「生徒が決定的な光を自ら投ずるのでないならば、言葉はいつまでも死んだ記号にとどまり、すべては暗記されるにすぎない」
これは、サルトルの言葉ですが、以下にこの言葉がある論文の前後を書き写します。
「・・・・・どんな立派な先生がついていても、生徒には、まったくひとりで数学の問題に立ち向かわなければならぬ瞬間が必ずやってくる。その際、生徒がいろいろな関係を自分で把握しようと決心するのでないならば、また、問題となっている図形に格子のようにうまくあてはまり、その図形の基本的な構造をあばき出すところの、さまざまな推測や図形を、自分自身でつくり出すのでないならば、要するに、生徒が決定的な光を自ら投ずるのでないならば、言葉はいつまでも死んだ記号にとどまり、すべては暗記されるにすぎない。それゆえ、自ら省みるとき、私は理解作用とはある教授法の機械的結果ではなく、その源は、ただ私の注意力、私の努力、放心と即断に対する私の拒否、結局、あらゆる外的作用者を完全に排除した上での私の精神全体、にある、ということを知ることができる。そしてそれがまさしくデカルトの最初の直観なのである。・・・・・」
『デカルトの自由』(サルトル著・野田又夫訳)