思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

主観、客観論争ー第2弾です。今本(哲学者)・武田(恋知者・教育者)・平野(ホリスティック教育)

2006-01-09 | メール・往復書簡

この下のブログの続きです。
(公共哲学ML内でのメール対話)


武田 様
今本秀爾@哲学者です。
以下、現象学的意味論を前提として書かれていることを承知のうえで、若干コメントさせていただきます。

「 論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。」(武田)

以上は拙著でカントを引用し、「分析的判断」に対する「総合的判断」能力と対応させてみたものです。
日本の国家官僚やエリート学者は「分析的判断」は優秀ですが、「総合的判断」は大の苦手のようです。

「概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。」(武田)

まさに「直観なき概念は空虚」ということですね。

「こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。」(武田)

ホリスティック教育(あるいは全人教育)という分野があり、一部で流行しているようですが、それとの関連性はどうなのでしょうか?
また最近「体験学習」という言葉もよく耳にしますが、それと「民知」の相違点があればお聞かせください。

「思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。」(武田)

以上も拙論に引用した、重要な指摘です。
ハウツー本が書店の新刊コーナーに氾濫する昨今、「How?」ではなく「What?」への問いが忘れられつつあります。
自然ー社会科学的思考はHow を問うだけで満足しますが、哲学的(形而上学的)思考では What の問いこそが基本です。
××評論家にせよ、御用学者にせよ、昨今の論壇はソフィストたちばかりなのでしょう。

ちなみに私は大学学部時代より、ヤスパースという哲学者の書いた書物の現代的意義を究めようとしてきた者ですが、教育論の文脈において、こうしたディアレクティケーによる「ソクラテス的教育」という方法論を最初に提唱したのは彼であったように聞いています。(『教育の哲学的省察』以文社、1983年)

―――――――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

はじめに、
私の立場についてちょっと説明します。
若いころ私は、サルトルやメルロ・ポンティーの訳者で哲学者の竹内芳郎氏に師事していました(一番弟子といってもよいでしょう)。
しかし、私ははじめから研究者になる意思はなく、思索の実践者として生きてきました。
大学という閉じたフィールドで思索する?とは、私にとっては無意味なことです。
音楽を比喩とすれば、私は作曲家であり、音楽学者や批評家ではないのです。
したがって、考えることは、実践的な課題・問題(思考対象や内容がどんなに抽象度の高いものであれ)についてであり、しかもそれは、いつも実践・行動と織り合わされています。

ご質問にお答えしますが、
民知とは、生活の中の具体的経験に照らして、意味としてつかむ知のことです。
ホリスティック教育については、その実態を私は知りません(京都の平野さんが取り組まれているとのことです)。
体験は、学習の原理的な基盤であり、ほんらい全ての学習は体験に基づかなければならないはずです。

「ディアレクティケーによる『ソクラテス的教育』という方法論を最初に提唱したのはヤスパース」、ということは知りませんでした。

また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています。
また、ゆっくり語ります。

では、今晩はこのへんで。
―――――――――――――――――――――――――――――

武田さん、今本さん、みなさん 平野慶次@京都です。

 ホリステッィク教育の日本での普及の推進者の一人ですが、全人教育というと少し
誤解があると思っています。

 武田さんの言う「民知」もいわば、知の全体性に及ぶと感じているのですが、全人
教育と言うのは、歴史的な経緯で特殊なカテゴリーを形成してきたと思っています。


 本来の全人教育と言う言葉から発すれば、正にホリスティック教育だと思いますが、
教育哲学の歴史から言えば違うと言わざるを得ません。

 未だ出版されていない本ですが、「モンテッソーリ教育小辞典」が学苑社から出る
予定ですが、その中に項目執筆させて戴いたのが、ホリスティック教育でした。ご要
望があれば、DMで送らせて戴きます。

 明日は、フィロソフィア京都で盛り上がる予定ですので、あさってには送ることが
できると思っています。

> また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> 。

 この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
武田さん、平野さん、皆様
 
今本秀爾@哲学者(としての立場で語っている)です。

> > また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> > を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> > 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> > 。
> > また、ゆっくり語ります。
>
> この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
> を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
> います。
 
恐らく武田さんの言われる文脈とさほどズレてはいないと思うわけですが、以上は単なる
「主観的真理」を「客観的真理」と偽って主張し、相手に強要しようとする「主観性の暴力」という文脈においてあてはまる批判に相当するだろう、ということです。(=独裁者やカルト教祖などの常套手段)しかもそれらが単なる「主観的真理」にすぎないことを暴くのは、「批判的-客観的」思考です。

一方で、「客観性」という言葉の使用法の歴史としては、吟味も承認もなく「客観的真理」を最初から公然と主張する思想は真の客観的真理ではない、「疑似客観性」である、という言い方が正論だろうということです。
この点では、哲学も諸科学も「客観性」(=検証や実証、承認を経たものという意味)という価値を歴史的に重視(尊重)してきましたから、この概念自体がレトリックではありませんし、ネガティブな印象を持たせるのはよくないでしょう。
たとえば世界平和という普遍的目標においては、普遍的なルールとなりうる国際法や条約、ないしはその理念が「客観性(普遍妥当性)」にあたります。いわば客観性に到達することは私たちの目標であり、それを成立させるための基礎条件だからです。

また個人の発話レベルでも、思うに任せた「主観的な発言」と他者を意識した「客観的な発言」とは区別可能でしょう。「客観性」とはこの場合、極力自分の主観を相対化し、最大公約数的な真理を求めて述べようとした発言内容ないしはその発言姿勢をさすわけです。これは発言内容が中立的観点を踏まえた自己批判を経たものであるかどうかで区別されます。

たとえば私たちの会話のやりとりが今ぎくしゃくせずに成立していますが、これは互いの話者が「主観性」の領域にとどまらず、自分の主観的信念をいったん括弧でくくり、そこから距離をおいた「客観的志向」に則ってできるだけ中立的に語ろうとする努力(志向)していることの成果だといえます。
これと正反対な態度が、自分自身の思想(思考)をひたすら正当化し、相手にただ共感や同意だけを強要し、いかなる批判や異論をも受け付けようとしない「主観性の暴力」に則った態度です。これが昂じると、他人の人格に対する誹謗中傷や感情論、やがては紛争や戦争にまで発展していくということになります。

そこで現実の世界を変えていくための思想上の核心は、ただの主観ないしは主観性の延長ではなく、(「客観的真理」と区別された)「客観的思考(志向)」ないしは「客観性」という最大公約数的な普遍的・客観的基準を実現できるよう、模索し努力していくという英知であると私は考えます。

これは「主観性(モノローグ的語り)の暴力=イデオロギー」に対する本来の哲学的-対話的思考を意味します。
ディアレクティケーが成立するためには、その話者が自分の思想や発言に対する自己批判・自己省察の仕方、すなわち基礎的な論理学や論理的思考を習得できており、相手の批判を受け入れるキャパシティを備えていることが不可欠の条件となるからです。ソクラテスに「そうすると君の考えは成り立たなくなるね」と言われて、むきになったりカッとなってしまえば、そこでディアレクティケーは成立せず破綻します。
互いがどこまで「理詰め」の思考に耐えられるかが、ディアレクティケー成立の条件です。

伝統的に「理屈」を軽蔑してきた私たち日本人は、相手の感情から意見の中身を「客観的に」汲み取る作業が大の苦手ですが、その結果、主観の数だけ真理があるという価値相対主義が容易に成立し、どんな小さな組織やグループの中においても小競り合いや相手の人格中傷を起こし、大きな目標をことごとく見失い、自暴自棄を繰り返してきたのが、日本の(とくに戦後の)市民運動の歴史といえるのではないか、とも私は分析しています。

繰り返しますが、日本社会を改善するうえでの最大のテーマは、伝統的な「主観的相対主義」をいかに克服するか、すべての個人が「合理性」や「客観性」をいかに尊重し、フェアで公正な観点をいかに想像=創造していこうと努力できるか、偏にそのことに掛かっているとみています。
こうした物事の合理性や客観性を尊重する教育はこれまで日本の社会ではまったくなされてきませんでした。
その結果、実際には主観性のかたまりとなったリバタリアン的自由主義観の謳歌と、モラル・ハザード、公衆倫理の喪失、公共性の崩壊・・・・という「主観的相対主義」さながらの世界が闊歩しています。

現実を変えるための社会の改革、民主主義や平和の実現においては、少なくともその主役となるであろう担い手の人々の間には、「理屈」を尊重しようとする姿勢こそが重要=ただしそれが無内容な「ヘ理屈」であってはいけない、という但し書きで=ないしはキーワードだと私は考えており、その正当性は昨今の社会の病理現象をみるにつけ、ますます実証されているという確信すら拭えないものがあります。
そこで、私は最低限、公共の場では自らあえてソクラテス的に発言する・・・・つまり、自分の主観的見解を極力おし殺して、相手との「理詰めの対話」を最優先し、徹底して追求するという営みをあえて実践しているわけです。
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

以上、長くなりましたがこのへんで

――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

私は宗教者ではなく、世俗主義者でもなく、科学主義者でもなく、哲学の学者でもなく、いつも『恋知者』として語っています。

恋知の基本は、己の主観性のありようを深く知り、それを吟味することを通して共通の水脈を見出す努力。論理的に不成立の「客観」という概念を持ち出すと、最も大切な普遍性のある共通了解を生み出す可能性がなくなってしまう。

そう考え・言った方が、差異の尊重に依拠した「活私開公」の公共世界をつくるにはよいのではないでしょうか? 啓蒙や独白や演説ではなく、対話的思考を育成するためには、自他の主観を深めて自由で豊かなものにする努力が必要。

私の主観は「客観」に近い!?というような妄想=客観的真理を信じる主観が最も危険です。どのような考えも「主観」であることを明晰に自覚することが、ディアレクティケー成立の第一条件。そう考えないと議論・対話は生産的にはなりません。

何よりも求められるのは、主観をしっかりと主観にしていく努力。主観を鍛えたら客観になるではなく、エロース豊かな主観になる、そう考えた方が「得」と「徳」が得られるのではないですか?

今本さんの言わんとすることは分かりますし、賛同しますが、あなたの思いを成就させるためには、スタンスを変える、メタバシスさせることが必要だと思います。

よい議論ができて感謝です。



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主観と客観、哲学、教育、民知、、、メールでの思想対話公開ー今本・武田・山脇

2006-01-07 | メール・往復書簡

以下は、昨日まで1月3日から6日にかけて行われた「公共哲学ML」内での思想的なやりとりです。(表記の3名以外は匿名に変えました)。
このブログにも繰り返し出している私・武田の主張=「客観」とは背理であり、「主観性」を深め豊かにするほんらいの「哲学」=「恋知」の営みを核とした「民知」をひろめよう!ーに対しての今本さんの批判から始まった思想対話の全文です。


武田康弘様、皆様へ

MLに参加しております、今本秀爾と申します。

私は元来哲学者ですが、昨日の武田さんの主張とはまったく反対に、
今日ほど客観性が喪失し、主観性ばかりが横行している社会はない、
(その結果あらゆる地球規模での弊害が発生している)、したがって
客観的真理の回復こそが、今日私たちがもっとも努力すべき最大かつ
最重要目標である、という見解に与するものです。
(同様の趣旨で、数年前一冊本を書き下ろしたことがあります)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

参考までに、以前書き下ろした短い概要文を載せます。

客観性喪失の時代

今本 秀爾(哲学者、社会評論家)

21世紀を迎えた今日の世界ほど、これほど「客観性」が軽視され、喪失している時代はない。個人のレベルでは、個人は己の主観的真理ばかりを追求するあまり、他者の主観性はいっさい度外視されて互いの主観に共有化される最大公約数=公共的真理や利益はますます形骸化される。

それぞれ個々の組織も己の利益だけをますます追求し、己の都合にだけあわせた主観的論理を正当化し、己の行動原理ないしはルールとしてすべてに適用させようとし、自分以外の環境すなわち外部環境=「他者性」を無視して我が物顔に振舞う。このような主観性が国家・政府レベルにまで発展する結果、戦争も暴力もまた激化する。

哲学史上では自然科学の発展と中世の教会・宗教的権威からの解法と同時に「近代主観性」ということがテーマになり、主観性の解放(呪縛からの解放)ということが共通のモチーフとなってきた。その後「形而上学」が崩壊した20世紀以降、現代に至っては再びポスト構造主義以降の思想的流れが、形而上学批判とあいまって、あらたな主観性のモチーフを強調し、個人史的体験やポジティブに賞賛しているかのように見える。

だがしかし、この結果、見忘れられてしまい喪失してしまったのは「客観的真理」であり、より普遍的・全体的・公共的な真理を追求しようという、古来からの人類普遍の共通意志(一般意志)である。
ヘーゲルの唱える「客観的精神」、ホルクハイマーのいう「客観的真理」、ポパーのいう「客観性」といった普遍的価値は近代資本主義の高度化と高度産業化によってますます失われ、自らの利益や私欲の成就だけを目的とする技術的・道具的理性による主観的真理の追求ばかりが謳歌するようになった。

この主観的真理は、ときにはあたかも自らが普遍的・客観的真理であるかのように理論武装することにより、他者を排除し、他のあらゆる真理を否定ないしは破壊し、傷つけても当然のごとく横暴に振舞い、かつ自己弁護する。

しかしそれが単なる詭弁であるにすぎないことを看破できるのは、個人によって多様でばらばらな主観的思考や判断力ではなく、最大多数の利益にかなうルールをよしとする論理の客観的思考であり、客観的判断力である。
主観同士の「神々の争い」であるあらゆる戦争や暴力を調停し、仲裁するのも国際法上のルールや法廷の前提を形成する客観的思考であり、公正な裁きや解決手段をもたらす中立的・客観的価値観である。
それがあらゆる教育の場において、また人生のさまざまな労働や学びの場においてますます形骸化され、喪失しているのである。

この主観的真理の横暴は、国家権力や大規模な組織の権力側のみならず、対抗権力となる草の根的な市民運動の担い手側の思考や行動原理にも深く浸透している。つまり熟慮せず、客観的・論理的な思考を尊重せず、権力を敵視し、主観的感情や思いつきのままに行動するという致命的な過ちを犯すことにより、自らが「主観的権力」として自分たちの外部である「他者」を知らず知らずのうちに傷つけ、あるいは無視していることに盲目になるという「主観性の横暴」である。このような主観性は、己自身の立場のみをよしとし、己自身の立場にのみ共感し、もしくは共鳴を寄せる勢力とだけ結びつき、行動を共有化しようとするイデオロギーそのものであり、一種のカルト主義に走りやすくなる。このような主観性のイデオロギーから脱するには、あらゆる個人が客観的思考を学習し、あらゆる事象や考え方を、つねに客観的態度で受け入れるという誠実な姿勢が不可欠である。この個人や組織の客観的態度が成熟した社会ほど、民主主義や多様性、非暴力・平和や公正な社会が実現しやすくなるのは、当然の帰結である。

なぜならば民主主義や平和とは、単なる個人の主観性を超えたメタレベルの公共的価値であり、自分と相容れない異質の多様な価値観といかに共存・共生できるかという課題を解決する方法論だからである。そのためには客観的・普遍的な共通のルールや真理を遵守すべし、という客観的真理基準を立てることが前提条件である。この条件が崩れ、互いの主観性がむき出しになるか、カオス的な放任状態になるや否や、一方の価値観の強制的押しつけや詭弁による説き伏せ、果てには暴力や戦争といった事態が日常横行するようになる。主観性の横暴の結果、力のある者となき者との格差が露骨かつ無秩序的に出され、貧困や飢餓といった不自由な生存状態があらゆる場面で現出しているのが今日の世界の姿である。

日常的な客観的思考の訓練、客観的真理への志向性、客観的真理基準の設定と遵守、これらが今日のボーダレス化した国際社会に生きる私たち現代人ひとりひとりにとって、最大かつ最重要な緊急要件であることは最早疑いようがない。

****************************************
持続可能な社会のための政策ネットワーク
「エコロ・ジャパン」代表 
今本 秀爾 Imamoto Shuji
imashu@kcn.ne.jp
ecolo-japan-owner@yahoogroups.jp
☆エコロ・ジャパンのホームページ
http://lp.jiyu.net/ecolo.htm
★個人ホームページ
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/index.htm
◆ダメな日本社会を斬る! 連載中
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/damejapan02.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

今本さんがここで言われている「客観」とは、「共同主観」のことですか? もしそうならば、全く賛成です。

共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。

私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。

以上、簡単ですが、お答えです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田 様
今本です。

武田さんが、現象学的コンテクストにおいて「主観性」を読み解かれていることをようやく理解できました。

> 「共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。」(武田)

これにはまったく賛成で、異論はありません。
安易に「客観的真理」を持ち出すのは、かつて「自分の主張が定説」と述べていたカルト教祖と同様、詭弁(ないしはドグマ的思考)そのものであり、哲学的思考がもっとも批判の対象とするものです。

>「 私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。」(武田)

ちくま新書のほうは昔読んだ記憶があります。
以上、ご回答ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

お返事、了解しました。

私は、
ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。

客観主義に陥らず、理論を先立てずに、共同主観=普遍了解性をつくり出すためには、おそろしく地道で深く厳しい営みが必要。ただ新しい思想を提示する、というような次元ではとうてい不可能な課題だ。
そういう思いが、新たな手づくりの思索ー裸になってゼロから始める思索の営みー方法も内容もすべてやりなおしの「知」を私自身に要請している、という訳です。

「民知ー恋知と公共哲学」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori65.htm
は、その思いから書いたものです。金泰昌(キムテチャン)さん(山脇さんが紹介者)が、その私の心情と思想に共鳴して1月から連続で「白樺教育館」(我孫子市)を訪れ、新たな思想の運動=民知の実践に乗り出そうとしています。
5月14日(日)には、『民知協会』(仮称)の設立記念会を我孫子で行う予定です。19年前より私の哲学研究会の主要メンバーで親友の福嶋浩彦(現・我孫子市長)は、この「民知」の思想で11年間市政の改革に取り組んできました。

我孫子を拠点にしていた白樺派の柳宗悦が中心となって始めた「民芸」運動を一般化し、より普遍化する「民知」運動を再び我孫子の地から始めたいと考えていますので、ご支援をよろしくお願いします。

日時 : 2006年1月4日 23:16 武田康弘
―――――――――――――――――――――――――――――――――

武田様
今本です。

ご丁寧なご説明ありがとうございました。
なお5年前に書き下ろした拙著『リベラル・パワー ~日本病理社会・再生の条件~』(郁朋社刊)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm では、以下の武田様のご指摘について、

「私は、ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。」(武田)

日本人的思考の伝統である「型」の文化(あるいは「水平的」思考)にその根本原因を見出し、それを哲学的思考法(批判的・「垂直的」思考)によって克服すべきことを提唱しています。まさに「知」の方法論、思考方法を再編しないことには、ご指摘のような一種の権威主義的態度は超克不可能といえます。

教育の現場でいえば、すでに幼稚園時代からこういう「不健康な精神」は養成され、中学入学以降に完全に定着してしまっている(人前で不適当な意見を述べると笑われるので恥ずかしくて意見を言えない)のが日本の学校教育の実態といえます。(それ以前に小学校は授業崩壊しているわけですが)

制度的な解決策としては、義務教育課程から基礎的な論理学の勉強とディベート、ディスカッションの実践、およびロールプレイング教育の導入およびシェアを拡大させること、個人別評価制度の導入などが挙げられますが、これとて形式主義的マンネリズムに陥る危険性がありますので、もちろん指導者がこれらの制度をいかにうまく運用できるか、その力量も大きなファクターとなるでしょう。

「仏造って魂入れず」とならないよう、まず「魂」を伝えられる指導者を養成するのに1世代、さらにそれらの指導者に指導された新しい思考に根ざす人材を育てるのにもう1世代かかることとなるでしょうが、願わくば「白樺教育館」が、「松下政経塾」などに取って代わる、新たな日本の知材の拠点となることを期待しております。

私も何か協力できることがあれば、協力させていただきたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

武田様、今本様、k様、ほか皆さま

山脇直司です。
2006年最初のメールを出します。今年もよろしく。

さて私も、現代日本を蝕んでいるの大きな要因に、「教育」と「メディア」の問題があると思っています。

教育に関しては、武田さんのいう「東大病」や今本さんのいう「没批判的思考」の再生産が大問題でしょう。
そうした中、私の方、6日の昼に仙台で、宮城教育公務員弘済会理事長の高橋道郎さん(東チモールでも活動中の方)の依頼で、授業改革に熱心に取り組んでおられる先生方を前に講演してきます。「現代を如何に生きるか:公共哲学の視点から」という題を与えられ、気恥ずかしい限りですが、武田さんたちの考えも参考にしながら、持論を呈示して、先生方の反応をみてきたいと思います。

また、日本のメディアの病理とも今年は本格的に取り組みたいと思いますが、kさんやhさんが呈示した朝日新聞記者問題は、それなりに深刻だと私は思っています。ここ20数年間の書評委員の顔ぶれの奇妙さ(特に政治関連書担当委員の保守性)は理念無き人脈主義の産物でしょうし、アエラのくだらなさ(真に考えるべき事柄を呈示せず、大して重要でないことを大げさに記事にする無内容性)と、そのノリで夕刊の文化面を書いて平然としている高慢な記者(小林さんたちの平和集会も一度そうしたノリで記事を書かれて大迷惑したことは記憶に新しい!)たちは、その「非政治的政治性」が問われて然るべきです。この点で、武田さんが前に話していた東京新聞の方がずっとすぐれているように感じます(たとえば、http://www.tokyo-np.co.jp/tokuho/ など)。
しかし、私自身は朝日の購読を止めるつもりはありません。このMLの11930(12月21日)で流したように、問題提起型の良い記事が時折出ますし(ちなみのこの編集委員N氏からは私の前原批判に賛同する旨の返事をもらいました)、働きかけ次第ではまだ希望がもてると思うからです。じっくり様子をみたいと思う次第です。ではまた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

今本様。山脇様。皆様。
武田です。

「民知」のために、少し私の一番基本の考えを書いてみます。

テキストを読み問題集をやることは、必要です。しかし、それは「知」の土台ではなく、中心でもありません。

※物語文を適切な「感情」を持って音読すること。
※論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
※算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。 ※概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。
※観察し、体験して、そこから意味をくみ上げる練習をすること。
※どんどんチャレンジして、失敗を重ねること。・・・・・

こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。

やり方の暗記で済ませたり、権威ある人や書物に頼ったり、「こうあるべきだから、こうすべきだ」というイデオロギーによるのではなく、真に自分自身の内側から深い納得を得る本物の知ためには、上記の基本を身につけることが絶対の条件になります。

現代の受験塾の効率よくテストで点を取らせる勉強法は、上記の基本(「民知」)と全く正反対の方法=見栄えのよい構造欠陥建物をつくるのと同じです。そういう勉強の仕方を身につけた「優等生」!が東大を頂点とした有名大学に入り、彼らを「知者」だと誤認しているのが今の日本という国、といわけです。
壊して建て替える以外はないですが、人間は建物と違いますから恐ろしく難しいですね。

思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。

ディベートによって経験的な意味での「自我」を鍛える(これが松下政経塾)のではなく、考える働きそれ自体=純粋意識(フッサール)=非反省的自己意識(サルトル)を鍛えるのが、白樺教育館―ソクラテス教室の「民知」です。自我は弱く小さく、意識は強く大きく、といわけです。

5月14日(日)には、「民知協会」(柳の「民芸」から「民知」への発展です!)を立ち上げたいと考えていますので、ぜひご協力をお願いします。

東日本代表は、私が責任者になるしかありませんが、西日本代表には金泰昌(キムテチャン)さんになってもらいたいと思っています。どしどしご参加を! 山脇さんにもぜひご加入をお願いします。今本さんも・・・・・・・・みなさんよろしく。

武田康弘


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民知は希望!「学者の頭の中から外に出ることのなかった日本の哲学とは違って、、」

2006-01-04 | メール・往復書簡

以下は白樺MLメールです。
楊原泰子さんからの大変うれしい年賀です。



武田康弘様

武田さんに出会って何年になるでしょうか?
お話を伺うようになって、“哲学”に対する思いが180度変わりました。
ほんとうは決して難しくない、生活に根ざした、生きるのに必要な、
役立つ学問だったのですね。

学生時代の「哲学」、「宗教哲学」のつまらなかったこと!
今思えばこちら側の受け止める力もなかったのだけれど‥
“哲学”嫌いな若者を大量生産していたのですねえ。
あれ以来すっかり敬遠していました。

そういえば、最近いろんな集会に行っても若者が少なくて心配です。
私より上の人ばかりが目立ちます。私、間もなく1/6で還暦ですよ~(~_~;)
若者たちはみんな社会のこと政治のこと自分たちの未来のことを
考えることをやめてしまったのかなあ?
若者の純粋で真直ぐな気持ちは社会を浄化する力があるのに‥

平凡な我々でも心で感じ、受け止めることができる>「民知」なら、学者や
一部の人だけが理解し、机上や学者の頭の中から外に出ることの
なかった日本の“哲学”と違って、誰の心にもスーッと落ち、納得し、
日々の暮らしに活かすことが出来ます。
素直な子どもや若者たちには、さらに良い形で受け止られるでしょう。
教育によって深く考えることを遮られてしまった子どもや若者たち
生き生きと自分の言葉で意見を語れるような社会になってほしいです。

時々歩みを止め、何が最善かを考えてから進む。一人ひとりが知るを喜び、
考えるを愉しみ、「自らの意見」を持ち、豊かな議論を重ねていく。
そんな余裕のある社会にしたいですね~
時間とお金という狭い価値観に囚われた社会に、最近起きた多くの事件が
警告を与えてくれていると思います。

一人ひとりの心のうちから社会を変え、平和な未来につなげていくことが
出来る「民知」を、これからどう広げていくかが今年の大きな課題ですね。
頑張らなくっちゃ!!
今年もどうぞよろしくお願い致します。

楊原泰子

-------------------------------------------
返信ー1月5日

[「民知」を、これからどう広げていくかが今年の大きな課題ですね。](楊原)

その通りです。5月14日(日)には、柳宗悦らの「日本民芸協会」を越えて、遥かに広い新たな思想運動の全国組織ー「民知協会」を設立したいと考えています。
イデオロギー次元ではなく、「知」のありようそのものをチェンジしていく営みを始めます。1976年ー「ソクラテス教室(旧称・我孫子児童教室)」設立以来の30年間の実践と思索を下敷きにして、考え方ー生き方の大元を変更する新たな時代の建造を始めます。キムテチャンさんとの全面的な協力体制を築きつつ。

武田康弘



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天皇制についての思い・考え=lucien さんの問題提起を受けて。

2005-11-28 | メール・往復書簡

以下は、lucien さんの「天皇制について考えてみないか」のブログ記事へのコメントです。
みなさんもぜひご参加下さい。

[タケセン] [2005/11/27 21:14] [URL]

「今までの天皇制に関する議論で、決定的に欠如していたのは、『自分(あなた)にとって天皇制とは何か?』」という視点なのだ。」(lucien)
という視点は、見事に「現象学ー実存論」的ですね。

「客観学」的視点では価値ある思想は生じない、これは原理です。
「主観性」を深く大きく豊かにしていく=私の人生のエロースを開拓することと、内容を「無」にすることで生きながらえてきた「天皇教」という形式だけの儀式宗教とは、両立不可能です。

一人ひとりの子どもたちが真に自分から出発する人生ー自由とエロースの可能性を拡げる手助けとしての私の教育実践と天皇制とは、どうにも折り合いがつきません。
多くのふつうの日本人のために、また個人としての皇族の人達のためにも、現在の「天皇制」については、見直し、改める必要がある、そう私は確信しています。

武田康弘

―――――――――――――――――――――――――――――――――

[lucien] [2005/11/28 12:37] [ MyDoblog ]

今の世の中で普通に暮らしている人たちは絶対に天皇制の必要性を自然に感じることはありえません。むしろホリエモンや村上ファンドみたいな「拝金主義」になる方が自然です。なのに天皇制が上の方から押し付けられるように宣伝されるのは不自然なことです。

とはいってもわたしは天皇制を否定したいのではなく、少なくとも日本古来からの伝統文化を継承し象徴する集団としての価値はおおいにあると思っています。万世一系とか現人神みたいなのは認められませんけど。これは天皇制における「象徴的な面」と「超越的な面」に分類できるのではないでしょうか。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

[タケセン] [2005/11/28 12:48] [URL]

天皇という存在がどのようなものであったのかは、北沢さんの書いた「感性としての日本思想」(藤原書店)がよい本です。あなた(lucienさん)の考え=思いに近いようです。

私は恋知としての哲学を実践する人間ですので、「天皇制という思想」(象徴規定)は認められないのです。

おかしな役割を押しつけるのではなく、日本の伝統の旧家として存在してもらうのがよいと思っています。無理にいつまでも江戸城に住まわせるのではなく、京都御所に帰られて、もっと自由に生きられることがよいことだ、と強く思っています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

lucien] [2005/11/28 16:27] [ MyDoblog ]

良い本の紹介どうもありがとうございます。読んでみたいと思います。
天皇家が京都御所あたりで静かに生活していただく、というのは賛成ですね。国会の召集とか大臣の認証のような国事から解放してあげたほうが良いと思います。
皇后陛下の「声が出なくなる」事件や、雅子妃の適応障害など、ものすごいストレスがあるんでしょうね。見ていると痛々しいです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以上です。
みなさんもlucienさんの提案=「天皇制について考えてみないいか?」に沿って考えてみてください。

私が昨年夏に書いた、 「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ参考にしてください。
ご意見・ご感想をどうぞ。

武田康弘


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民知対話ーじゅんや君とタケセンー受動性からの脱皮=失敗をしよう!

2005-11-26 | メール・往復書簡

以下は、ソクラテス教室(白樺教育館)で学んでいるじゅんや君のブログ記事と私のコメントです。

じゅんや(大学3年)

僕は一寸
今までいろいろと考えた結果、ある心境に達した。
それは、過去の出来事に対する自分の凝り固まった想念をすべて水に流し、過去+現在という姿勢で物を見るスタンスから、(過去+)現在というスタンス、つまり過去とのつながりを最低限にして今を生きようという心境だ。
そして、この心境になった後、そういえば自分の過去ってどんなんだったけ?と思い、自分の過去を振り返ってみた。そうすると、自分にはすがるべき実績や経験などは何も無いことに気付いた(それはそれで悲しいね。あとこれは過去の否定ではない)。これに気付くと、なんだか今まで感じたことの無いほど“未来もしくは現在への積極性”というものがより鮮明に意識され、新たな意味をもって現れるようになった。
この心境に至り、最近はとても元気な日々を送っとります。

追記
ふと思ったんだけど、人間の行動ってすべてその根底には積極性があるじゃないかな。
例えば、うなずくということでも、相手に了解の意思を伝えようという積極的姿勢があるからこそ、うなずくんだと思う。

―――――――――――――――――――――――
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2005年11月22日
13:33 タケセン (武田康弘)

まったくもってその通り!ですね。
「うなずく」だけでどれだけ自他を救うことか、皆がよく認識することが大事です。
おりこうさんの受動性を元から破壊しなければ、人生は開けません。これは原理ですが、みな臆病になって縮こまっていますね。バカが偉い!失敗が偉い!のです。積極性には必ず「間違え」が伴います。現代の日本には受動性の哲学しかありませんので、いま作成中です(笑)「民知・恋知」論文みなさん、ぜひお読み下さい。
タケセンは、平気でバカが言え、恥を恥とも思わない、断固とした自分性をつくるために努力してきました。
かっこいい人間にならないように努力しましょう!それが一番かっこいい?

武田康弘




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なぜ、「和」の精神が「同」の強要になってしまうのか?「和」問答の続きです(成毛・武田・山脇)

2005-11-25 | メール・往復書簡

山脇直司さんが提起された「和」をめぐる対話(11月17日のブログ)の続きです。
成毛君からの質問と私の答えを以下に載せます。
(26日追記:山脇さんのコメント)


2005年11月22日
23時51分
ナルケッケー成毛孝行

ここでいう「和」はどういう意味なんですか?
「和」っていい意味だと思っていたのですが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2005年11月23日
14時22分
タケセンー武田康弘

直接に「幸福」実現を果たそうというのは無理です。そうではなく、幸せを感じて生きることができるには、どういう考え方・生活仕方をすればよいか?は追求できますね。
これと同じで、
直接に「和」を目的にして、その実現を果たそうとしても無理です。強引に和を作り出そうとすれば、都合の悪いものを差別・排除することにしかなりません。
「和」はもちろんよいことなのですが、それを可能にするためには、実はとてもおおきな「対人関係における課題」を解決していかなければなりません。その認識が甘いと、逆におぞましい結果を招来する、というわけです。
一例を挙げれば、「皇族を敬愛すべし、それによって日本人の和がつくれる」、というような思考―思想は、皇族を敬愛しない人間を「非国民」として排除するという結果をもたらしますね。
あらかじめの「和」の強要は、最悪の思想になってしまうということです。
「差異」を尊重し、よろこぶような思考ー文化でなければ、ほんとうの意味での「和」は生まれないというわけです。
違いは生産的!違いは面白い!違いを愛そう!という考えを実践すると、その結果として「和」がもたらされる、タケセンはそう考えています。
ぶつかり・軋轢((あつれき)を恐れる脆弱(ぜいじゃく)な心と思想では、「和」を生み出すことはできません。「同」の強要、したがって「差別」と「排除」しか招来しないのです。

追記:
とても大事なことを言い忘れました。
この「差異」=「違い」を生かすためには、あることが絶対条件として前提されなければならないのです。
それは、学歴・職業・肩書・性別・家柄などによる「上下意識」を消去する努力です。上下意識があると、違いは、生産的どころか「差別」しか生みません。これは原理です。
このような序列主義・権威主義・様式主義があるところには、「和」は生じません。したがって聖徳太子の言った「和」とは、和ではなく同でしかないのです。
「和・即・同」という貧しい頭脳=精神を越えなくては、よき美しき人間の想念が羽ばたくことはありません。
「差別」のあるところには、その本質において、上からの統一・支配と非支配の関係しか生じないのです。そうなれば、ドレイ根性で従うか、非・妥協的に闘う以外に選択肢がありません。
「根源的不幸」を生み出すもの、それは上下意識にあるのです。権威主義・序列主義・様式主義があるところ、永遠に「和」は生じません。あるのは個人のエロースを奪う「同」だけなのです。これでは民主制社会は成立しませんね。
この原理をお互い「肝に銘じなければ」と思います。

------------------------------------------

最初に問題提起した山脇直司です。
武田さんが強調するように、あらかじめ強要された「和」は、「和して同ぜず」という社会観と真っ向からぶつかる「同」の論理です。和=WAはあくまでも、harmony in diversity や peace based upon reconciliation という意味で用いられなければ、諸文明に通底するtransversal な価値とは成り得ません。
ちなみに、中曽根元首相が憲法の前文改訂で持ち込もうとして頓挫した「我が国固有の伝統としての和」というイデオロギーは、そうしたtransversal なWAの再理解と相容れない「WAの特殊日本化=矮小化」に他なりません。中曽根康弘氏が「哲学の必要性」を説教するときに私が苛立つ一番の要因は、彼の極めて特殊な世界観を普遍的なものと勘違いする「公共精神の乏しさ」です。
山脇直司

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「集団的自衛権」、愛国心、フェティシズム、ロマン、批判精神、人間愛、、、対話が完結

2005-11-20 | メール・往復書簡

私のブログに対して、学生のヌルハチさんという方からコメントがあり、「ミクシィ」というブログ上で問答を繰り返しましたが、一応の完結をみましたので、改めて全文を載せます。誠実な対話が思索を深め豊かにする=いろいろな視点から事象をみることの有益さ・面白さの一例としてお読み下さい。ヌルハチさん、どうもありがとうございました。


「集団的自衛権」による戦争には一切協力しないことが「正しい」のです。子どもたちに伝えましょう

戦争という国家エゴイズムは、認めないことが「正しい」のです。

もし、そのような決定を政府がしたら、従わないのが「よい」ことです。

この原理的で簡明な思想を一人ひとりが明晰に自覚し、子供たちに教えていくことが、世界の平和をつくります。

自分たちの住む地域を直接攻撃された場合を除き(現実にはまずありえないことですが)、いかなる戦闘にも参加しないこと、これが正しい選択です。「レジスタンス」としての闘い以外の闘いはないのです。

したがって、「集団的自衛権」など認められるはずがありません。

もし、政府が戦闘行為を決定したならば、それには一切の協力をしないことが「正しい」選択です。

こうした考えをしっかりと子供たちに伝え、世代を超えた共通認識とすることが必要です。

自民党の改憲案を葬り去るためにも、上記の考えを子どもたちに明確に伝えていきましょう。

全国の大人がブレずに子どもの教育にあたれば、靖国=国体思想をひきずる政治家は生き残れないはずです。

平和への責任は、子どもたちに上記の「正しい」考えを、家庭や学校で伝えれば、誰でもが果たせます。

未来の社会と人間のための責任を一緒に果たしましょう!

お母さん、お父さん、学校や塾の先生、
為にする言説=国家を実体化させて「国のため」を主張する「詐欺思想」を元から断ち、一人ひとりの生身の人間=実存が先立つという哲学(恋知)の原理をしっかりと教え伝えて下さい。

(さまざまな事象・物事を考えるとき、国ー国家を先立てるのが思考の原理に反することは、普遍了解的な「真理」として哲学的に論証できます。ありのままの私の主観性=心の内側から自ずと湧き上がる声から出発する以外には、思想は根付く場所をもたないのです。右翼的・左翼的を問わず、あるゆる「超越的基準」に基づく思想は、思想ではなく、為にするイデオロギーでしかありません。私が「客観神話」と呼んでいる客観主義の思考法(「一神教」はそのおおもと)が、あらゆる無用の混乱と対立を生んでいる元凶なのですが、これは、欧米崇拝や天皇教や東大病などの社会的病理を生み出す暗黙の想念です。この問題は、現代の哲学(恋知)の最大の課題ですので、「民知ー恋知」論の続きとしてしっかり書かなければいけないと思っています。)

武田康弘

上記の記事を私のブログ「思索の日記」http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972 に出したところ、今日一日で今までに300件のアクセスがありました(まだ時間があるので何件になるかは分かりません)感謝です。

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2005年11月10日
00:46
ヌルハチ

 初めまして、ヌルハチと申します。ふざけた名前ですか、常識や世間の流れに正しい疑問を持って生きたいと思っている者です。いくつかの質問を行うことをお許し下さい。

?抵抗としての闘い以外の闘いはない、とおっしゃっていましたが、「集団的自衛権」とは「やられる前にやる」という意味ですか?
?また、やられてからでは遅いのだから、自分たちの住む地域を直接攻撃されてから抵抗してもダメだ、という意見にはどうお答えになりますか?仮にイスラム過激派にテロ攻撃を受ける前に、テロリストだけを殺し市民を巻き添えにしない手段があったとしましょうか、テロリストに日本を攻撃される前にその手段を使うというのはいけないのでしょうか?
?国家には実体はないのでしょうか?あ、すいません、ないですね。国家も国境も恣意的なものですね。この質問はナシにします。
?ただ、国民を団結させるために崇拝対象を作るのはいけないことでしょうか?

 ちなみに僕自身の立場はまだハッキリしていません。これから本を読んだり人と話していく中で少しずつ固めて行こうと思っています。ぼんやりとですが、「戦争は避けたい」そして「今の日本には愛国心が足りないため、政治やお互いの国民を好きになれないことにつながっている」とは思っております。自分は「戦争は避けたい」と思っていても、戦争を肯定する人間に会ったときに自分の意思を曲げない自信がありません。先生とお話してそれができるようになれたら嬉しいと思います。

 お暇が出来たときで構いませんので、このコメントの返事を下さい。
---------------------------------------------------

2005年11月11日
00:32
タケセン

?集団的自衛権とは、軍事同盟の加盟国のどこかが攻撃を受けた場合、攻撃された国を支援して一緒に戦うことを意味します。
?先制攻撃は、国際法上、認められていません。個人の場合でも同じで、相手が何かやりそうだと思ったから、という理由で先に攻撃することはできません。それを認めたならばどういう事態になるかは容易に想像がつきますね。
?愛国心とは何か?自国に対しての自然な親しみの心と、意図的にある国家像を愛するように仕向けることとは180度違います。実体のないものを「愛する」とは、精神病の一種でフェティシズムといいます。疎外感や不全感がもたらす幻影で大変危険です。以前に書いた「国とは何か?」(クリック)を見て下さい。
?団結させるとは、何のためにですか?
一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を生み出すことは、団結という発想からは生じないでしょう。
以上、お答えです。

思考とは、自分のもつ「常識」を捉えなおす営みです。自分の頭で考える練習は、何より大きな「徳」と「得」をもたらします。ヌルハチさんにエールを送ります。では。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2005年11月11日
17:55
ヌルハチ

 タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)
 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。
 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実態はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想の問題は、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。
?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛する者のことを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。
では、また。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2005年11月14日
16:08
ヌルハチ

?「問題提起としての書評」は理解できませんでした。もっとしっかり読みこんでからまた書きたいと思います。
?「ロマンとロマン主義」でおっしゃていることは、「こうだったら楽しいだろうな!」を現実に持ち込むな、ということと解釈しました。具体的には、天皇が日本神話の神の子孫であるというお話があっても良いが、だからって天皇が神聖な存在だなどと憲法に書くなよ大日本帝国!ということでしょうかね。
 確かにお話と現実は別の世界です。だから先生はお話の世界を現実に持ち込むことを危険視なさるのですね。とは言え、お話を信じて人々が現実の世界でとった行動は良い方向に行くかも知れないと僕は思います。2月革命がそうです。逆に危険な方向に向いた例もあるでしょうけれども、大事なのはどっちの方向に向けるかということで、ある対象を崇拝してもらい何らかの行動をしてもらうこと自体が悪とは考えません。
 「国民」以外も愛すべきか否か、これは長くなりますので後ほどまたお答えしようと思います。

 返事が遅くなってすいませんでした。長い問答にも付き合っていただいてとても感謝しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2005年11月14日
23:57
タケセン

よきロマンをはぐくむことは、何より大切。
しかし、「ロマン」を生活をよきものとするように生かすのではなく、「ロマン主義」になれば、独我論に陥ります。それが社会化すれば、ナチズムや大東亜共栄圏などの全体主義におちいります。フランス革命が曲がりなりにも成功したのは、ロマン主義を退治し、あらたな社会の原理を理念として提示しえたルソーなどの哲学者の存在が大きいのです。「個人性」に立脚した現実変革の理念を構築したことが、これがポイントです。
また、非常に大事なことですが、ロマンとは本来「個人性」にもとづくもの、もし、「集団化」すればおぞましく危険な事態を招来します。
「集団的ロマン」とは、言語矛盾なのです。必ず他者にロマンを強要することになるからです。そうなればロマンは死にます。個人のエロースから出発し、それを豊饒化させるための社会変革でなければ、変革は意味を失うのです。
まだ内的価値の培養を条件とするシチズンシップが根付かないわが国では、集団主義=外的価値信仰の危険がおおきいですね。
内的秩序ーロマンをゆっくりとしっかりと育てつつ生きられんことを切望しています。
では、また。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2005年11月20日
01:06
ヌルハチ

 この6日間、考えておりましたが返せる理論がありませんでした。参りました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上ですが、皆さまもご意見、ご質問、ご感想をぜひお寄せ下さい。
武田康弘



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山脇さんとのメールでの思想対話ー「和」の精神について(付・ユネスコ報告)

2005-11-17 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML内での山脇さんと私との対話です。

山脇直司です。

一週間前の6日に日本を発ち10日の昼までパリのユネスコ本部で開かれた文明間対話の国際会議に出かけてきました。ドゴール国際空港に着いて電車で何事もなく市街に入りましたが、途中止らなかった郊外の駅が危険なため、前日まで日本の外務省からこの電車には乗らずタクシーで市街に来るようにとの通達があったことを後で知りました。エールフランスの機内で読んだ英字新聞には、今回の暴動の背後に、we are French, but not real French という深刻なアイデンティティの差別問題があるということが書かれていました。パリ市街はほとんど平穏でしたが、そうした中で開かれた文明間対話の会議で私が報告したテーマはWAについてでした。すでに松浦事務総長の影響もあって、ユネスコのアフリカ諸国で人気のあるWAという概念は、WARと鮮やかなコントラストを成すコンセプトとして、更新され、世界に発信されるべきtransversal(通底的)な価値であることを、私は強調しました。ユネスコは、アメリカの影が薄く、アフリカやイスラム圏に対する影響大の重要な国連機関なので、そこでの平和国日本の果たすべき使命は大きいと私は考えます。私は、「和して同ぜず」をharmonizing without assimilation と、また中曽根康弘のインチキ哲学を粉砕すべく、現憲法の前文を引用しながら、「和・環」をharmony in diversity and differences, peace based upon reconciliation と意味を更新し、また「やわらぐ」「なごむ」といった日本語のよさを強調しつつ、WAのもつ意義を発表しました。そのabstract を添付ファイルにしましたのでご覧頂ければと存じます。いずれにせよ、日本・東洋思想の「弱点」を踏まえつつ、「世界に発信しうる価値」を再発見・脱構築・更新していくことも公共哲学の重要な課題だと思います。かつてサルトルやマルセルが熱弁をふるったユネスコは、21世紀の危機に対して哲学教育を重視しており、この意図に昨年からコミットし始めた私は、トランス・ナショナルないしグローカル公共哲学を日本から発信すべく、さらに今月末にはソウルで開かれる「アラブ世界とアジア世界の地域間哲学対話:民主主義と社会正義」で新たな報告(自由民権運動・大正デモクラシー・戦後民主主義の哲学歴考察)を行う予定です。ともあれ、このWAという考えについて、皆さまからコメント頂ければ幸いです。

Abstract

Toward a Renewal of the Concept “Wa”(和、環) for the Culture of Peace

Naoshi Yamawaki

In this paper, I would like to make a renewal of the concept ”Wa”, which originated from Confucius and can be regarded as one of the most important heritage in East Asian tradition. In the Chinese tradition of thought the well-known proverb “Wa shite Do zezu(和して同ぜず)”, which I would like to translate as“public spirituel person harmonizes but never assimilates”, presents a great principle for human conviviality. In Japanese tradition too, Wa (和) has been used as the meaning of harmony and peace since the time of Shotokutaishi(574-622?). However, Wa(和) in Japanese tends to have also the meaning of conformity, concordance or behaving similarly. Indeed, this meaning played a very totalitarian role in the Japanese modern history as “the Cardinal Principles of the National Polity” issued by Minstry of Education in 1937 showed.

Nowdays, I think that this concept Wa(和) should be radically deconstructed as well as reconstructed for the culture of peace. I mean that Wa(和), which also connotes “peace (Heiwa,平和)” and “harmony (Chowa, 調和)”, should connote “reconciliation (Wakai, 和解)” too, which is a matter of importance for the intergenerational responsibility. The intergenerationally responsible Japanese must therefore assume the burden of resolving the responsibility for the grave errors that the Japanese past generation committed in the modern history and must continue to criticize them. Only then, Wakai (和解) would occur between Japan and Korea as well as China and the solidarity for the future generations would be born between them.

Beyond the confines of East Asian tradition, this new concept of Wa could send a message on the global level. It strongly opposes “the enemy-friend thinking”, which was formerly represented by Carl Schmitt and is nowdays represented by Sammuel Hungtington. The pronciple “Wa shite Do zezu” suggests a horizon to overcome both the individualism and collectivism.

I hope this concept could contribute to the peace all over the world. Indeed, Heiwa(平和) and Chowa(調和) could not come into existence without Wakai(和解). Wa in Japanese has also the meaning of circle(環) and connotes the circle of humanbeing. Moreover, Wa in Japanese verb (和らげる) implies the softening or easing conflicts and Wa in Japanese adjective (和やかな) means to be friendly.

From this perspective, Wa(和) should be now reconstructed in terms of Wakai(和解), Heiwa(平和) and Chowa(調和) in order to generate the “reconciliation-promoting gentle human solidarity” ( Nyuwa de Yawaragiaru Rentai no Wa, 柔和で和らぎある連帯の環 ) in the world, which makes a sharp contrast with “War” and contributes to the culture of peace.


=============================

武田です。

山脇さん、ご苦労様でした。
早速ですが、「WA」(和)について直感的に思うことを一言します。
日本ならざるものを排除する、
フランスならざるものを排除する、
仲間ならざるものを排除する、
という役割も果たしてしまう「和」の精神は、別名「差別」の精神ですが、そこをどう乗り越えていくか?ですね。
「差異」を尊重し、それに依拠した営みを具体的現実・生活の中で実践するためには、どうしたらよいのか?
それを可能にする方法の発見こそが核心だと思います。
「和」とは結果としてもたらされるのであり、予めの和の精神=和それ自体を目的化すれば、意に反して必ず「差別」や「抑圧」や「排除」を結果する、
私はそう考えます。


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武田さま
山脇です。

仰るとおり、聖徳太子17条憲法の「和をもちて尊しとなす。逆らうべき事なきを旨とせよ」は「和」と「同」の差異をなくする危険を内包していると思います。1937年に文部省が発令した『国体の本義』は最悪のケースでした。しかし、『春秋左氏伝昭公20年』(岩波文庫)では和と同が峻別され、『論語、子路編』では「君子は和して同ぜず」と「小人は同じて和せず」とされており(これは組織原理として重要な意味をもつと私は思います)、こうした古典的意味を「やわらげる」などのソフトな女性原理を加味して現代的に脱構築・再構築し、ピコ・デッラ・ミランドーラ、エラスムス、スピノザ、マテオ・リッチ、ライプニッツ、シュライエルマッハー、日本国憲法などの平和・調和・生命の哲学と連帯し、カール・シュミットの敵味方思考やハンチントンの文明衝突論と対決するというのが、ますます危険度を増している現代国際社会に対する、私の根本的な戦略とメッセージです。とりあえず簡単なお返事のみ。
山脇直司

==================================

山脇様。
武田です。

はい、お返事ありがとうございます。
私は、極めて意識的に「和して同ぜず」の実践を続けてきましが、
そのためには、大きな覚悟ー四面楚歌の覚悟ー無理解や反発や排除をわが身に受ける覚悟がなくてはできません。
恋知(哲学)の身体化=生身の私自身がその思想を日々身をもって生きるのは、「理論的整理」の次元とは截然と異なる「全実存」を賭けた厳しい生の営みです。
仲間にさえ迎合せずに、「同ぜず」(しかし存在次元では深く他者を受け入れる)という真の「精神的自立」を果たすのは、容易なことではありません。
厳しい対話ー議論を避ける精神と「和して同ぜず」は、二律背反です。意識の底が深く大きいー柔らかくかつ剛毅な人間を育てることー「差異」に基づく「手強い人間」の育成を私は目がけてきました。平気でバカが言えバガができるスケールの大きな人間=真に自由でかつ深い納得(知識ではなく)を生み出す力をもつ「民人」が日本も世界も変える!といけたら素敵だな、と思いつつ。

知の捉え方、遇し方の根源的変革(民知ー恋知)は、そのための絶対的な前提です。
「和して同ぜず」を言葉次元から飛翔させて日々現実に生きることは、恐ろしいことです。しかし、それは又、何にもまして深いエロースの生を招来します。
私の場合、「実存主義(論)」とは、対象化された哲学史上の話とはまったく無関係で、日々の私自身の生を指します。「和して同ぜず」といきたいものですね。共に!

============================
以上です。山脇直司さんは「公共哲学とな何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授です。

上記のやり取りを読んで「白樺ML」のメンバーの古林治さん(コンピュータのシステムデザイナー)が書いたメールを以下に貼り付けます。

(なお、シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の金泰昌(キムテチャン)さんから昨日電話があり、私の「和」の捉え方に強く賛同するとのことでした。日本社会では、差異に依拠する厳しい対話が成立しない、しかしそれを欠けば、どうころんでも「同」にしかならないと。)

古林です。

『和』の精神、厄介な思想です。特に日本人がこれを発するときには。
精神的な自立がないまま、この『和』を強調するとどうなるか。
多くの場合、それは批判を封じ込め、『より良い』を求める心を破壊し、変革を妨げ、
既得権益を守るだけの思想に堕します。

・長い物には巻かれよ。
・付和雷同。
・大人になれ。
まさに日本の社会です。

一方、私の経験からすると米国では、往々にして肥大化した自意識同士の喧嘩で空中分解ということになりがちです。

ここで『和』が成立するための条件は、優れたヴィジョン、コンセプトを提示することです。
そうすれば、自意識は引っ込みます。
精神的な自立と純粋意識の発露があれば『和』は成立するのかもしれません。

思い起こすと、息子の高校=「自由の森学園」(埼玉県飯能市)の再生を妨げた最大の原因は『和』の精神でした。
おそろしい!



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from「団結ー愛国心」 to「批判精神と人間愛」(ミクシィー)

2005-11-12 | メール・往復書簡
昨日の続きです。
ヌルハチさんからの質問と、私の答えです。(ミクシィーというブログ内で)


タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)

 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。

 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実体はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
===============================

2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想については、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。

?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛することを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。
「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。

では、また。

武田康弘

追記:二人のファザコン男=小泉、ブッシュは、本質的に小心で次元の低い思想しか持たないがゆえに、国家や軍事に頼りますが、こういう人間たちに政治を任せるようでは、両国の国民には救いがありませんね。
小泉、安部、石原タイプの人間が大きな顔をする日本社会をチェンジしましょう!!





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集団的自衛権の否定と、愛国心と、についてーーブログ上での対話公開

2005-11-11 | メール・往復書簡

以下はミクシィというブログ内でのやりとです。
私の集団的自衛権の否定のブログ記事に対する質問と私の返信です。
有意義な対話に発展しそうです。つづきも載せますので、お楽しみに!


初めまして、ヌルハチ(明治大学学生)と申します。ふざけた名前ですか、常識や世間の流れに正しい疑問を持って生きたいと思っている者です。いくつかの質問を行うことをお許し下さい。

?抵抗としての闘い以外の闘いはない、とおっしゃっていましたが、「集団的自衛権」とは「やられる前にやる」という意味ですか?
?また、やられてからでは遅いのだから、自分たちの住む地域を直接攻撃されてから抵抗してもダメだ、という意見にはどうお答えになりますか?仮にイスラム過激派にテロ攻撃を受ける前に、テロリストだけを殺し市民を巻き添えにしない手段があったとしましょうか、テロリストに日本を攻撃される前にその手段を使うというのはいけないのでしょうか?
?国家には実体はないのでしょうか?あ、すいません、ないですね。国家も国境も恣意的なものですね。この質問はナシにします。
?ただ、国民を団結させるために崇拝対象を作るのはいけないことでしょうか?

 ちなみに僕自身の立場はまだハッキリしていません。これから本を読んだり人と話していく中で少しずつ固めて行こうと思っています。ぼんやりとですが、「戦争は避けたい」そして「今の日本には愛国心が足りないため、政治やお互いの国民を好きになれないことにつながっている」とは思っております。自分は「戦争は避けたい」と思っていても、戦争を肯定する人間に会ったときに自分の意思を曲げない自信がありません。先生とお話してそれができるようになれたら嬉しいと思います。

 お暇が出来たときで構いませんので、このコメントの返事を下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2005年11月11日
00:32
タケセン

?集団的自衛権とは、軍事同盟の加盟国のどこかが攻撃を受けた場合、攻撃された国を支援して一緒に戦うことを意味します。
?先制攻撃は、国際法上、認められていません。個人の場合でも同じで、相手が何かやりそうだと思ったから、という理由で先に攻撃することはできません。それを認めたならばどういう事態になるかは容易に想像がつきますね。
?愛国心とは何か?自国に対しての自然な親しみの心と、意図的にある国家像を愛するように仕向けることとは180度違います。実体のないものを「愛する」とは、精神病の一種でフェティシズムといいます。疎外感や不全感がもたらす幻影で大変危険です。以前に書いた「国とは何か?」クリックを見て下さい。
?団結させるとは、何のためにですか?
一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を生み出すことは、団結という発想からは生じないでしょう。
以上、お答えです。

思考とは、自分のもつ「常識」を捉えなおす営みです。自分の頭で考える練習は、何より大きな「徳」と「得」をもたらします。ヌルハチさんにエールを送ります。では。

武田康弘

以後の質疑応答も順次載せますので、お待ち下さい。






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お上が与える憲法=「自民党改憲案」=「大日本帝国憲法」への退行=頭の悪さの証明!

2005-10-29 | メール・往復書簡

民主制社会の原理(ルソーの社会契約論に代表される)もわきまえず、「日本は契約社会ではないから、社会契約説を取り入れたらダメだ」!?(現場の関係者の証言)という平面・低レベルの頭脳=自民党議員と取り巻きの法律家がつくった改憲案が出ましたが、早速、民知者の高城久さんからメールが入りました。

なお、社会の原理とは、「経験的事実」とは次元を異にする「理念的構築物」です。この両者の立体構造が分からない平面的な頭脳は、自民党議員のみならず、おおくの日本の学者にも共通する欠陥ですが、この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。民知(恋知)という全体知=立体的に事象の意味を知る頭を育てる努力が必要です。 「民知―恋知と公共哲学」(10月号の「公共的良識人」紙巻頭論文―武田著)をぜひご覧下さい。


では、以下に高城さんのメールを載せます。

高城です。

今、新聞に載った自民党の憲法草案を見ていて思ったのですが
さすが「自民党」ですね。
憲法とは公権力から国民を守るためにあるものと私は認識していますが
自民党の方々は、時代劇で出てくる
お上が下々に言い渡す「下」の感覚がよく出ている、と感じるのは私だけ?
そう言えば、自民党総裁らしい首相であった森喜朗氏が言っていましたね。
天皇を中心とする”かみ”の国、と
神道関係者の会合での発言だったのでかみ=神と思っていましたが
お上の”かみ”も入っているようです。
そう考えると天皇教信奉者のイデオロギーは「かみの国主義」といえますか?

日本の左右って「9条主義」と「かみの国主義」ってことですか?
なんだか悲しいです(T_T)

9条主義の人々もかみの国主義に洗脳されているから
靖国反対は言っても天皇制には何にも言わない。
55年体制下では、お互い憲法と天皇についてはタブーという暗黙の了解があったのでしょうが
55年体制が崩壊し、
憲法は論議されても天皇制はまだタブー
おかしすぎますね!

朝っぱらから長々とすいませんm(__)m




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「靖国参拝おおいに結構」への批判的コメントから、「千人のソクラテス」へ。

2005-10-28 | メール・往復書簡

以下は、ブログ「メタフィジカルな気分」のlucienさんの記事=『小泉靖国参拝おおいに結構』に対しての私のコメントと、lucienさんのコメント返しです。

小泉靖国参拝おおいに結構 = lucienさんの記事[ 19:23 ]

靖国神社が日本の英霊を祀る資格がありなおかつ正統的な施設であるのかを保留した限り、小泉総理の靖国神社参拝はおおいに結構なことだ。もし戦没者が禅宗の寺や真言宗の寺に葬られているのであれば、そこに参拝やお参りに行くのにやぶさかではない。クリスチャンの故大平総理も靖国神社に参拝した。
民主党の前原代表は、「A級戦犯が祀られている神社に参拝したことは残念」とコメントしていたのだが、死んでもまだ罪人なのだろうか。絞首刑という罰を受けた死人の罪は消滅し、篤い弔いの対象になると考えるのが日本人なのではないだろうか。前原とは日本人なのだろうか。笑。

中国やら韓国がどうして靖国参拝を批判するのか、もうネタはばれているのだからいくら批判声明や恫喝を繰り返しても効果はない。やりたければ勝手にやればよろしい。なんなら国交を断絶しても良い。だいたい中韓などまったく行きたいとは思わない。

もちろん国際外交とはそんな幼稚な論理で動くものではないだろう。そう、もっと日本は中国を批判するべきなのである。核ミサイルの照準を合わせ、反日教育を熱心にやる中国の行政方針、国家運営を口やかましく批判するべきなのだ。日本はあまりにも人が良すぎやしないか。国際的な常識では、「核ミサイルの照準+反日教育」という事実だけで、日本が核開発に入ったとしてもまっとうな理由になるはずだ。
アメリカなどは、性能の悪いテポドンミサイルが、アラスカやカリフォルニアのほんの一部を射程圏に収めただけで議会で大騒ぎである。

どうして韓国が反日に燃えるのかを検証したサイトがある。

韓国は“なぜ”反日か?

このサイトに書かれていることが全部正確であり、史実に照らして十分に信用できるものなのであるかどうかはわからないのだが、読んでいるとかなり腹が立つことは確かだ。果たしてどうなのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


[タケセン] [2005/10/18 01:23]
武田です。以下は、以前の私のブログからです。 「国体」という極めて特異なイデオロギーを今日でも堂々と主張し、展示し、宣伝映画を毎日エンドレスで流している靖国「神社」にいつまでも戦没者を「まつって」おくとは一体どういうことなのですか?「答える」ことができる人はいますか? 明治政府が政府側に立った兵士だけをまつるために作った施設、戊辰戦争や西南戦争で「反・政府」の側に立った人間はまつらないという日本の伝統を否定したこの「神社」(国家神道という明治政府が作った新・宗教の総本山)にまつっておくことは根本的な間違いです。現代の日本人は、よほど特殊な人でない限り「靖国思想」に賛同する人はいないはずです。政府は一刻もはやく兵士だけでなく全ての戦没者を鎮魂するための「公共墓苑」の創設に着手しなければいけません。これは現代の政治家の義務です。論を待ちません。


[lucien] [2005/10/18 17:55] [ MyDoblog ]
武田先生こんにちは。確かに靖国神社にまつわる問題点は多いと思います。この問題を扱った先生のブログを読ませていただいた時に、公共墓地を作る必要があると思いました。筋とか理論的にはその通りなのですが、靖国神社に堆積している「歴史性」の重みには、新しい追悼施設はかなわないでしょう。公共墓苑を作っても、そこにお参りに行く人がいるのかどうか疑問です。130年くらい前にかけ間違えられたボタンのまま歴史が降り積もってしまい、戦犯分祀もできず、にっちもさっちも行かない。この問題を解決できるウルトラCを望みます。


[タケセン] [2005/10/19 01:24] [ MyDoblog ]
大丈夫です。
日本人はよくも悪くも一夜にして変われるのです。
論理的に「当然」のことを、愚直に断固として行えば、それでいいのです。それ以外はありません。簡明な話です。後は実行あるのみです。


[lucien] [2005/10/20 20:27]
公共墓地の案は出ては消えてという繰り返しですが、作れるんでしょうか。。
逆に、中韓との取り引きのネタに使えるかもしれません。笑。
靖国参拝やめて公共追悼施設を作るから竹島返せとか。
もしかすると小泉首相はカードを作っているのでは、と思えないこともないです。


[タケセン] [2005/10/20 23:42] [URL]
「天皇教」の呪縛は、凄いのです。
とりわけ現在、70歳以上の人の多くは、この序列宗教(東大病と天皇教はひとつです)から抜けられません。靖国思想はしつこく人の心を縛っています。
靖国=国体思想の廃棄は、われわれ日本人自身がよく・楽しく生きるための条件です。
天皇、靖国、東大、官僚、はひとつの思想です。日本人を個人として自由にさせない=エロースを消去して集団主義に貶めるシンボルです。
多くの人は、このシンボル操作に引っかかって、狭い想念の中で生きています。
わざわざ努力して不幸を選択するのは、ほんとうに愚かです。自由と悦びを共に生み出しましょう!


[lucien] [2005/10/22 11:41]
実存的なもの以前に国体的なものがあるというのは確かに奇形だと思います。実存から国体的なものが生まれるのであれば自然なのですが、たぶん、国体という物語にすがりつく人たちは基本的に「弱い」人たちなんでしょうね。これは自分の内面を見ていればよくわかります。何かにすがりつきたいですから。実存から出発して、何かの意味や物語を創造する才能はまったくないですし。ですから、時代遅れの官僚や東大主義、国体主義みたいな連中の奇形性の本質は、「国体→実存」という転倒なのだと思います。しかし、手っ取り早く「意味」という薬を飲んでしまえば楽なので、これからはそういう人が増えるかも知れません。


[タケセン] [2005/10/25 00:16] [URL]
その通りですね。
いま、私の生徒(社会勉強中のN君と大学生のN君)が、ミクシーというブログで、大胆にも「千人のソクラテス」という名称の(これはサルトルが学生時代に大変な自負をもって仲間たちとそう呼び合っていたようです)「コミュニティー」を立ち上げようとしています(笑)。
合言葉は、情報から思考へ、でしょうかね。
私は、「民知協会」を立ち上げ、各地に支部をつくれたらいいな~、と思っています。
「実存の生」をサポートし合う面白・元気の活動で、日本社会をおおもとから変えてゆくというわけです。


[lucien] [2005/10/25 19:08] [ MyDoblog ]
「情報から思考へ」、
素晴らしいですね。そういう人たちが少しでも増えてくれればわたしだって今の日本に希望が持てるってもんですよ。ちょっとでも考えてみれば、小泉政権はおかしいことに気が付くはずですからね。

===================================
それにしても、「現人神」というおぞましい規定からは外れても、21世紀のいまなお、宗教儀式を生活の中心とする天皇を日本国民統合の象徴とする政治を私は容認しません。容認しない人も大勢いると思いますから、はじめから「象徴」という規定は破綻しているのです。簡明な原理です。


以下は、上記のやりとりを受けて、ブログ「ミクシー」内でおこなわれた対話です。

2005年10月27日
01:02
まきと

大学生のNです(笑)
まだ作ってないですねー。
早く作ります。とりあえずでもイイかなぁ

「実存よりも国体という思想が先立つ」なんとも悲しい話ですね。
大学には実存よりも情報が先立ってる人が多い気がします。。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
2005年10月27日
10:25
タケセン

とりあえずで、どんどこやりましょう!
大学だけでなく、日本中みんな情報中毒ですね~。
自分で「考える」という作業の復活は、道が険しいですよ。
大学教授もみな「省エネ頭」になっていますから。
人間が「感覚ー反射型生物」になったのでは、悦びーエロースが消えてしまいます。
主観性を広げ深める「思考力」のための対話コミュニティ=「千人のソクラテス」、いいですね~。ぜひ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
2005年10月27日
17:12
aBeBe

いいですねー、「千人のソクラテス」
私もその一人に加わります。

省エネ頭がエライ!?あまーい。
わざと省エネしないのがエライんだっ!!!
電気じゃないんだからね(笑)

--------------------------------------------------------

2005年10月28日
09:06
タケセン

教育・マスコミ・政治・権威・・・に誘導されないで、自分の頭で考える人が千人も出たら、日本初の市民革命ですね~(笑)
それにしても「小泉草劇場」に感心しているような日本人では悲しいですね。こんなことでは、また日本ナショナリズム=天皇教=靖国・国体主義、という形式ー儀式が支配する紋切り型の社会に戻ってしまいます。21世紀になっても、未だに「昭和」だ「平成」だという天皇の生死による時間・時代区分をしているよう国ではダメです。
「天皇を中心とした神の国」(森・前首相)!?はもうたくさん、ごめんこうむりたいですね~。
ふつうの人々=私たち民の力で、哲学(恋知)の時代を切り開きましょう!




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小泉首相へーー本当の改革とは?(N.O.さんからのメール)

2005-10-22 | メール・往復書簡

以下は、N.O.さんからメールで寄せられた意見です。みなさま、ご検討下さい。

小泉首相へ -本当の改革とは- N.O.

 19日の記者との談話で『覇王の夢(津本陽著)』、『信長の棺(加藤広著)』の織田信長本を読んでいたく感動されたご様子が伝えられています。また、現代の信長などとおだてられると脂下がっている様子がテレビでも度々放映されています。

織田信長の行為で私が評価するのは、比叡山の焼き討ちです。大量殺戮行為だと非難もありますが、比叡山の焼き討ちがなければ寺社勢力の武装解除がなされるのがずっと遅くなっていたことでしょう。いいかえれば戦国時代がもっと長引いたと思います。

さて、小泉首相が織田信長のように本気で時代の針を先に進める気があるのならそれは靖国神社の焼き討ちならぬ解体です!

 税金で給与が支払われていない郵便局員を公務員改革の象徴として無理矢理民営化したあなたなら軍国日本の精神的支柱である靖国神社をそのままにしておくのは道理に合わないと思います。

 その跡地には、国立墓苑や国立の追悼施設などではなく、謝罪反省施設を建てれば良いのです。追悼、鎮魂は各家々で遺族の方々が気の済むようにして頂くようにお願いするしかないと思います。理不尽な殺人にあった方の遺族が正式な謝罪もせず、墓参をさせてくれといっても受け入れないことからも明白でしょう。(心から反省し、謝罪するのは自虐的行為という人たちは、精神構造がまともではないと思います。)
 
そうすれば、自国の行為を謝罪せず正当化する中国や米国が国内から日本を見習えという機運が自ずと高まり、日本が尊敬される国になり真の友好が始まると私は思います。


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中国問題、女の子、生の哲学、自他との闘い、教育の核心 (白樺メール公開)

2005-10-21 | メール・往復書簡

以下は、10月16日・17日の「白樺ML」内のやりとりです。

古林です。

「読解力とは、端的に言えば批判力のことである。」、
昨晩の「哲学の会」でのこんな会話で思い出したことが一つ。

姪(中一女の子)が社会科の教師の度重なる中国批判に耐えかねて、
異議申し立てをしました。
『クラスに中国人の子もいるのに、配慮が足りない。それに、(虐殺の)数が問題
なのではない。起きたことが問題なのだ。』と。
その日、仲のいい中国人のCさんと話をしながら帰ってきました。
Cさん:『中国人も国が嘘の写真や大げさな数字を使って大げさに言い
 立てていることは皆知ってる。でも実際にあったことは事実なのだから・・・・
 それに靖国の問題もなんか変。』
姪:『そうだよね。そのことをはっきり言ってる面白い人がオジサンの知り合いにいるよ。』
という会話があって、タケセンのブログを何人かの友達に紹介して広めているそうです。

後日、Cさんからおじいさんの背中の写真を見せてもらったそうです。
旧日本軍兵士から受けた鞭のあとです。
『でも、日本人が皆悪い人というわけではなかった。だから私は日本に住んでいる。』
おじいさんはそう言っているそうです。
姪はこのちょっとした体験を通じて改めて今話題になっている社会問題をとても身近に
感じているようです。

が、教師を含め大人からは、反抗的で問題のある子だと見えているようです。
問題がないわけではありませんが、その内実を見ようとしない大人が多く姪は孤立
するばかり。
そうならぬよう、私が毎週のように実家へ通う日々です。

『○○について自分の考えを客観的に述べよ。』
自分の考えは主観なのだから客観的になど書けないと、テストでは白紙で出してしまう
姪に問題なしとは言いませんが、正統な批判力だけは育ててあげたいと思います。

以上でした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

古林さん、皆さん。
武田です。

周りからどう見られようと、自分の内なる声に従って生きる。気張らずに自然体で自己のエロースを追求する。他者の評価は他者の評価でしかない。愉しみ・悦びは、自分自身の内なる声ー内なる「よろず神」からしかやってこない。この原理を明晰に自覚しなければ真の人生は始まりません。逆にこれが了解できれば、人間は真に「救われる」というわけです。

面白い人という捉え方では、まだまだ自分自身から逃げている証拠です。自分の心身全体で真正面から受け止めなくては何事も始まらないのです。自分から始まる真の人生は、自己の持つ暗黙の「イデオロギー」を退治しないと永遠にやってきません。
裸の自分を見つめる「勇気」を養うように努力すること、というのが武田からのメッセージです。お伝え下さい。

もしかすると、これをお読みの白樺MLのメンバーは、タケセンは、中学生の女の子に「キツイ」こと言うな~と思われるかも知れませんが、私の生徒にはもっとキツイことを日常的に言っています。存在の中心をしっかりと突かなければ教育は成立しないのです。人間が上っ面のお体裁ではなく、「存在そのもの」として進化するためには、本質的な厳しさが必要です。本質的な「厳しさ」とは、実は奥深い「優しさ」なのですが。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

<武田様>古林です。

丁寧なアドバイスありがとうございます。
お説ごもっとも、です。
自覚できないままに、強固な殻を作り上げてしまった12歳の女の子と
最近、ようやく突っ込んだ話ができるようになりました。
周りをあまりにも気にしなさ過ぎる異様さは自己防衛本能から来たものと
見ていますが、本人には当然のことながら自覚はありません。
真正面から受け止めることをどうやって気づかせようかと頭を抱えています。
環境を変えることと、もっと時間をかけることも必要に感じています。

ただし、中国の問題に関しては、本人自身の内なる声に率直に反応して
行動したようです。タケセンのブログを見ていたらもっと早くに行動していた、
とも本人は言っていました。見せたのは無論私ですが。

取り急ぎ、お礼とコメントでした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

古林様
武田です。

そうですよ。姪御さんに限らず、女の子の自己防衛の強さは、「ものすごい」ものです。まあ、それが人類を存続させてきたのかもしれませんが(笑)。その自己防衛の強さが、逆に環境に合わせて変幻自在に(いい例がーウソですー小池百合子)自己を変える柔軟さ?にもなるわけです。私も中学生(時に小学生も)の女の子と話すときは、断固として・徹底的に・一歩も引かずにという気力を維持するために、全身疲労困ぱいの闘いになります。合わせているだけなら楽しく気楽でいいのですが、歪みを矯正しようとすると「命がけ」になります。女性という人間の「内なる自然」に挑戦することになるからです。ほどほどにしないと間違いなく死にますよ(笑)。

でも実は、これは、「既成秩序」の刷り込みのせいです。男性中心社会の思想と価値意識を「よく」受容する女性が、自己の内なる心身の発する声との軋轢(あつれき)に悲鳴を上げる「ヒステリー」が、いろいろな意匠で出る、というわけです。だから、理屈主義ではない、ほんとうの哲学(恋知)・思想を強く必要としているのは、女性です。男性は単純に頑固に「会社・組織価値」で生きてしまえる、逆の意味で「哀れな」人が多いですから。

ともあれ「文明社会」というウソが組織化された社会の中でエロースの生を営むには、さまざまな創意工夫、発想の転換、「賭け」、が必要です。

話がそれましたので、戻します。
「中国問題」でこの右翼的な教師と闘うのは、姪御さんにとっても、よいことだと思います。中途半端ではなく、徹底的に闘うことー授業ボイコットを含む断固たる抗議の言動を取る覚悟が必要だと思います。おかしなイデオロギー教育は許さないという意思を示す勇気は、自分と他者への深い愛を育てます。
それにしても非・教育者の中学教師が多いですね。それを許すようなテイタラクな大人が多いからですが。人間、理不尽なものと闘わなくなったらお仕舞です。都知事の石原に代表される国家主義者の思想とほんらいの人間教育とは二律背反です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田様。
古林です。

話を聞いて、納得というより背筋が寒くなりました(笑)。
心して腹をくくらねば。

ありがとうございました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

このブログの愛読者・中一の古林さんの姪御さん、いつも見てくれて、ありがとう。
なんでもいいですから、感想や意見、異論・反論等々、ぜひメールでお寄せ下さいね。
タケセンの意見、ちょっと厳しいところもありますが、参考にしてみてください。エールを送ります。
メールは、白樺教育館ー武田康弘
電子メール アドレス :
takesen@mtj.biglobe.ne.jp




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「労働組合と天皇教」(Aさんからのメール)

2005-10-15 | メール・往復書簡

「1989年11月21日、東京厚生年金会館で日本労働組合総連合会の結成大会を開き、初代会長に情報通信労連委員長・山岸章を選出。 総評系単産を加えて78単産、組合員800万人を結集させ、労働4団体の統一を完成させた。 なお、初代会長・山岸は“労働戦線統一の功績”により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章した。」

労働組合のトップが、労働戦線統一の功績で勲章をもらっているとは!!!

天皇教はこんなところにも及んでいるのですね。 (A)

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Aさんから以上の趣旨のメール(「労働組合と天皇教」)が届きました。以下は、私の返信です。

A様。
武田です。

「なお、初代会長・山岸は“労働戦線統一の功績”により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章した。」

知りませんでした。勲一等瑞宝章を辞退したのではなく、受けた!とはあきれますね~。

「日本人は三人寄るともうそこに天皇制が始まる」、と言われますが、実存のエロースという恋知(哲学)の原理と、思想の内容や程度とは無関係の「序列宗教」=天皇教とは、二律背反です。人間を幸福にしない、形式主義という思想=システムを消去するのは、私たち一人ひとりの思想・生活仕方・態度にあると思います。

メールどうもありがとうございました。




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