以下は、アマゾンに出したレヴューです。
名前の一番よく聞えている人は、思慮の点ではかえって最も多く欠けている
武田康弘 "タケセン" (千葉県我孫子市)
1976年から私塾『ソクラテス教室』(白樺教育館内の小学~大学クラス)を主宰するわたしは、ソクラテスを遵法精神の体現者である(悪法も法であり尊重)とするヒドイ嘘を長年「正して」きましたので、本書の学術的で詳細なソクラテス裁判についての解説と見解を読み、よろこびを感じました。叙述は平易で読み易いです。國學院大學での授業がもとになっているとのこと、受講生は幸せですね。なお、《善美への憧れ》という宗教ならぬ宗教=恋知の生は、わたしの支柱」でもあり、表題にも惹かれました。
この本には書かれていませんが、わたしは、ソクラテスが告発された深因は、以下の彼の見解に基づく思想にあると見ています。ブログ『思索の日記』より一部を抜粋しますので、ご参照・ご検討下さい。
「ソクラテスは70歳の時「ギリシャの神々を信ぜず、青年たちを腐敗・堕落させている」として訴えられ、500名の陪審員裁判で僅差ですが有罪となり、死刑となりましたが、告訴された深因は、恐らく、以下のようなソクラテスの見解(法廷における証言)にあると思われます。
「アテナイ人諸君、諸君にはほんとうのことを言わなければならないのですから、誓って言いますが、わたしとしては、こういう経験をしたのです(その直前で智恵があると思われている政界人と対話したことが述べられている)。つまり、名前の一番よく聞こえている人が、神命によって調べてみると、思慮の点では、まあ九分九厘までは、かえって最も多く欠けていると、わたしには思えたのです。それに反して、つまらない身分の人が、その点むしろ立派に思えたのです。」(『ソクラテスの弁明』〈7〉―プラトン全集1)
ソクラテスの政治家への見方は、知識人一般への評価と同じでしたが、彼らのもつ知とは異なる「ほんらいの知」は、話し言葉に基づく生きた知=対話的理性であることが、『パイドロス』において強い調子で述べられています(岩波文庫版では、P.134~146)。それがphilosphos=ギリシャ語「智恵を恋する人」の定義とされますが、次のようです。
「書かれた言葉(文字)は想起の役目をするに過ぎず、いま、実際に語る言葉によって生きる者、真善美に憧れつつ学び、真に魂の中に刻まれる言葉のみが価値だと考え、それを話し言葉で証明するだけの力をもつ者、それを恋知者(哲学者)とか、これに類した名で呼ぼう」(要旨)。
なお、『弁明』で、思慮の点で立派だといわれている「つまらない身分の人」とは、石工などのように手や身体も使って仕事をする人ですが、現代でいえば、エリートや専門的知識人ではなく、ふつうの生活者と考えればよいでしょう。」(武田康弘)
最後になりましたが、本書をお送り下さった著者に感謝です。