わたしの心身や頭がよく働き、よく用いられているとき、いい感じ、幸せ、充実を感じます。そのとき、わたしは、誰それと比較していません。わたしが上だとか下だとかという意識はありません。わたしの頭がよく働いているのであり、わたしの心身がスムースに動いているわけです。他者を意識していません。
ところが疎外感や不全感が大きい人は、競争意識に囚われてしまい、比較してしまいます。この比較と競争が自我=エゴを生み出します。己の方が上だ!という想念に囚われて、勝とうとする心に支配されます。
海が荒れると水は透明さを失います。意識も同じで、濁るのです。感情が先立ち、意識は渦巻き、自分が正しい、と強引に言い張る心に支配されます。すると、言葉は態度は、相手をやりこめる道具となり、真実を求める清さは消えます。
自我がうまれて強まり、意識はスムースに働かなくなります。
古代インドの哲学者のヤ―ジュニャウァルキヤ(紀元前7世紀)、そしてブッダ(紀元前5世紀)が看破した通り、ほんとうは「自我」という塊はなく、あるのは、わたしの意識の働きです。
誰もコントロールできないさまざな『縁』がわたしの意識をつくっていますが、意識は物のように固定した『我』ではないこと、それがブッダの中心思想の一つで、【縁】によりすべてが生じ出来るというのがブッダの悟りです。
残りの二つが【天上天下唯我独尊】(誰もみなただ一人尊い存在として生まれてきた)と【自帰依・法帰依】(普遍的なよきものを志向して自分自身に帰依すること)です。
したがって、対立するのは、個人 と 共同体ではなく、スムースに働く透明な意識と、濁って塊になる自我です。
明晰で鋭い意見をいうから自我が強いのではありません。わたしの意識を活発にするのは自他の利益となりプラス価値を生みます。そうではなく、濁って塊になった自我を押し通そうとするところに自我主義=エゴイズムが発生します。嫌ですね。
武田康弘
武田康弘