言葉さきにありき、という言語論の見方を了解すれば、ソクラテスのイデア論は分明になります。
わたしを取り巻く世界のさまざまな「もの」や「性質」や「出来事」をわたしが認識できるのは、言葉によってであり、もしも言葉がなければ、世界を知ることは不可能です。言葉による区分けがなければ、ものごと・できごとの意味をつかむことができません。言葉によって世界を分節し、さらに言葉がもつ概念を組み合わせたり、ずらしたり、次元分けをすることで、わたしは世界の意味を知ることができます。
そういう意味で、言葉が先にあるのです。ものごと・できごとは、言葉がなければ意味を持たず、意味が分からなければ、人間にとって存在しないのと同じです。さまざまな物質がある、と言っても、言葉によりそれが切り分けられ、秩序づけられないと混沌とした塊にすぎません。さらに名詞ではなく概念語(愛とか誠とか善美とか真実とか)は、言葉そのものです。ものごと・できごとがある、と思うのも、それが言葉で言われる(定義される)からです。
「なにかがあって、言葉で名づける」というのではなく、言葉で名づけたから、あるものやできごとが、そのようなものとしてある(とイメージされる)のです。言葉によって意味付けられないものごとは、人間にとっては存在しないのと同じです。これを明晰に認識すれば、難解と思える「イデア」論(ソクラテス・プラトンによる)も、簡明になります。
一匹一匹の馬は存在しない、ほんとうに存在するのは、馬のイデア(原型・理念・典型・見本)だ、と主張するイデア論は、へんてこな話に聞こえますが、冗談ではないのです。馬という言葉の意味があってはじめて、人間はそれをそれとして認識できるのであり、【言葉が先にある】という言語論の主張と同じことです。人間にとって「存在する」というのは、言葉で名付けられた意味が存在するのであり、ただのものや事態というのは存在しようがないのです。
「善美のイデア」というと、とても難しく聞こえますが、実は簡明です。誰でもが善美という概念語を聞いて、なんとなくイメージが浮かびます。サルに言葉を教えても個物だけであり、概念語は分かりませんが、人間はよいとか美しいいう言葉を使うことができます。善美をイメージし、それに憧れることができます。そのイデアの内実を、明瞭な言葉で定義するのは不可能ですが、そのイメージはだんだん豊かになり、ふくらみます。ソクラテスの言うように、善美のイデアそのものを知ることはできませんが、それを憧れ求めることは可能で、その営み=フィロソフィ-(恋知)こそ、人間を人間にする、という訳です。
これが言語論からみると簡明になるイデア論の意味です。
いま述べたように、人間の認識にとっては、言葉が先にありきですが、それは、下手をるすると「言語中心主義」の陥穽にハマりますので、要注意です。
言葉が先だと言うのは、言葉が言葉として自立する、という意味ではありません。例えば、「石」という言葉の意味を言葉で定義することは不可能です。実際に見て触ってという体験がなければ、「石」という言葉の意味はわかりません。辞書で「石」を引くとどうでるか?これは大笑いの定義ですので、ぜひ引いてみてください。「石」に限らず、大多数の名詞は、体験がないと、意味は定義できないですし、その他の言葉の多くも、体験として五感で感じ知るという基盤がないと、宙に浮いたような話になり、意味が確定せず、内容は曖昧なものとなります。
椅子とか机という簡単な言葉も、それを人間の用途から外して、客観的・物質的に定義することは不可能です。言葉は、人間の目と耳と鼻と口と皮膚で感じ知るという体験=直観と結びついていますので、生きて作用するのですが、それが弱いと言語だけが独り歩きして、意味不明の世界に入ります。五感をふるに用いた心身全体での会得という人間の生の究極の基盤が失われてしまったら、元からアウトです。言語明晰意味不明の迷宮に昇天してしまいます。
人間の認識は、①運動・感覚次元と、②想像力次元と、③言語次元とがよく連動することで、価値のあるものになります。言語次元ばかりに集中すれば、認識は脆弱で不健康なものとなり、偏向していきます。日々の経験という生きる土台が希薄になれば、言葉もまた軽々しく価値の少ないものにしかなりません。生活世界の体験から感じ、想い、考えることがなければ、すべて砂上の楼閣です。言語の使用を可能にしているのは、広大なイマジネーションの世界ですが、それを開発する努力を怠ると、固く狭い言葉に縛られて自由を失っていきます。
「言葉さきにありき」であるゆえに、言語の呪縛力は凄まじいものです。それを片時も忘れてはなりません。生身の生きた人間が言葉を用いて思考し、行為し、対話する、というほんとうの現実から離れてしまうと、おかしな観念の虜になり、人間の生はスポイルされてしまいます。
武田康弘