「白樺の原理」を見て下さい(クリック)
遊びや楽しみとしての競争ならばよいのですが、そうではなく、
学習や仕事、生きること自体が「競争」としてある社会、
国家と文明の成立以降、「競争原理」」に支配されてきた人類史の転換をはかりたい、それが私の壮大な想いです。
競争を原理とする社会から、納得を原理とする社会へ。
そのために、まず、私自身が「納得(腑に落ちる)原理」で生きることを実践する。
それが恋知(哲学)の初心でもあるわけですから。
タケセン
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タケセンさん
市場原理の本質は、誰かを陥れることですよね。そこから這い上がっても、また競争力のない人間は、蹴落とされます。
いわゆる勝ち組に入れなくても、遊びと楽しみを生きることは、可能だと考えられるでしょうか?
この場所で生きると「納得」できたとしても、です。
YS
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「勝ち負け」というのは、意識の一つの様態ですが、
蹴落とさずに【共生する】方に利があることを学べば、今とはまるで違う生き方が可能です。
相手から得をもらい、相手の得になることを提供するという相互性の倫理で学習もします。教え合うことは自他の力を共につけます。また、納得を求めて激しくぶつかり合うことで、自他が共に成長します。
【納得】を生きる原理におくと、競争は小さな一部分にすぎなくなり、桁違いに豊かで大きな世界をひらくことができると確信しています。
タケセン
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タケセンさん
「納得」は、競争からの離脱であることの方が、現実の場面では多いと感じます。
理想的には、仰る通りだと考えています。
YS
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ええ、
競争を【原理】の次元で否定し、納得を原理と置く、納得を原理とする。競争が原理ではなくなれば、納得をつくるためのあるひとつの手段・道具にすぎなくなる。
そんな感じです。
現実場面でも、生に有用な、生の楽しみが広がるような競争ならば、大いに結構だと思います。よろこびが広がらない、勝ち負けに執着してしまう、となると、それは悪しき競争=競争を原理にしていることになり、ダメというか【損】ですね。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!「損」という言葉に「納得」です。が、損得と勝ち負けは、どこかしら構造が似ているような気がします。
YS
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ふつうは、金銭に限らず自分が【得】をすれば嬉しいと思いますが、その単純な心を元にして考えるのが大切だ、わたしはそう思います。
現実の人間同士が、互いに【得】(素直に「気分」よくなれ、心身にプラスになるものが得られる)を広げられるように工夫し、努力し合うことが、ほんらいの【倫理】だと思っています。
競争は、それがゲームの面白さを成立させるためにあるのはいいのですが、それを原理にしてしまうと、得にはならないわけです。もちろんここで言う【得】とは、金銭や目先の得という意味に限定される得ではなく、生の可能性を広げられるようなアイテムすべてのことです。
納得(腑に落ちる)は哲学の命ですが、それは、納得=得をもたらすのです。一番大きな得を。
タケセン
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タケセンさん
なるほど!です。言葉の定義が大切ですね。言葉の定義も哲学にとっては、いのちですね。
YS
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武田康弘