ソクラテス教室のマスコット(ソクラテス爺)とミレトスの円形劇場(5月に染谷裕太君が撮影)
たとえ、どれほど熱心な唯一神(キリスト教やイスラム教など)の信仰者でも、
あるいは、皇国ニッポン=天皇教の熱烈な信者でも、
それを信じているのは、その人の「私」です。
誰であれ「私」であることを超えることはできません。
何を見ても聞いても、何をどのように感じても、思っても、それは「私」が感じ、思っていることです。
この当然のことをいつもしっかり自覚していることが、すべての始まりで、はじめの一歩ですが、この恋知のはじまりは、当然すぎて忘れられることがあります。そうすると人間の思考は狂い出し、意味不明の混沌や閉じた信念を生んで、自他を不幸に沈めます。
釈迦の思想の原理である「天上天下唯我独尊」(われ独り尊い)、普遍性を求める自分への帰依=「自帰依・法帰依」とは、上記のように、「私」こそが、これ以上はない原理であり、究極の行き止まりであることの優れた表現でしょう。
ソクラテスの言う「善美に憧れ、真実を求める」のは、「私」です。私は、私の世界を豊かにし普遍性のある考え方を探りますが、それは、どこまでいっても「私」の想念です。私は、私の確信を超えられない、この原理中の原理の明晰な自覚こそが、すべての始まりです。
武田康弘
それをエゴ(ego)とselfとに分けて考えたらどうだろう。エゴとは生物が生得的に持って生まれたもの。しかし人間は、他の動物と異なり
そのエゴを客観視したり、内省したりする眼(能力)を持つ。それが
self。 人間のエゴは仏教の無明、キリスト教の原罪に相当する。
無明の中では何が正しいか分からない。これが愚かさの原点。仏教の八正道の「正」は自分=エゴが無い状態。
このエゴが小は人と人の争いから、大は国同士の戦争 までつながる根本ではないかと思う。エゴは集合、肥大化すれば狂気と破壊になる。
それがが国家的に暴走すると、暴力、戦争。
今日本はアベ首相の個人的エゴにより、モリカケ国政の私物化、法と
民主主義破壊の暴走が起きている。
いずれにしても、政治家が愚かであると国民は不幸。戦争も、民主主
義破壊も、愚かな政治家による人災なのだ。
その二つ、小我と大我とも言え、言葉では分けられますが、
大切なのは、エゴはけっしてなくならないという現実をいつも自覚することだと思います。
自我と純粋意識(フッサール)あるいは、反省意識と非反省意識(サルトル)という見方も有効で、意識の立体視に役立ちます。
わたしは、荒々しい欲望やエゴの働きも無くす(殺す)のではなく、善美に憧れ、真実を求めるパワーとして生かせ!というソクラテスの思想に惹かれます。
ただし、上記は、このblogの主題とは話がズレますが。