わが国の無責任ぶりは、世界中に知れ渡っています。
21世紀最初のピューリッツァー賞(米国最大の賞)を受賞したのは、『天皇ヒロヒト』(日本題は『昭和天皇』)ですが、この分厚い二分冊は、【無責任の象徴】としての昭和天皇ヒロヒトの人間形成と彼の言動について記した書で、ゆえにネットウヨクや国家主義の政治家たちが忌み嫌っています。アメリカにすり寄る人たちがアメリカ最大の賞を受賞した本を忌避するのですから、ご都合主義もいいところですが。なお、本書のあとがきには、敗戦でも責任を取らない元首という人類史初の国がその後どのようになっていくかの研究でもある、と記されています。
戦争犯罪=責任を頬かむりして生きた昭和天皇に象徴されるように、わが日本国では最高権力者や権威者が一切責任をとりません。下位者=現場で現実に苦労して働く人に責任が被せるというのが日本文化の伝統のようです。よいこと・優れたことは上位者の手柄。悪いこと・罪なことは下位者のせい。苦労させられ、不利な働きをさせられるのは、いつも位の下の者。
こういう文化の中で生きていては、「私」から立ち昇るパワー・よろこび=幸せがくることはありえません。みながスタティックで、固い・重い表情と態度で生きています。
話しは変りますが、この数年の間、官僚主義(惰性態としての組織が絶対の力をもつ非人間的政治)を変えようとした最大の政治家である小沢一郎を葬り去るための検察庁の陰謀。彼らと徒党を組んだマスコミ権力は、土地購入代金を翌年に繰り越して記載したことを犯罪だとして書きたて、狂気としか評しようのない報道を連日のように流しました。それにより国民は小沢=悪と思いこまされ、官僚主義の改革はできなくなりました。経済も大きな打撃を受けました。
現在の政治的混乱を生みだした最大の責任は、検察庁(特捜部)とマスコミにあることは火を見るより明らかですが、無罪が確定した今なお、検察庁もマスコミも一切責任を取ろうとはしませんし、それどころか謝罪さえしません。この【無責任】な生き方・体制こそがわが日本の象徴なのでしょう。おぞましく嘆かわしい事態です。
ひとりの人間としての自由と責任をもち、自分自身へのプライドをもって生きる人になりたいものです。
武田康弘