は、ベートーベン。

想像力を刺激し、心に自由を生み、情熱をかき立てる音楽は、ベルリオーズ。

心身にリズムを与え、新鮮な空気のように頭を癒す音楽は、モーツアルト。



わたしが、困難や苦境-厳しい状況をエロース豊かな世界に変えてしまうことができるのは、彼らの音楽の力です。

わたしが、悲惨・陰鬱・停滞から無縁なのは、彼らの音楽を聴くことが出来るからです。

彼らの音楽は、どんな宗教や哲学よりも深く大きな啓示です。


いつも、いつも、感謝しています。


武田康弘 2005.2.28


2004年私のベストテンは、コチラ  (クリック)
音楽再生装置=オーディオは、コチラ (クリック)




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自分自身でいること (信条?)

2005-02-13 | 私の信条
自分自身でいることができれば、人間存在は自由でありながら安定を得ます。

自然体であるなら、命は、無理な輝きではなく、自然な輝きを放ちます。

自己存在の肯定は、心身に落ち着きを与えます。内的なエネルギーに満ちるからです。

外的(俗世間的)な価値観に縛られ、他者の評価にビクビクする神経症とは無縁な、充実した世界を生み出します。

自分が真に取り組みたいと思うことに、ためらわずに向かうことが可能になります。

私が私であることは、よい果実をたくさん実らせる最大の条件です。

何より求められるのは、己の内なる声を聴き、それに従うことです。

現代人病=脅迫神経症から解放されなければ、真に価値あることは何も出来ません。

自由と安定、エロース豊かな悦びは、自分自身でいることからしか生じないのです。


2005.2.13 武田康弘





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批評するのではなく、能動的に問題に取り組もう!(信条?)

2005-02-06 | 私の信条

「論理的な正しさ」それ自体を執拗に追い求め、世の書物の一つ一つを「正しさ」を基準に評定し、「正しさ競争」に邁進する。一生をそれで終える? そんな人生は、イヤですね。

優れた認識のための努力は大切です。透明な意識を得るための方法を探り、日々それを実践することは、欠かせません。澄んだ意識、シャープな分析、囚われのない認識を得ることには大きなエロースがあります。

しかし、それは、あくまで前提にすぎません。観想に終わったらアウトです。生の意欲は消えてしまいます。肝心なのは、何をするか?です。具体的な建築・創造へと向かうことです。

受動的な生に留まれば、だんだん元気がなくなり、エネルギーは枯渇していきます。他者の生き血を吸って生きる!人間になってしまいます。

私は、子育て・教育に取り組む、教育問題に取り組む、市政問題に取り組む、政治の改善の方策を考えることに取り組む、音づくりに取り組む、写真を撮ることに取り組む、建築に取り組む、新たな考えを生み出すことに取り組む・・・・さまざまなことに直接取り組みます。人に何を言われようと、人は人なのですから、自分が取り組みたいと思うことに逡巡なく、取り組みます。真っ直ぐに、愚直に、バカに徹して。

能動的、現実的に取り組むわけです。
批評家的に「問題を問題にする」のではありません。

教育の問題を問題にする、政治の問題を問題にする、というのは、批評を職業にしている人には意味のあることですが、主体的に生きている人―能動的・現実的に生きている人には、無意味な話です。

原理的な次元の問題ならば、「問題を問題にする」というこの二次的な態度―立場は成立しますが、現実問題への取り組みとしては、「問題を問題にする」という立場は成立しません。原理の次元を超えて、現実次元の話しまでも「批評家的な態度―見方」で物事を考え、取り組めば、真に意味あるものとしては取り組まないという取り組み、にしかなりません。

生業をもって現実的に生きている人間が、批評家のように二次的立場で現実問題を論じるような態度をもてば、まさに百害あって一利なしです。

主体的に生きることで、始めて真のエロースは降り来たるのです。
観想から能動へ、批評から行動へ、それが生きる!ことです。 共に!!

武田康弘





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信条? 有と無-音楽と言葉と

2005-02-01 | 私の信条

真にに素晴らしい音楽は、たくさんの音を使っているのだが、音が消えている。音はな

く、音楽の愉しさ、悦び、だけがある。


真に有用でよく生きることに役立つ話も同じ。たくさんの言葉が使われているが、言葉

は消えている。律動的で・面白く・感動的で・真にためになる話は、うるさくない。言葉が

消えて、よい考えだけが残る。心の深いところが気持ちよい。


ともに、外的な時間は止まり、内的な充足の時だけがある。その時、生きる時間は、永

遠になる。至福とは、その時のことを言う。


単純で、たいして音を使っていないが、うるさい音楽、つまらない音楽がある。

単純で、たいして言葉を使っていないが、いやになる話、うっとうしい話がある。


私は、それとは逆の、至福の時-永遠の時間を生きたいと思う。



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