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昨日(この下)のつづきです。
?自我=自芽の成長の条件は?
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「なぜ?」「どうして?」という意味論ぬきの「事実学」の積み上げは、人間の生からエロース、喜び・悦び・歓びを奪って、つや消しの世界を生んでしまいます。「人間を幸福にしないシステム」の大もとは「意味論」の欠如にあるのです。
生きるよろこびとは、自分の世界が広がり・深まることですが、自我の成長がないと外側の価値に振り回される生き方しかできなくなります。存在そのものの成長・魅力ではなく、知識・履歴・財産の所有を追いかける人生に陥ります。
では、どうしたら、自我はよきものとして成長するのでしょうか?
私は、自我を「自芽」と考えるとよいと思います。自分という芽は誰にでもあるわけですが、自芽が豊かに生育し、花を咲かせ、実をつけるためには、_内的なエネルギーが必要です。外側から弄(いじく)れば、芽は枯れてしまいます。意味論なしの「事実―知識」の注入は、根腐れをおこさせ自芽を生育させません。
自芽の成長の絶対条件は、「なぜ?」「どうして?」の意味論=内的エネルギーにあるのです。
意味論としての本質学がなく、事実学だけという精神風土の中では、情報が多ければ多いほど、学歴が高ければ高いほど、本を読めば読むほど、死んだ頭―紋切り型のパターン人間になっていきます。ほんとうには何も見えず、何も分からず、ただ言葉上の理屈だけで生きる人生に陥ります。現実問題の現実的解決とは無縁の実力のない「口先人間」にしかなれません。
中身の豊かさ、魅力、意味充実の世界への扉を開くこと=自芽が成長・開花する条件は、「なぜ?」「どうして?」という意味の探求にあるのです。(つづく)
2005.4.14 武田康弘