思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

靖国神社の恐ろしい思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。

2020-08-16 | 社会思想

10年前、2010年のblogです。6年前に再録しましたが、また、載せます。極めて大切だと思うからです。

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靖国神社とは、神社でさえありません。

2014-08-16 | 学芸

『靖国神社』とは、明治政府が、従来の日本の伝統を壊して新たに政府がつくった新宗教=天皇教の施設で、明治2年に「東京招魂社」として建てたものを、10年後になし崩しに「神社」と改名したのです。

 東京招魂社(靖国神社)は、官軍=天皇側だけを祀る施設で、それまでの敵味方なく祀るという神道の思想を逆転させました。

なお、多くの戦争体験者が証言しているように、 「靖国で会おう!」などはヒドイ嘘であり、兵士はみな、故郷を夢み、先祖が眠る故郷の墓に入ったのです。当然ですが、靖国には誰の遺骨もありません。

 

以下は、4年前(2010年)の8月15日に出したblogです。

靖国神社の思想と近代民主主義の思想とは二律背反です。

2010-08-15 | 社会思想


いうまでもなく、主権在民を原理とし自由と平等の理念を掲げた『日本国憲法』と、『靖国神社』の掲げる宗教イデオロギーは、まったく相いれません。靖国神社(明治政府がつくった国家神道)の思想を認めるならば、日本はもう一度、天皇主権の『大日本帝国憲法』時代に戻る他なくなります。

靖国神社は、
天皇大権を当然のこととし、明治以降の日本の戦争はすべて「聖」なるものと主張し、
韓国・中国への植民地支配はなかった!と主張し、
敵と味方を峻別し、天皇陛下のために斃れた者だけを祀ると主張し、
個人の信教の自由を否定して、兵士は日本の軍神=集合神だと主張します。

このような靖国神社の掲げるイデオロギーは、現代の日本国家をつくっている基本理念=近代民主主義の原理とは二律背反ですが、同時に、多神教の『神道』を天皇神格化により疑似的な一神教へと変えた明治政府の所業(神道の国家神道化)は「古き日本」の伝統とも大きく異なりますので、日本の悠久の歴史を主張する人々もまた「靖国思想」には反対しなければならないはずなのです。

明治政府は、富国強兵政策を進めるために、古来の「神道」を「国家神道」へと変えましたが、その思想の下では、一人ひとりのかけがえのなさは否定され、公(おおやけ)とは滅私奉公のことだとされたのです。このような国家主義=靖国思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。
彼らは、戦争のない平和な日本を夢見、差別のない、一人ひとりが大切にされる社会を夢見たはずです。天皇を神として崇め、それに従う人生をよしとしたのではありません。天皇の官吏(官僚)が治める自由のない日本をよしとしたのではありません。軍人が威張る日本をよしとしたのではありません。互いの自由を認め合い、皆でつくる平等なルール社会を夢見たはずです。
死してなお、靖国思想に縛りつけるのは、戦死者への冒涜でしかないのです。政府の絶対の責任として千鳥ヶ淵の拡張整備を行わなければなりません。

65年間、その義務を怠ってきた政府に対して、わたしは激しい公共的な怒りと憤りを感じています。

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以下は、『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です=これが靖国神社の思想ですが、これがよいと思う人は、いるのでしょうか?

小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月



「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」

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マーラー交響曲9番 わたしの愛聴盤は、ジョナサン・ノット指揮 バンベルク響です。

2020-08-16 | 芸術

マーラーの9番、最後の交響曲ですが、わたしは、とても好きです。1楽章から終曲(4楽章)まですべて好きです。最期の消えゆく音の美しさは、なんともいえません。

手元にあるCDは、8枚です。

バルビローリ・ベルリンフィル。
クレンペラー・フィルハーモニー。
バーンスタイン・ニューヨークフィル。
バーンスタイン・ベルリンフィル
カラヤン・ベルリンフィル。
テルソントーマス・サンフランス響。
小沢征爾・サイトウキネン。
ジョナサンノット・バンベルク響

1番よく聞くにのは、ノット・バンベルク響の演奏です。解析力が最高ですが、冷たさは皆無で、人間的な愛に溢れ、マーラーの音楽イデーがもっともよく分かります。深く考え抜かれ、誠実で、曲と作曲者への敬意を感じますが、親しみがあり聞きやすいのです。

カラヤンのは、マーラーの哲学など関係なく、見事な音響の追求と自己への耽溺があります。この自我主義の極北は、競争主義の現代人に合っているのようです。

小沢・サイトウキネンは、カラヤンの日本版(すっきり)のよう。見事な音響があり、「音楽に思想や哲学はいらない」という宣言のようでもあり、音響的なシャープさと迫力があります。カラヤンも小沢も曲の意味・真髄からは遠く、この意味に満ちた長大な交響曲を彼らの演奏で最後まで聴くのには、忍耐が必要です。小沢の悲しみは、生(なま)の悲しみで二次化(高次化)されていません。 意味を味わうという聞き方をしないで、流れゆく音としての音楽に浸るように聞けばよいのでしょうが、それではあまりに哀しい。

この曲の真髄、よい意味での恐ろしさを教えてくれたのは、クレンペラー最晩年の録音でした。クレンペラー83才、1967年の演奏です。形而上的名演というほかなく、心身の奥深くから感動し、痺れてしまいます。ただ、ノットの演奏のような親しみはありませんので、連続して聞くことはできません。ほんとうに凄い演奏です。

というわけで、ジョナサン・ノットが指揮するバンベルク響をよく聞きます。9番(2枚組のSACD)が気に入りましたので、その後で全集を買いましたが、3番も最高の演奏で、一番のお気に入りになりました。


武田康弘

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