思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

恋の比喩、優れたイメージの喚起がソクラテスの優位を生んだ。

2010-05-04 | 恋知(哲学)
哲学教師や、哲学書読みの専門家や、哲学マニアではない人にとって求められる優れた哲学(恋知)とは何か?
自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)とはどのようなものか?

わたしは、それをつくりたいのですが、
そのためには、まず、哲学(恋知)とは何か?のイメージをうまく提示することが必要。論理言語でカチッと定義し切れないのが哲学(恋知)なので、比喩・たとえ話しを上手に用いてイメージを喚起しよう。イメージとは、直截に与えられる全的なものだから。それがわたしの考えです。

古典中の古典といわれるプラトンの『饗宴』や、フィロソフィーを定義した『パイドロス』を読むと分かるように、ソクラテスの偉大さは、多くの人にとって切実な「恋」の作用・力動として「考えること(思慮)の意味と価値」を説明(豊富な比喩を用いた問答的対話)したところにあります。

それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりを持ったので、多神教のギリシャ世界とは根本的に異なる一神教の西ヨーロッパ世界においてさえもソクラテス出自の哲学(恋知)は圧倒的な力を発揮したのでしょう。というより、恐らく、キリスト教信仰にとって最も手ごわいギリシャ哲学と全面的に闘わなければならなかった彼らは、精緻で堅固な言葉の構築物をつくらざるを得ないところに追い詰められたのだと言えます。それが却って西ヨーロッパで哲学を発展させることになったわけですが、しかし同時に神学的な歪みももたらしました。異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。

また、東洋思想がギリシャのソクラテス出自の恋知に敵わないゆえんも、同じくそこにあります。
ペリクレスが史上はじめて民主制を敷いた都市国家アテネで、ペリクレスの賢妻が開いたサロンに出入りしていた若きソクラテスが後年、アテネの街で市民との対話を活発に行ったという歴史的事実に、その思想(ディベートを否定し、真実を求めて行う問答的対話)の普遍性の源を見ることができますが、
ソクラテス思想の優位性を生んだ本質は、誰にとっても切実な「恋」をテーマにして「考えること(思慮)の意味と価値」を示し、よく生きる=哲学する生を追求したところにあります。ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
君子に仕える武士の道徳を説いた孔子(儒教)がソクラテスの営為に敵わないのは当然ですが、インドの優れた思想や孔子を批判した老子や孟子でさえ及ばないのは、民主制により花開いた自由人の恋愛に普遍的な価値を見出したソクラテスの思索がもつ強みです。ありのままの人間性に基盤を置く思索=哲学(恋知)の営みは、時代を超えて世界的な広がりをもったのです。

ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。

現代において、白紙に戻して自分の頭で考える哲学(恋知)の営みを多くの人のものにするには、ソクラテスの卓越したアイデアをヒントにして、分明、豊饒、愉快な哲学(恋知)イメージを提示することが鍵である、わたしはそう確信しています。
それにしても西周のつくった言葉=「哲学」は、無粋で困った訳語です。わたしは「恋知」に変えようと提案しています。


武田康弘

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7 コメント

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源は想像力ー不毛な修行に過ぎない「哲学」 (綿貫信一)
2010-05-10 13:12:17

初めて「ソクラテスの弁明」を読んだ時、従来イメージしていた哲学書(論文)とは全く違うものだと感じました。ガチガチの論理言語とは程遠いものの、内容の分かりやすさ、深さ、面白さ…は抜群です。

豊富なイメージを喚起するには、文学的とも言える「比喩・たとえ話し」が必要です。これらを非論理的なものとして排除する従来の哲学書は、ストイックなだけで、不毛な修行に過ぎないのではないかとすら思えます。

それともう一つ、(「豊富な比喩を用いた」)「問答的対話」と言う点も恋知にとってとても重要だと思います。書き言葉ではなく、話し言葉。

人間の創造性の源は想像力だと思います。
想像力を喚起するために、比喩・たとえ話、対話。まさに恋知にとってとても大切なことだと思います。
返信する
Unknown (青木里佳)
2010-05-09 22:36:39
これを読んで感じたことです。

人間は生まれ持っているものを忘れてしまい、成長と共に外にある価値観に縛られるようになってしまう生き物。

学歴・地位・お金等、後から得るものによって思考も人生も支配されてしまう。それが全ての判断の基準になってしまう。
良い学校に入れるか?一流企業で昇格できるか?お金持ちになれるか?あるいはお金持ちと結婚してセレブ生活が送れるか?
自分が元々持っているもの(個性・才能)を育て、活かすよりも、外の価値観を身に付け、人々や社会に自分の存在を認めてもらおうと努力する。
「ありのままの自分」ではいられない状態に置かれ、強迫観念が自然と生まれる。それは人によって程度の差はあるが「人々や社会に認められない
のではないか」という不安と恐怖感を糧にしてじわじわと成長していく。
気が付いた時にはその観念は巨大なモンスターと化して、自分をコントロールしている。
そのモンスターの存在を自覚し、徹底的に向き合って闘わないと一生支配され続けてしまう。

ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
(タケセン)

これは本来の豊かな生き方を示しているが、現代はこの生き方・考え方から随分離れてしまっている。
生まれた時からこの生き方を知らず、教えてくれず、外の価値観で固まってしまった環境に放り込まれる。

現代の人々が恋知者のように生きることができれば、とても豊かで充実した人生を送れるのではないかと思います。
1人でも多く恋知を実践し、それが広がっていけば世の中少しはマシになると思います。
まずは自分の中にいるモンスターと向き合ってみませんか?

返信する
私も考えてみました。 (内田卓志)
2010-05-09 22:24:07
私も先生のご意見に賛成です。
先生のご主張から、私も考えてみました。
 超越性原理は、宗教的な原理でありそれは普遍宗教だったら必ず所持しているものでしょう。宗教内部では、この原理が教義ですので徹底的に守り貫く姿勢が本来求められます。
解放の神学や日蓮宗の不授布施派などが最も良い例です。ただ、ほとんどの日本の宗教(特
に仏教教団)は超越性原理を権力側からの弾圧を恐れ放棄したのでした。本覚思想の拡大・
展開は必然だったのかもしれません。
 そこで、21世紀に求められる批判原理とは、このような超越性原理に代わるものでなければならないはずです。超越性原理はある場合、強力な批判原理として成立しましたが、またある場合は排他的原理として成立し、究極的には宗教戦争を引き起こす要因ともなりました。そのような超越性原理を乗り越え、多様な宗教や人種の人々が同じ土俵で対話可能な批判原理の形成が必要なはずです。
 やはりそれは、ギリシャ以来の哲学の伝統から導き出せると思うのです。それこそ哲学の王道
(山脇先生曰く)である主観性の知を鍛え深耕することに他ならないと思います。 
          
 自己に対する徹底的な智見・徹底個人主義による生活の実践により生活(世界)の具体的経験
を対象化していく。その上で必要なことが、「自問自答と他者との対話」なのです。
そのような具体的経験をもとに弁証法的に対話(継続的にらせん状に自問し対話を行うこと)を継続的に行っていくこと、そのような一歩一歩の地道な行為により哲学的な批判原理を合意形成すべきものと考えます。
 もちろんその合意形成とは、文明の衝突論とは異なる東洋や西洋を包括するところのある種の普遍性が必要であり、それは宗教の超越性原理ではありません。認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また主体的な行為でなければならいでしょう。
 つまり、どこまでも主観的な知と主観的な知との対話から生み出され成立する共感や共鳴・共有、そこから合意形成を始めるべきものが、現代の批判原理たりうるものだと考えます。
 また、この批判原理はかつてハーバーマスが批判されたような、西洋中心主義の知
ではないことを付け加えましょう。

内田卓志
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21世紀の恋知を拓きましょう。 (タケセン=武田康弘)
2010-05-09 22:18:15
古林さん

個人的な体験と過去の哲研での話も交えて、分かりよく立体的なコメント、感謝です。

「健全に哲学する」とは、エロース豊かに哲学することですよね。豊かな言葉、分明な言葉での哲学こそが哲学の本体なのであり、静止した学としての哲学などに用はないのです。文献学や書物の解説は、きちんとやれば役立ちますが、哲学の本体は、生の現場で能動的に考える行為であり、文献学ではありません。哲学(恋知)することを専門知化すれば、その時点で哲学は衒学になり死ぬのです。

白樺で21世紀の新しい世界を拓こうではありませんか。全世界に先駆けて。共に。
返信する
哲学することの意味 (古林 治)
2010-05-09 19:37:49
10代の頃から哲学には関心がありました。哲学には、より良く生きるために必要な知恵、もしくはヒントのようなものがあるのかも、と思っていたせいでしょう。
哲学がタケセンの言う、
『自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)』
であったならまったくその通りで、「哲学する」とは、人が追求する価値のある行為です。

一方で、学校で学ぶ哲学はそれとは異なるもので、何か『奇妙なモノ』、『私たちの生きる世界と乖離したモノ』という印象を持っていました。
難解な用語を駆使し、現実とは異なる崇高な(観念の)世界があるかのように語る人が少なくなかったですし、哲学を語る動機に不純なものを感じてもいたからです。それはタケセンの次の指摘の通りです。
『異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。』
哲学することで、他人(ひと)にわからぬ難解な概念を操作できることが優れている、という錯覚に陥ってはならないでしょうし、私たちの生きる『意味と価値の世界』から乖離した哲学であったなら哲学などないほうがよいとさえ言えます。

健全に哲学する、そのためにはどうしたらよいのか。
タケセンが実践している通り、徹底して生活世界に身を置き、徹底して日常言語によって考え、徹底して他者と対話し続けることでしょう。(私も専門用語‐哲学用語を出来うる限り使わないよう配慮してます。)
当然のことですが、他者とともにより良い考えを導き出そうという強い意思を前提にしていることはいうまでもありません。
実はこれが本当は難しい。学歴の高い人、地位のある人ほどこれができない。この国で長い間醸成された序列意識というものが邪魔をするのでしょう。東大病はその際たるもの。
私の考えは正しくなければならない、という意識が強すぎて柔らかく自分の考えを紡ぎ上げることができず(非を認めず)、過剰に自己防衛に走ったり攻撃的になったりするのです。
実際に偉い人がソクラテス(タケセン)にやり込められる場面を数多く目の当たりにしてきたので、強くそう思います(笑)。気をつけねば。
自戒をこめて。

追伸.
昔、タケセンのところで(確かフッサールの勉強会やってたとき)、なぜここまで異様に執拗にこねくり回してしつこくしつこく却ってわかりにくくなるような説明や表現が哲学には必要なのか理解できないと尋ねたとき、
『一神教(キリスト教)と強力なギリシャ哲学との折り合いをつけるための2000年間にわたる葛藤の集積があったのではないか。』
というような答えに妙に深く納得した覚えがあります。それ以来、哲学との距離のとり方が少しわかったような気がします。
そういうわけで、次の一節は今も私にはふか~く響いてきます。
『ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。』

哲学ではなく、恋知であるならば、これからもせっせと鍛え上げていこうと思いますし、皆さんにも積極的にお勧めです。
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「超越性の原理」は乗り越えるべき思想 (タケセン)
2010-05-08 00:00:03

「竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。」(内田)

その通りです。わたしは、20年~30年ほど前ですが竹内芳郎氏の著作を全部読んで、いくつかは詳細なレジュメもつくり、討論会も催しました。竹内さんも「武田さんほど私の思想を理解している人はいない」と公言していたくらいです。

しかし、わたしはその「超越性の原理」という思想は、乗り越えられるべきものと見ています。自己や既成社会への反省・批判の立脚点を「超越性」に求めると、その自らが選んだ(つくった)特定の視点に縛られ、批判は外在化し、思想は宗教化(絶対化・超越化)するからです。

そうではなく、イマジネーションを広げる営みにより、いろいろな立場の他者の眼・心を少しでも自分のものとして複眼化し、その眼・心による「自問自答と他者との対話」をラセン的に繰り返し行うこと。
自らの生活世界における具体的経験を「対象化」する視点は誰しもが持っていますので、その対象化する力を意識的に鍛えることで、「自問自答と他者との対話」は豊饒化するのです。

それが優れた反省や批判の視点・立脚点になる、というのがわたしの考えです。

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大変共感する内容 (内田卓志)
2010-05-06 23:58:46

大変共感する内容です。
 武田先生のご主張よく分かります。哲学に携わっていない人、関心がないと言っている人にこそ、本来の哲学が必要だということでしょう。武田先生に共感する最大の点はつまりそこなのです。哲学は、大学で行う哲学史と難解な認識論や言語論を探求する重要な側面を持っています。
 つまり純粋学問の世界では、このような研究や探求が人文科学や学問の進歩・発展に大変重要なことです。
 ただし、本来のソクラテス以来の哲学の本筋は、民が現実世界の問題や困難に対峙したところで、どう原理的に物事を考え、そこからどう行動していくかという切実な問いかけにあると思うのです。だから武田先生に共感します。
 今までは、私も大学の哲学者がそういうことをやるべきと思っていました。(山脇先生は大学内で健闘していますね)
ソクラテスは、「恋」という誰もが身近な問題に対しそこで対話を行いました。仏教の哲人たちは、「恋」を執着と考える傾向が強く、執着をすて自由になることに重きを置き対話の対象
とはならなかったのです。
 その後、龍樹がでて『中論』等により縁起説(空)を展開して東洋的関係論を確立するのですが、そこでも深遠かつ難解な哲理(言語論)のため民の関心とはなりませんでした。
 恋(愛欲の肯定)については、「密教」にいたって興味深い展開を示しますが、これも一方通行で民と民の対話にまでには発展しなかったのです。
 ただし、最近になってようやく本筋である民の側から行動を起こして行かないとダメだということがわかってまいりました。
行為の主体は、生活しているこの「わたし」であり「あなた」なのです。白樺の運動の要はそこにこそあると見ております。

追伸:一神教と哲学の問題、大変興味深く拝読。この問題に関しは、かつて梅原猛氏が一神教の危険性を指摘し、加藤周一氏が反論しました。竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。私は仏教徒なので一神教論者ではないですが、検討すべき重要な問題です。今後武田先生と
考えてまいりたいと思います。
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