思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

天皇問題への見事なコメントーもったいないので、記事にします。

2006-09-08 | メール・往復書簡

昨日のブログ(この下)へのコメントは、どれも素晴らしいものです。もったいないので記事にして出します。みなさん、どうもありがとうございます。まさに「民知」の威力です。


[ hiromin ] [2006/09/07 21:50]
この大騒ぎには私もうんざりで、今日もテレビはつけてません。皇室に生まれた赤ちゃんももちろんですが、普通の家庭に生まれ育つ子供たちにも同じような酷な状況があるのでは?と感じます。親や、まわりの大人たちによって、自由を奪われて、知らぬ間に「型」にはめられ、「自分の頭で思考する」ってことができなくなってしまっているような子供は、私のまわりにも実際、多くいます。小学校低学年でもそんな状態だということは、子供たちが話す言葉や表情で感じます。かつて私自身もそうでした・・・白樺教育館に通う前は。この国の教育っていったいどうなっちゃているのでしょうか?人って何なんでしょうか、思考せず進化もせず止まったまんまで生きていて、本当の幸せやよろこびってあるんでしょうか?私はそんな生き方は嫌です。かなしすぎます。

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[ eucharistia ] [2006/09/07 22:28]
私はここ12年ほど、テレビのない生活をたのしんでいます。そのため、却って、マスメディアの「大騒ぎ」はキャッチしやすくなっています。なぜかというと、テレビをもっていないはずのわたしにまで内容が伝わるほどの「音漏れ」が耳に、目に、刺激的だからです。「列島は慶祝ムード一色に」、テレビなしの私も見飽き、聞き飽きました(どの列島の話かなぁ)。 しかし、一番ぞっ!としたのは、宮内庁自体はなにもするきがなかったのに、民間からの問い合わせで仕方なく「祝賀記帳」がはじまってしまったり、神社仏閣に近所の人たちがやってきて「記帳所はないのか」などいい、神社仏閣もとまどいながら私設の記帳所をもうけた、という報道です。「なんとすばらしい出来事!」という報道でしたけど、私は背筋に冷たいものが走りました。「草の根」「内からの」天皇制の典型。いやな世の中になりつつあるのでしょうか。やだ。
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[ タケセン ] [2006/09/08 00:53]
eucharistiaさん、
自分からはじまる人生=内的な意味充実をつくらないで生きれば、外なる価値に従う=自ら従わざるを得ない人生になります。それが「草の根」の天皇制を生み出すのでしょう。外的価値を内的価値にしてしまう人間では、人間として生きるエロースがうんと小さくなってしまいます。それは謙虚なのではなく、自己欺瞞でしかないでしょうね。
よいコメント、ありがとうございます。これからもよろしく。

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[ コテツ ] [2006/09/08 02:21]
何気なく書いた言葉がタケセンのブログにのってしまうなんて。
なんともお恥ずかしい・・・。
すごい馬鹿っぽいコメントですいません。
自分の言いたいことはタケセンがうまくまとめてくれました。
「天皇家を歴史的・文化的な存在として遇するべき」
賛否両論ある制度なので、自分も上の考えに大賛成です。
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[タケセン] [2006/09/08 12:16]
hirominさん、
hirominさんの思考は、まさに哲学そのものですね。特殊な問題を一般化し普遍化するーその見本のような思考で感心しました。単なる事実学ではなく、本質論=意味論の追求になっています。平面(二次元)ではなく立体(三次元)として物事を見ていますね。真に価値ある言説です。

コテツさん、
コテツさんの、「 宗教法人『天皇家』みたいにして自主経営して!! 」は、「馬鹿っぽい」どころか、近代天皇制の矛盾の核心を射抜く一言です。この一言で天皇制は論理的に崩壊してしまう恐ろしい(笑)言葉です。正鵠を射るとは、まさにこのことです。ほんとうに凄いですよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それにしても、このように平易な言葉で本質抉(えぐ)る力は「学者」にはまったくありません。「民知」の偉大な力を感じます。ブログが「市民革命」を生むかもしれませんね(笑・嬉)

武田康弘


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なぜ日本では自分で考え・話す教育がなされて来なかったのですか?-への返信

2006-08-31 | メール・往復書簡

以下は、昨日のブログに対する「ミクシィ」内からのコメントです。




先生、質問ばかりで申し訳ないのですが、また質問させていただいてよろしいでしょうか?

何故日本では自分で考え・話す教育がなされて来なかったのでしょうか? 考えない国民の方が統治しやすいからでしょうか? 自分で考えさせる教育は時間がかかる教育だからでしょうか?

また何故、今、ナショナリズムの必要性が語られ始めているのでしょうか?単なる安倍晋三氏の意見だけではなく、ナショナリズムの動きがネットでも見られるような気がするんですが、何故この最近多いのか、私にはよく分からないのです。特に理由は無いのでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。

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2006年08月30日
21:22
タケセン

Tさん、お元気ですか?

大問題ですから、大雑把に書くしかありませんが。
?江戸徳川幕府による統一の少し前に、戦乱の続く中で、武将への盲従を説く規範が示され、物事の判断に自己の知力を使うのは邪悪の根源であり、上位者に仕えてこそ個人の生は価値あるものと言われました。この封建時代の思想は、「国学」運動(国文の古典の解釈)から明治の国粋主義へと受け継がれましたが、政治・社会の秩序も自然法則と同じものとされて、上位者の決定を合理的に批判する道は閉ざされてしまったのです。
明治の自由民権運動は、これとは異なる近代的な人間・社会像を示しましたが、山県有朋らの頑迷な保守派(天皇親政)はこれを根絶やしにするために、教育現場を押さえ、天皇崇拝と事実学による知の支配を1890年ころに確立しました。市民革命的な変革運動は弱く、その後に起こった大正デモクラシー運動もやがて15年戦争の荒波に沈み、1945年の敗戦をむかえました。自立した「民」の力が育つのは、これからかもしれませんね。「民知」運動が大事です。
?実存論的な自己の哲学やシチズンシップ=市民精神が弱ければ、人々は心の拠り所を国家や天皇との一体化に求めるほかありません。
不安の時代に、アイデンティティの手っ取り早い確保がナショナリズムというわけでしょう。ただし、この処方箋は、深い地点で個人からよろこびを奪ってしまいます。「得」も「徳」も得られません。

参考図書として、集英社版・日本の歴史17-日本近代の出発(佐々木克著)を揚げます。簡潔・明晰です。また、読み応えのある大著ですが、ウォルフレンの「日本権力構造の謎」は必読文献だと思います(すでに古典的名著)。
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2006年08月31日
11:15


先生、お久しぶりです^^。家庭の事情で少しだけ忙しくなっていますが、元気にしています。先生もお元気ですか?

いつも明解なお答えを下さってありがとうございます。自分で考える教育が為されないのには、長い歴史があるのですね。驚きました。自分で考えていく民知運動はこれからますます必要になってきそうです。それに、やはり今は不安の時代なんですね。なるほど、そうだったのかと思いました。

たまには自分の意見でも言えるといいんですけど^^;、いつも質問ばかりですいません。ありがとうございました。


 (写真は、白樺教育館・屋上)









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実存として生きる社会人=「響存」

2006-08-25 | メール・往復書簡

以下は、
私のブログー「全身で打ち込んで楽しむことの深さ」(白樺ML公開 )に対する『ミクシィブログ』内「コメント 」です
(写真は白樺教育館)

2006年08月24日 00:09
hiromin

本当に、子どもみたいですよねー!
これ、悪い意味じゃありません もちろん
言葉よりも実体験から、、か・・・そうか!
「愉しい哲学の会」で花嶋さんが「チャレンジだ!!」って言った時に私の中に心地よく、とことん前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきたのをこの日記みてあらためて思いました
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006年08月24日 08:31
タケセン

hirominさん、
ある言葉が人を前向きにさせれば、それは生きた意味ある言葉です。閉じた死んだ言葉ではなく。「前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきた」(H)-とっても素敵なことですね。

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2006年08月24日 04:06


深い(ということは浅いもあり。)って、だれが決めるのでしょう。どうしてそれが「深い」になるんでしょう。「心身全体で考える」ということが成立しているかどうかはだれが決めるのでしょう。常に「まだまだ」なのではないのでしょうか。それが「持続する」、「生きる」ということではないでしょうか。「はじめに言葉ありき。」は半分正しく、半分「事実に反する」のでは?「言葉転がし」も言葉、「濃密な意味」も言葉。「心身に届く深い満足」は本人にしかわからないことではありませんか。
―――――――――――――――――――――――――――――
2006年08月24日 08:41
タケセン

Mさん、
「本人にしか分からないことではありませんか」(M)
ーそうですね。人間は誰でも自分の頭の外には出られませんから、原理(認識論)的に言えば、「自己納得」しかありません。ただし、考え・試し・確かめることでつくられていく自己納得の世界が、他者にも「なるほど」と了解されるものに鍛えていくことはできます。そのためには、生きた言葉による率直な対話が必要不可欠です。
そういう開かれた心身が、人生に豊かなエロース、関係性の深まり・拡がりをもたらすのだと思います。
自閉ではなく、集団同調でもない、実存として生きる社会人=「響存」でありたいですね。

(※「響存」とは、鈴木亨氏の言葉です。)

武田康弘




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やりたい放題ー法に違す為政者ー「公共哲学ML」公開

2006-07-15 | メール・往復書簡

以下は、この下のブログに対するコメントです。


武田さま

このイラク派兵は、憲法はおろか、自衛隊法にもイラク特措法
にも、違反しているのは明らかです。陸自の「復興支援」とい
う大義名分は、はじめからカモフラージュで、空自の拡大とと
もに、アメリカの侵略の愚かで、醜悪な同伴者になっていくこ
とでしょう。
 問題なのは、こうした小泉らのクーデターに対し、一人とし
て自衛隊員から契約違反であると告訴する者も出ず、この異常
な対米追随に怒る右翼もおらず、新聞は、「法」の蹂躙を告発
することもなく、イラク派兵が、現地の人に喜ばれたなどとセ
ンチメンタルなことを書きたて、司法は逃げ惑い、多数決原理
まで持ち出し、立憲主義を崩壊させ、衆生は、知ったことかと
無関心を決め込み、これで9条が、改正されれば、末人の集大
成です。このシステムが、延々と続いていくはずはないはない
、と無知なぼくには、どうしても思われるのですが・・・。
武田さんの一文に刺激されての感想です。

久松

===============================
久松様。
武田です。

法に則って仕事をする責務がある公務員が、法を恣意的に解釈し、明らかに法に違す行為を白昼堂々と行う「法治国家」とは、何なのか?
それに対する人民のレジスタンスー「一人ひとりの抵抗力」がこれほど弱い国は、他に例をみないでしょう。
私が考える「主観消去の詐術」を真に理解し了解する人があまりに少なく、反対勢力までも権威主義に行きつくしかない「客観主義」の想念に頭の芯が呪縛されています。
ここからの脱出は容易ではありません。ふつうの多くの人が「民知」による深い精神の自立を獲得することが必須だと私は確信しています。
久松さん、共感と励ましのメールをどうもありがとうございます。感謝です。

================================

そうなんです。まったく武田さん、久松さんに共感するのですが、新聞
にもテレビにもそのような論調はなく、北朝鮮脅威の一点張り。この国
にはまともな政治家やジャーナリストがいないのか、どうしてこの小泉
クーデターに右翼も市民も怒らないんだ、と不思議でなりません(森住
卓さんの東京新聞の記事はよかったです)。一市民としてできることは
やり続けよう、とは思いつつも、私のブログに殺到している「北朝鮮が
そんなに好きなら家族揃って移住したら」(私が北朝鮮の軍事演習にな
んでそんなに騒ぐのか、と書いたことに対して)論には辟易しています。
ブログ http://kikuchiyumi.blogspot.com

きくちゆみ

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久松さんやきくちさんのまっとうな判断に対して、
今朝の東京新聞での
「拓殖大学」森本 敏(65歳)の自衛隊を海外に送る恒久法の整備を!という主張は、本質的に愚かで危険です。私は、「公共的怒り」を覚えます。

武田康弘

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靖国神社の思想は日本人にも到底受け入れられない

2006-04-11 | メール・往復書簡

明治政府が官軍の戦死者だけをまつるためにつくった神社が靖国神社です。敵味方を区別し、しかも戦死者を国家の神にするという「靖国思想」は、わが国の長い神社の伝統を真っ向から否定するものです。
今なお、なぜ、明治政府作成の特異なイデオロギーの下に戦没者をまつっておくのか?全く意味不明です。
日本の伝統を重んじる右派がなぜ「靖国神社」を批判しないのか?とても不思議な話です。
民主制社会を肯定する健全なふつうの日本人は、靖国思想を否定するはずです。
中国や韓国が言うから、ではなく、私たち自身の意思として、早急に公立の慰霊施設をつくらなければいけません。これはあまりに当然の話で、議論の余地はないはずです。

靖国神社の主張については、ここをクリックすれば出ます。
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コメント コメントを書く

2006年04月10日
21:54
Aです。

なるほど。今度遊就館を見学して来ます。
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2006年04月10日
23:02
 Bです。
突然の書き込み失礼します。
宗教の自由から考えると靖国思想は何も問題はないですよね。
また、神社と申されましても神社には様々あり、「神社の伝統≠敵味方を区別しない」であります故、官軍の戦没者を神とする靖国神社を否定する事は護国神社全てを否定することになり、ひいては宗教の自由を否定することと繋がります。
それに、靖国神社の思想は靖国神社で完結してあり、靖国思想を周りの神社に強要するならともかく、ただ1神社として存在する以上、その思想を否定するのは思想の自由に反してしまいます。
自由主義社会を肯定するのならば(独裁国家を否定するのならば)靖国神社の存在を良しとしなければいけません。

突然の書き込み失礼致しました。
===================================

2006年04月11日
00:27
Cです。

>明治政府作成のの特異なイデオロギーの下に

まったく賛成です。
もともと近代国家の一施設だったものが、戦後、民間宗教法人になってしまったところに捻れがあるように思います。
しかし、国民多数に神社として認識されてしまってる現状では、なんらかの政治的配慮によって(それがどんな形になるにせよ)解決方法を見つけ出さざるを得ないのかもしれませんね。
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2006年04月11日
09:32
タケセン

確かに、靖国神社は、敗戦後、一宗教法人にすぎなくまりました。
そうであるのに、一宗教法人にすぎない神社が、兵士の全員を有無を言わせず(戦死者の宗教も、遺族の意思もなく)まつることは、明らかに論理矛盾です。
あの戦争に対して反対の考えをもつ人も含めて、時の政府が天皇の命令だ、として戦地に強制動員した戦争犠牲者たちの鎮魂施設をつくること、
その鎮魂施設では、非戦闘員を含む全犠牲者の魂を平等に鎮めること、論理的にはこれ以外の選択肢はないのです。日本政府が、彼ら死者に対して、これからは、日本人を二度と海外へ戦争に赴かせることはしない、ほんとうに申し訳なかった、という深い反省を込めた謝罪をしなければ、洗脳教育を受け、戦争に駆り出された多くの若者の魂が真に鎮まることはないのです。幼少のころから「お上」の意思で特定思想を植えつけられ、戦争に行くのが立派なことだと信じ込まされた真に哀れな若者たちの霊に、私は言語を絶する悲哀を感じ続けてきました。激しい慟哭なくして彼らのことを想うことはできません。
全戦没者をまつる公立の鎮魂施設をつくる=あなたたちの尊い犠牲の上に、わが日本は、「戦争放棄」を国是とする世界に冠たる国家になりました、どうか安らかに眠って下さい、という宣言を内外に向けて誇り高く宣言する以上の鎮魂はありません。右翼も左翼もないのです。世界平和の大胆な創造ために、みなが声を一つにしなければならないのです。

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2006年04月11日
13:36
Dです。

「アジア侵略者の旧日本軍兵士が”合祀”されている公立慰霊施設で慰霊の儀式をすることは戦争賛美+侵略の意図をなお持つ証明である」って言われるだけと思いますが?
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2006年04月11日
14:25
タケセン

そうだからこそ、民主制ー市民自治の徹底した国家としての日本をつくり、全・戦争犠牲者をひとしく鎮魂する他には方法がないのです。
ドイツの試みが国際社会=第二次大戦の敵対国(連合国)にも高く評価されていることで証明されるように、具体的な反省の言動のみならず、象徴的意味をもつ施設の建造は、何よりも大切なことなのです。
ーーーーーーーーーーーーー
A級戦犯が合祀されているから「靖国」が問題なのではありません。
もっと深く本質的な問題なのです。小沢一郎のこの問題での発言は、浅いですね。




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皇室の存在が「公」をつくる?ーへのコメント返し(ブログ・ミクシィ内)

2006-03-31 | メール・往復書簡

タケセンさんへ。

Hです。

引用で申し訳ないのですが
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人間は一種の動物だから、きちんと教育をしないと、人間らしく育たない。犬猫とそう変わらない状態になってしまう。しつけが大切なのは、子供が大きくなって社会に出ていったときに、社会のルールや仕組みにちゃんと適応して生活ができ、社会に役に立つ人間になれるようにすることにある。つまりしつけとは、家庭で行う「公の教育」なのだ。
 個と公ということでは、公は「おおやけ」ともいい、「おおやけ」という言葉には、「朝廷」つまり皇室という意味があった。皇室は、日本における公共性の中心とされてきたわけだ。皇室の存在が見失われると、「おおやけ」つまり公が忘れられるのだ。
 教育勅語は、明治天皇の御言葉だが、決して天皇の個人的な創作ではない。わが国に長くずっと伝わってきた伝統を、言葉に表したものであって、日本人が古来ずっと持ち続けてきた伝統的な精神、この国の素晴らしさ、美しさを集約して表しているものだ。
 教育勅語は戦前、家庭教育における指針ともなっていた。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し」とあるように、親を大切にし、兄弟姉妹が助け合い、夫婦が調和を持って、円満な家庭に努めて来た。ところが戦後、教育勅語が失われた。家庭における教育の基準、規範が無くなった。家庭での「公の教育」も、なされなくなってきたのだ。
 私たちはもう一度失われたものを学び直し、取り戻していくべきだ。今日からでも実行できる。自分の家庭また私たちの社会そしてこの国を立て直すことは可能だと思う。
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とても感銘を受けたのですが、どうでしょうか
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2006年03月31日
21:05

タケセンです。

私は、いま春休み中ですので、時間に余裕があります「嬉」。

公民=社会人になる努力は、何より大切。
ただそれを「『朝廷』つまり皇室」の存在に負わせるという思想は、現代社会においては、全く普遍性を持ちません。個人として「皇室」を敬愛・尊重するのは自由ですが、それを社会的ー国家的指導原理にはできません。特定のイデオロギーや宗教を全国民に強要することになり、現代民主制の原則を覆すことになるからです。
ここで確認しなければならないポイントは、「個人の思想・心情」という次元と「社会制度上の約束事や共通倫理」との次元の相違をしっかりとわきまえることです。
公民=市民とは何かについては、私は以下のように考える以外にはない(思想信条を異にする多くのふつうの人々の共通了解を得るために)と考えています。

 市民=公民=シチズンとは?

 市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。
ここで注意しなくてはいけないのは、「公民=社会人」と、「国民」とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
市民=公民=社会人とは、自分は社会の中での受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一人の人間だ、という自覚をもっている人のことです。
繰り返します。市民とは、「国民」ではなく「公民」のことです。
公(おおやけ)とは、自分が生きている「場」のことは自分たちで考え、決定していくという「自由と責任」によってつくられるものです。
その地域で、その国で生活している様々に異なる人々(ピープルであって、「国民」ではありません)がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を考えることが、公(おおやけ)であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。(官―役所が「公」なのではありません。官とは「市民」生活を下支えするサービス機関です。)

それ以上の各人の心の思いは、それとして大切にしなければなりませんが、社会人としての共通倫理にそれ以上を求めてはならないのです。これは人類の「殺し合いや他者抑圧の歴史」を改善する思想の原理です。

武田康弘






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「民知」についての雑談 1と2 白樺ML公開

2006-03-20 | メール・往復書簡

下は「白樺ML」メール公開です。

2006.3.19 19:42

「民知」についての放談です。

ざっくりと深く抉る。
精緻ではなく、強靭に。
部分の正しではなく、全体の見通しを示す。
細かな規則や道徳ではなく、人間力ー根源的な生命力をつくる。
日本人の好きな「管理・マジメ・型はまり」を元から粉砕し、自由闊達ー丁々発止ー全身で生きる、を実行する。

☆断固として、愚直に、囚われなく生きる人間になるためのサロンーそれが「民知の会」です。
自由でなければ人間じゃない!
小粒でつまらない人たちの集合=日本というエロースのない社会を元からチェンジする営みは最高に面白い!!とタケセンは思っています。
みなさんもタケセンにつづきバカでダイナミックで外的な価値など糞食らえ(おっと、失礼)内的な真実につくーそれゆえに誰にも負けない人間になってほしいと熱望します。無理?無理にとは言いませんーごめんなさい(笑)。

武田康弘
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「放談」の2です。 2006.3.20 10:57

みなさんの意見・感想などざっくばらんに聞かせて下さい。
書き言葉でも・話し言葉でも・行動でも、何もアクションなし、では古い日本人丸出しで、お話になりませんものね~。
民知とは、制度知が偉いという宗教を元から打ち破るおそろしい!?恋知(哲学)に支えられて花咲く「物事の知り方ー生き方」のことで、従来の常識に知らずに染まっているふつうの多くの「民」と「私」を叱責し同時に解放する有益な「思想」を指すことばです。学的世界に自閉する専門バカも解放したいのですが、それは「民」に促されてようやく、というところでしょう。
さあ、さあ、お立会。話ことばで、、書き言葉で、行動で、ご参加あれ。ただし、かっこつけるのはなしですよ(どうころんでも私を含めてみんな無知なのですから、今も昔も無知の自覚が大切ですね~)。主体的な営み・自分からの行動・能動的な言動は、なんにせよ隙があるのです。隙があるから動くのです。バカだから光輝くのです。非道徳だから人間が生きるのです。「完璧」や「正しい」とは死んだ世界・行き止まり・終わりの世界しかつくりません。
私のありのままを示すところからしか「動き」は起こらないですよねーなんにせよ「参加」ですね!
出会い・アンガジュマン・呼びかけの心が基本です。
では、また。

武田康弘

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国?国側?についての有益なメール交換ー専門知と全体知

2006-03-13 | メール・往復書簡

以下は、3月9日のブログに対するメールですが、大変有益なものです。

武田様

Aです。(Aさんは、法案作成の専門家)

以下の条文の例でわかるように、訴訟当事者としては「国又は地方公共団体」なのです。ですから、訴訟に関する新聞報道等で、国側勝訴・敗訴という言い方をしているのは、正しいと思います。
ただし、これは法律の議論の場合の話です。
私は、特に官僚が何事につけても「国としては、国としての立場は、・・・・」と発言するのは、頭が法律論に毒されているからではないか、と考えています。
議論の仕方、言葉の使い方も、時と場合を考えてすべきですが、無意識のうちに、
天皇制→官僚制→東大法学部→法律偏重思考になっているのではないかと思います。

○行政事件訴訟法
(被告適格等)
第十一条 処分又は裁決をした行政庁(処分又は裁決があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁。以下同じ。)が国又は公共団体に所属する場合には、取消訴訟は、次の各号に掲げる訴えの区分に応じてそれぞれ当該各号に定める者を被告として提起しなければならない。
一 処分の取消しの訴え 当該処分をした行政庁の所属する国又は公共団体
二 裁決の取消しの訴え 当該裁決をした行政庁の所属する国又は公共団体
○国家賠償法
第一条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

――――――――――――――――――――――――――――――――

武田です。

Aさんのご指摘、分かりました。ありがとうございます。

ここには、部分的な(法律論)知と、民知という全体知の違いが示されていて面白いと
思います。

私は、現在の法律の用語法がおかしいと思っています。
「国」という概念をあいまいにして使用するのは、無意識の意識として「国」イコール「官僚組織を基盤とした政府」という暗黙のイデオロギーに呪縛されているためでしょう。
明治政府の山県有朋が中心となってつくった日本的国家主義=国体思想を用語法にまで遡って清算するのはなかなかやっかいな仕事です。

これは、「国体」という想念を基盤として思考するところから自ずと出てくる用語法で、「政治体制 と 風土や言語 と 故郷」を混合させてしまう詐術です。それによって、各省庁や政府を批判することは「非国民」-「アカ」-「サヨク」(危険分子)というレッテル貼りが可能となり、個人の考え=主観は主観になる前に消去されるというわけです。

ともあれ、よいご指摘ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まとめです。

上記は、専門知(部分知)と 民知(全体知)の違いがわかる大変よい実例です。

全体知である民知という視点、言い方を変えれば、本質論ないしは意味論として捉えれば明らかにおかしい、
しかし、専門知という部分合理性の視点からは「正しい」、
という例の一つの見本がここに示されています。

結論を言えば、民知という全体知(本質論、意味論)に逆らった専門知(部分合理性)とは、無価値な「学」でしかありません。なぜなら、部分としての精緻な知=専門知(この場合は法学)とは、全体知に奉仕することにその存在理由があるからです。言うまでもなく、人間がよく生きるために役立つ知でなければ、知は意味を持ちませんね。これは「知」や「学」の原理なのですが、日本の近・現代史が、制度としての学知を民衆支配の道具にしてきたために、なかなか皆が自覚できずにいることです。 「民知・恋知と公共哲学」をぜひご覧下さい。

武田康弘



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荒川静香・イナバウアー (メール公開)

2006-03-01 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML と 白樺ML内のメールです。

February 24, 2006
アジアン・ビューティー荒川静香が金メダルを取るまでに、日本が歩んだ道 (川西玲子)


 荒川静香選手が日本女性で初めて、というよりアジア女性で初めて逆転の金メダルを取りました。何より嬉しかったのは、彼女が実に美しかったこと。まさにアジアン・ビューティーです。

私の記憶に残る最初の冬季五輪は、グルノーブル。以来フィギュアに魅せられてずっと観続けてきましたが、日本人選手はいつも、出てきた瞬間に目を覆いたくなるほど見劣りがしたものです。

しかし、荒川静香はもちろん、村主章枝も安藤美姫も美しく、それぞれに魅力的でした。感無量です。ここまで来るには、様々な出来事がありましたから。

私がフィギュアに目覚めたグルノーブル・オリンピックの頃。日本は高度経済成長の真っ最中でした。今の中国のように、年率10%近くの経済成長を続けていた怒濤のような時代です。みるみる豊かになって、日本人はどんどん世界の舞台に出て行きました。

そしてトラブルがたくさん起きました。ホテルの廊下をパジャマで歩く、どこにでもインスタント味噌汁を持っていって飲む。その行為は笑われ、がつがつ働いてばかりいるエコノミック・アニマル、センスの悪い成金と馬鹿にされたものです。

一方で日本人は白人の美へ強い憧れを持ち、体型の違いも忘れてひたすら真似をし続けました。お金持ちになって、「気分はもう白人」でしたから。でも、端から観るとしょせんはバナナ・・・つまり黄色い白人でしかなかったのです。

日本人は・・・アジアの人間は、ずっとこうして白人の後を追いかけ続けるのか。私は複雑な心境でした。結局コンプレックスなんですよね・・・。観ている私たちにもそういうものがあったのでしょう。経済大国になってもノーベル賞を取っても、美しさでは白人にかなわない。最後の勝負は美しさですから。

でも今回出場した三選手に、そういう屈折したものは皆無でした。観ている私たちにも、そういう気持ちはもうありません。それが私には感無量だったのです。スポーツはここまで来たかと。願わくば政治家も、低次元のナショナリズムなどに囚われず、外見も中身も成熟社会にふさわしい美を追求してもらいたいものです。

栄養状態が良くなり生活にも気持ちもゆとりができ、むやみな競争を止め、人生を楽しみ、自分の生き方に自信を持つ。美しさはそこから生まれてきます。かくして、観衆を魅了するアジアン・ビューティーが誕生しました。後は男性がどこまで美しくなるか(笑)。

それと私が期待していたパンツルックですが、かなり増えましたね。スルツカヤはSPでパンツルックを使用しました。いつかパンツルックの選手が金メダルを取るでしょう。

それと、私はグルジアの16才の選手が気に入りました。ふだんあまり見る機会のない不思議で魅力的な顔と衣裳、そして音楽がすごく新鮮だった。改めて「美の多様性」に感動しました。美は多様だからこそ素晴らしいのです。 「比類なき唯一の美」とか何とか言い出したら危ない。 by R・K

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February 25, 2006 9:56 AM 武田です。

得点に加算されないことになり、点数としては無価値のイナバウアー(弓を描き後ろにおおきく反りながら滑る)をあえて復活させた荒川静香の自分を貫く凛とした心に深く感動しました。
日本人だからではなく、見事に自分性を貫き開花させたひとりの人間として熱い共感を持ちます。

国籍の別も、男女の別もありません。
ただ、よきもの・美しきものへの感動だけがあるのです。

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February 25, 2006 2:05 PM 古林です。

武田さんのMLに触発されて。

フィギュア・スケートは美しいとは思っていましたが、これまでその採点の不透明さと偏りに
あまり関心を持たなかった私が偶然、荒川静香のSPを見てとても気になりました。
何だ、これは!
うまいとかきれいという次元とは異なるものを感じたのです。
インタビューでは、自分自身を表現してみたい、楽しみたい、という言葉が出てきました。
多くの選手がその重圧から逃げるように、そうした言葉を発するのと違って、荒川静香は
本当に心の奥底からそう願っているようでした。
(あとで知ったことですが、いろいろ悩み、迷った末の確たる決断だったようです。)
金を取った今、『無欲の勝利だ。』とたたえられていますが、そうではないでしょう。
『率直に自分自身を表現してみたい。』というその願いは、『金メダルが欲しい。』という
世俗的な欲望よりもはるかに貪欲で純粋なものだということでしょう。
イナバウアーはその象徴でもあります。
これは誰も太刀打ちできないんじゃないか、とそのとき感じました。
フリー演技当日の朝、インターネットを開くと、
『荒川、金!』の大見出し。
やっぱりそうか。
録画の演技を見ていてゾクッとするような感覚にとらわれました。
多くの(外国の)観客が総立ちになって拍手していたわけがテレビを見る者にも伝わってきます。
内面から湧き上がってくるような凛としたすがすがしい美しさと強さは何ともいいようのない
感動を与えてくれます。
久しぶりに浪花節でないスポーツの感動場面でありました。
『金』とか『メダル』はたまた『日本人』のことばかり騒ぎ立てるマスメディアにはいい加減うんざりします。
もっとましな、冷静でいながら感動を劇的に伝える内容の記事を一つ紹介します。

 「調和と勝利の神が手を結んだパラヴェーラが、日本語を話す東洋の女神を生んだ。
アラカワの演技は、優雅であり情熱的だった。すらりと背が高く、エレガントで、まるで
日本の丹頂鶴のようであった。光沢ある生地で作られた空色とロイヤルブルーの
コスチュームは、優美でありシンプルだった。シズカは素晴らしいジャンプも持っている。
その演技は魅惑的で、クオリティーも極めて高い。観衆はドガの絵画の中に身をおいて
いた。彼女は完璧な世界に手を触れた」。
クラウディオ・グレゴリ ガゼッタ・デロ・スポルト紙(イタリア)

さて、荒川静香、帰国してからはメディアから大騒ぎされて大変な日々が続くことでしょう。
自分を見失わずにいて欲しいと願うばかりです。
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February 26, 2006 12:21 PM宮内です

古林さんの感想に触発され、私も感想を述べさせていただきたいと存じます。

演技が終盤にさしかかったころから笑顔がこぼれ(内面から滲み出て)
最後のポーズをとった瞬間のあの解き放たれたような神々しい表情。
彼女(サポートスタッフも含む)の努力に対する最高の結果が出て、本当に良かったと感じました。
家内と、心技体とはまさにこのことだねと述べ合いましたが、厳しい競技でのこの結果は、
まさに奇跡的な最高の結果だったと思います。
その結果を導いたのは、荒川静香のメンタルコントロールこそが一番神に近かったのではないか
という印象を持ちました。
『無欲の勝利だ』ではなく、「無心の勝利だ」であったのではないでしょうか。
その証拠に、金メダルを告げられた時の、彼女の表情。純粋に、えっという驚きの表情。
欲しい、欲しいと思っていた者が出す表情ではありませんでした。
もしかすると、競技後、ほぼ自分の力を出し切った充足感に満たされ、
ランキングに対する関心は頭の中にまったくなかったのかも知れません。

私は pure の力をまざまざと見せつけられた瞬間であったと思います。

また 偶然出会うのでは無く、地球上の全員が見つめる中で表現された、
奇跡的な瞬間を目撃出来たよいうことだと考えます。
ミューズが彼女のからだと精神を借りて、我々に示した瞬間だったのでしょう。

古林さんがお感じになった 次元の違い、
ガゼッタ・デロ・スポルトが報道した完璧な世界に手を触れた
というのを私なりに、上記のように感じました。
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February 26, 2006 5:29 PM武田です。

話がいろいろ発展して面白いです。

結果がでたから素晴らしい!のではなく、何より姿勢ー生き方がよいですね。
真っ直ぐに「主観性」を深め、魅力あるものとするブレない人間性に賞賛を送りたいと思います。
スポーツは見よいですが、右顧左眄(うこさべん)しない人生は、どのような人生でもひとしく「善美」です。
「日常」こそがかけがえのない世界です。荒川静香の場合は、たまたまオリンピックという国際イベントだから、皆が見たわけですが、私はそのことに主要な価値を感じるわけではありません。
自分を真っ直ぐに見つめ、外的価値に依らず、意味充実の生をおくる日常こそが「至高の価値」だと思います。

武田康弘



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「超越」へのコメントー茨木のり子さんの詩「倚りかからず」(25日増補)

2006-02-24 | メール・往復書簡

昨日のこの下のブログに対するメールです。
私も、茨木のり子さんの詩に深く共感します。楊原さま、ありがとございました。


武田様

ありがとうございました。
頂いたメールを拝見しながら、先日亡くなった詩人茨木のり子さんの
「倚りかからず」という詩を思い出しました。


もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
もはや
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


カッと目と耳を開いて、しっかり学び、自分の良心、価値観を常に向上させる
努力を続けながら、どんなことがあっても、背筋を伸ばして、死ぬ日までを
真直ぐに生きたいと思います。
楊原

文学言語のもつ力をまざまざと感じさせる見事な詩だと思いました。まだ数日前・2月19日に誰も知らずに亡くなっていた茨木のり子さん(茨木さんらしい見事な死でした)の有名な詩に「私が一番きれいだった時」があります。実は、この詩による一曲を2002年「白樺教育館」のオープン記念に棚兼子さんの高弟ー相川マチさんが我孫子市「アビスタ」でその演奏会の最後に歌いました。駆けつけていた兼子さんのただひとりの内弟子で極めて厳しい批評をする大島久子さん(クリック)も、ただ一曲彼女の歌に絶賛をおしまなかったのが「私が一番きれいだった時」でした。不思議な因縁を感じます。

武田康弘



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「不良」になる努力!?を始める。徹底的に「バカ」になるぞ!-コメントです。

2006-02-17 | メール・往復書簡


以下は、この下のブログに対するコメントです。(ミクシィ内)

ナルケッケ

上司(命令をする)→部下(命令に従う)

今の社会はこの関係が当たり前になってるんですよね・・。
「年上や位の高い人には敬意を払い、尊重し従う。」それがイイ事であると小学生から・・もっと前から聞かされてきた俺は最近まで当たり前のことと思っていました。
言われたことを素直に聞くのは善人、言うことを聞かないで逆らうのは悪人(不良とか)って勝手に善悪を決めて。
今思えば、不良って呼ばれてた人たちはタケセンが言う「型の世界」からの脱却をしようとしていたのかな?w

もし、上司⇔部下(互いに意見し、助け合う)という関係ができればお互いに気兼ねなしに馬鹿なこと言ってられる楽しい職場になるでしょうね。

時間かかると思うけど、おれも「型の世界」から脱却して不良になりたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヌルハチ

僕は「型」には、勉強にせよ運動にせよそれなりの価値を置いております。ですが、それを生徒に使わせるのではなく、生徒をそれにはめようとするのは間違いですし、塾講師としては僕は半ばこれをやりかけておりました。

 一方的にではなく双方向的に、型よりも前に愛と笑いが飛び交う授業を目指します。

 そのためにはまずは、私は徹底的な馬鹿になることを宣言いたします!!

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2006年02月16日
23:11
タケセン

それぞれよく考えて自分の言葉で書いてくれて、ありがとう。
双方向を可能にするための条件は、イマジネーションの力です。段々と心を通わせる力を養うことー表層的な誤魔化しの交流を超えて、深く豊かな交歓は、自己の赤裸々な姿ー「欲望」(人間の存在原理としての「欲望」)を知り、それを深く肯定できるまでに心と頭を鍛えることですね。

武田康弘



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戦争ゴッコー男の子の成長(メール対話)

2006-02-12 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML内でのメール対話です


武田です。
久松さんらの努力に感謝します。

小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!笑)、自衛隊は、大規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃された場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に思っています。

そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。幼稚でしょうかね?

いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、「頭がおかしい」としか私には思えません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

武田さん、まったく同感。きくちゆみ

On Feb 7, 2006, at 8:58 AM, 白樺教育館ー武田康弘 wrote:

> 武田です。
> 久松さんらの努力に感謝します。
>
> 小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!)、自衛隊は、大
> 規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃さ
> れた場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番
> 現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に
> 思っています。
>
> そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕
> 事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。
> 幼稚でしょうかね?

いえ、戦争ごっこをやっている方が幼稚ですよ。
男の子と女の子を育てていると、つくづく思うのですが、うちの男の子
(4歳)はやっぱり戦う事や戦闘機などをかっこいいと思い、そ
ういうもので遊びたがり(うちはそういうおもちゃは買ってあげないの
で)、自分で作ったりして、戦争ごっこをします。女の子(5歳)は
まったく興味をしめしません。男の子はいつもいつも「バババーン」と
やっています。

性差なんですかね。それとも個性なのかな。男の子でも違う子もいるで
しょうが。

>
> いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、
> 「頭がおかしい」としか私には思えません。

ねえ。

――――――――――――――――――――――――――――――――
きくちゆみ様。
武田です。

人間は本能で規定されている部分が少ないために、それに変わる第二の本能とでも言うべき「文化」=秩序をつくり、それに従って生きているわけですが、それは必ず制度疲労を起こします。たえず賦活化していかないと、人間の生の実情と合わなくなり、「文化」による自己疎外が起きます。
人間の文化のありよう=型は、壊し、創る作業を不可避のものとして要請してくるというわけです。

男の子が怪獣や最新鋭の機械、強力な破壊兵器に興味を持つのは、破壊と創造=「型」そのものの変更への欲求で、頼もしい能力です。そうでなくっちゃ!

でもそれが成長しないで、止まる(親が止めてしまう)と、社会をよく変えていくための営為=新たな建築・創造へという方向に進歩せずに、単純な力=戦争への潜在的な憧れを抱えもつ大人になるようです。心の成長が止まってしまった結果です。欲求は十分に肯定される(認められる)と階段を昇るようにできていますが、せき止められると、隠れて増殖してしまいますね。

ダイナミックな逆説を必要とするのが人間とくに男(の子)です。男はバガでどうしようもないですが、そのバカゆえに「地上の星」にもなるというわけです。女性でももちろんそういう人はいますが、大雑把に巨視的に見れば、そういう傾向を持つ、というように思えます。

では、また。
メール、ありがとうございました。


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紹介に感謝です。「主観を消去する日本というシステム」他

2006-02-09 | メール・往復書簡

武田の「主観を消去する日本というシステム」(クリック) に対して以下の紹介文が「ソフィオロジー(叡智学)へむけて」に載りました。感謝です。

『 以下は、正鵠を射た洞察である。私が日本社会における桎梏であると考える父権的部族主義・封建的共同体主義を捉えて、的確に日本社会の病巣・患部を指摘し、また、処方箋を説いていると考えられる。多くの日本人に読んでいただきたい。』=「主観を消去する日本というシステム」 武田康弘



また、破れる前に目覚めよ(クリック)にも 「海舌」に以下の紹介文が載りました。これも合わせて感謝です。

『⇒端的で深い内容の記事で何も付け足す必要が無い。』=深く感動的な名社説ー今朝の東京新聞ー破れる前に目覚めよ。ー「思索の日記」





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書き言葉に冷淡なのはなぜ? 活字が生きた現実の軽視を招きませんように。

2006-01-31 | メール・往復書簡

武田 様

 金先生のお話、身に染み入りました。以前、武田先生と[対話と文字(書かれたもの)]についてメールのやりとりをしたことがありました。あの時、対話を重視する必要からなのかしらと思うほど、書くことに冷淡なご意見を見て、違和感を持っていたのですが、金先生の靖国問題に関するお話はスーと身に浸みました。つまり[ 百聞は一見に如かず]、つまり「見」は文字も含むのかもしれないと思いました。でもこういうこともあります。見た目もパーとしないし、話し下手、ところが書いたものを読んではじめてそのひととなりがわかったなんてこと、あります。その人の自己表現はその人にいちばんふさわしいあり方があるのではと思うのです。見た目の好感度高く、書いたもの、話もよくできる、しかし、こういうことをする人とは思わなかったということもありますものね。五感、第六感などということ大切にしたほうがよいということをフィロソフィする必要があるのでしょう。
 ではまた USAKO
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
USAKOさま。
武田です。

私は、たしかに書くことに「冷淡」かもしれません。どうもすみません。ただし、毎日書いています(笑)。
もう少していねいに言えば、書くことで逃げを打つことは許さないぞ!(きつくて失礼)という意味での「冷淡」な姿勢です。
この社会が、日々の生きた生々しい具体的経験を軽んじ、「書かれたもの」に権威を与えていることは事実だと思います。その中で、全身で感じる力が鋭く強くても、文字的思考や表現を得意としない、または嫌う人の声は不当に低く評価されてしまいます。書き言葉を、いまの生きた現実よりも上に置くという価値意識があるとすれば、不健全だな、不幸だな~、と私は思っているわけです。書き言葉を権威化させてしまうと生の悦びを押さえてしまい、損だ。悦びを広げるように、上手に書き言葉を利用しようよ!書き言葉を現実の生を助けるよきアイテムになるように、「得」を生み出すように遇するようにしようよ。私は、そう考えているわけです。
書くことを得意とする人、または、書くことでしか自分を表現できない人を尊重しない、というのではありません。今までの社会では「書き言葉が偉い」という価値観が強いために、わざとその「危うさ」を強調している、というに過ぎません。
書き言葉の方が優れている点も多々ある、また書く作業によって思考が明晰になることも確かだと私は考えています。だからこそ皆に「書かせる」授業もし、書くことを奨励してもいるわけです。
私も「思索の日記」をはじめ、いろいろ(頼まれ原稿を含めて)書いている、毎日、メールも書いているわけです。
ただ問題は、書くことで解決したと思い込んだり、またさらに、批判的ないしは弁証法的思考の訓練をして、そういう種類の言い方ー言語使用をすれば、何事かがなし得るという信仰は困ったものだなあ~、かえって納得をつくること、合意や妥当を生み出すことを阻害してしまう。広い意味での「考える」というエロースが消されてしまい、みんなが民知や恋知のよさ=面白さを体験しつつ社会(世界)をつくっていくことにはならない、そう思うのです。
それでは「よい」ことをしようとして、かえって不幸を生みだすことになってしまう。自他のありのままの意識を掬い上げる方法は、試行錯誤で少しづつ互いの納得のもとに絶えず変容させていくもの、そうした臨機応変、当意即妙の自在の精神に支えられてはじめて「人間的なエロースの生」は可能になる。特権者はいない、、おっと、
話がズレてきましたので、このへんでお仕舞いにします。失礼。

いつもよいご指摘をありがとうございます。
------------------------------------------------------------------
武田 様
USAKO

 お忙しいのに、あれだけ書いていただいて、恐縮いたしております。自分のを読んで、舌足らずであったと気がつきました。

 文字(書かれたもの)は、「百聞は一見に如かず」でいうと、「聞」にもなるし、「見」にもなるということを言いたかったのです。文字(書かれたもの)に対する気迫溢れるお言葉(書かれたもの)はよく伝わりましたよ。なにか、私が書いて済ましていると思われているのかなと思ったり
するくらいにネ。

 人が恋をしたとします。そのことを人に話したり、書いたりしても「ゴチソウサマ」と思われるだけの場合があります。しかし、すぐれた文学作品に接したとき、その想いが自分の実感と重なって共有できることがしばしばあります。文学というジャンルには、(書かれたもの)のなかにこのような魅力をもっているものがあります。この(書かれたもの)をそのようにしてしまう力量のようなものをフィロソフィに求めることはむりなのでしょうか。こんなことを考えてしまいます。

 お返事は今後の先生の作品のなかに反映していただければうれしいかぎりです。

 お風邪など召しませんように。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

USAKOさま。
武田です。

具体的にことが進んでいるとき(成果が得られているとき)、そこでの思考―言葉の進展は、なかなか「作品」にはならないですね。恋愛も、関係がうまく進んで愉悦の時間が流れているときには、その有様は「文学作品」にはなりません。終わったあと、挫折した時にはじめて「作品」成立の可能性が出てくる。

作品ならざる作品の新しい世界を開拓する、従来とは異なる異次元の領域を拓くことができれば確かに面白いし、有益だと思います。それは図ってできることではないでしょうが、新しい知や学を生み出す実践の中で、常識を打ち破る作業の中で、もしかしたら思いもよらない文字―活字世界がつくられるかもしれません。そうなったら凄いですね。ワクワク・ドキドキ、ウルトラC、D、E、F、G・・・恋知のエロースが天上より降り来たる!!!!
分かりやすくて、面白くて、カジュアルなのに高品位、親しみいっぱいで、華があり、精緻にしてラフ、優美にして最強、、、、、

どんどん脱線していきそうですので、このへんにしておきます。

では、また。失礼。




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イギリスからのコメントー「主観を消去する日本というシステム」

2006-01-23 | メール・往復書簡

1月11日のブログー「主観を消去する日本というシステム」クリック)を読まれた森下さん(イギリス・ロンドンの大学院で社会学を学んでいる方)からコメントがありましたので、以下に貼り付けます。


1月17日森下

日本では学術論文を書くとき「私は」(I)という主語を使ってはいけないと指導されました。学術論文は客観的なものでなければならないという観点からです。

欧米でももちろん「客観的な真実」という伝統は残っていると思います。でも、社会学の分野に限っていえば、その伝統は既に大きく崩れています。おそらくポストモダンとか(その言葉自体はあまりすきではありませんが)そんなことが影響しているのでしょうが、逆に「私」を前面に出して書くことが奨励されます。学術論文であっても、論文を書いている「私」の存在を無視することは出来ないし、それを前面に面と向かって読者に暴露した方が、下手に隠すよりは親切だし、自分のやっていることへの責任感のあらわれにもなるということです。

博士課程をこちらで始めた当初、ボクも「私」を極力さけながら論文を書いていました。でも、ある時それを指導教官に指摘されました。「自分が論点を引っ張って行くんだし、自分が利用する理論や文献を選択するわけだし、それはきちんと書いておいた方がいいのです」と言われ、なるほどと思いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1月20日武田

ロンドンからの貴重な生証言!、どうもありがとうございます。
たいへん参考なり、感謝しています。
これからもこのような話をぜひお聞かせ下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「主観」を消去する詐術、それが「人間を幸福にしないシステム」をつくっている深因だと思います。
よろしければ再読してみて下さい。クリック


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