ルソーのいう「一般意思」とは、
十分な情報が公平・分明に与えられ、特定の考えに誘導されることが全くないという条件の下で、互いの差異を何よりも尊重するという立場により、完全に自由で対等な討論が活発に行われることでつくられる公共的な意思のこと、と定義できます。
一般意思は、その社会の構成員の全員参加による集会で「共通の利益」のみを目がけてつくられるのですが、それは、各人が「個別の利益」を追求することから生じるもので、多様な個別の利益が十分に主張される中で次第に明確になる「共通の利益」です。
それは、「法」として表現されます。
「一般意思」とは上記の意味なのですが、どうも学者を含めて誤読する人が多く、「一般意思」を全体主義に結びつけるような荒唐無稽の解釈さえ出回っています。ほんとうに困ったものです。民主主義とは「自由・対等・多様・公正な議論」によってつくられる公共意思=「一般意思」に基づくという原理が曖昧になれば、民主主義は元から崩れてしまいます。
したがって、小学生からの順を踏んだ議論の実践と自分たちのことは自分たちで決めるという自治の実践がしっかり行われないと、民主主義はうまく作動しません。今はまったく等閑に付されていますが、「議論と自治の教育」は、民主制社会では何よりも大切なのです。
武田康弘
コメント者(mixiのあー123)の言説を生みだす文脈も理解せずに、名も名乗らずの無責任発言にお応えする必要はないのですが、一言だけしましょう。
ここでは、王権神授説に基づく王及び教会支配の行き詰まりを超えて「近代市民社会」を生みだすために努力した哲学者たちの思想について語っているのですよね。全体論理である哲学思想の文脈であることも弁えない名無し人さん、以後は、次元の違いを弁えて発言されるように。
ネット上に転がっているコピペ一つに易々と釣られていてどうするのです?
一般意思に問題があったことは歴史の示す事実。
またハミルトンらが起草した合衆国憲法には、フランスにおける主権者の一般意志の表明による法律の至高性といったルソー的な人民主権論は忌避され、フランス流のルソー・ジャコバン型国家観と対極的な、多数の私的な団体が混在する多層的な多元的社会を背景とした市民社会主導型のトクヴィル・アメリカ型国家観が存在するとの指摘があることは、憲法論の指導者ならば御存知の事でしょう。そして中央政府が専制的なものになりかねないとの批判を受けて修正十条、権利章典で基本的人権について定めた。
せめて高校生レベルではなく大学生レベルでコメントを返しましょう。
立憲論を教える立場ならば、20世紀に到り、近代民主制の限界に直面した論者、例えばケルゼンの価値と本質の議論ぐらいは頭に入れてから民主主義の擁護しないと、貴方のいうネットウヨクにすらかないませんよ。もう少し精進なさい。
アメリカ合衆国は、「近代民主主義」の原理でつくられた国家です。ロックの思想の影響が強く、まぎれもなく【社会契約】の思想に基づいています。これは義務教育で習う基本で、今更書くまでもありません。もう少し基本の勉強をしっかりやってください。
近代民主主義という思想の枠組みは、ホップスから始まり、ロック、モンテスキュー、ルソーらをへて、カントからへーゲルによりつくられたのです。
「自由の女神」象はフランスから贈られたもの。
それに、万歳ね~。ネットなんとからしい!ですが、最近のウヨクは、アメリカ民主主義万歳!に変わったのですか?(笑)
アメリカ合衆国憲法万歳
トックヴィル万歳
ハミルトン万歳
しかし、優れて創造性に富む思想は、しばしば現実において負の効果ももたらします。悪用されることも多いのです。現代思想に極めて大きな影響力を持つニーチェもそうですね。
これは、われわれ人間のもつ多面性&不条理性と深く関係することであり、あなたのような単純な論理(攻撃するために負の材料だけを寄せ集めるイデオロギー的&ヒステリー的&ネットウヨク的な)では、人間と社会問題の本質を見ることはできません。
ウヨクにせよサヨクにせよ、肥大化した自我・ルサンチマンを抱える自我は、冷静・公平に物事を見ることができず、自分のはじめの直感を補強する形でしか考えられないために、有用な思想をつくれず、何かしらの【絶対】(例えば天皇主義)にしがみつく他なくなるのです。
歴史的教訓に学びつつ、ルソーの持つ本質的な正しさ(主権在民の原理)を生かすようにする以外に、近代社会を構築する方法は、少なくとも今のところありません。
もし、ルソーの主権在民の原理(自由と平等の原理にたつ公論による決定)をその根本において批判するのならば、それを超える原理を提示しなければなりません。これは思想批判のイロハです。
一般に啓蒙思想家といわれるジャンジャック・ルソーは、母親の顔を知らず、幼少の頃、飲んだくれの父親に捨てられ、乞食と盗みをしながら各地を流浪し、長じてからは貴婦人のつばめ(売春牡馬)として日々の糧を得るという陰惨な生涯を送り、まともな躾も正規の教育も一切受けたことのない(にもかかわらず文章の天才であった。)野蛮人でありました。
故にルソーは、王侯貴族僧侶商人はむろん彼よりも幸福な人間、さらに学校、教会、家庭といった中間組織を激烈に嫉妬、憎悪し、ついには精神を破綻させ、人間はみな等しく、それらを否定し、ルソーの如く野蛮に動物として生きて行くことが理想であるとの結論に達したのです。そこでルソーは人間皆帰動物化を実現すべく、彼を世話してくれた女中との間にもうけた5人の子供を動物にすべく自然の中に捨て去り、更にその上、実に美しい言葉で人間の動物化を促進奨励する、稀代の煽動書を書き上ました。それが人間不平等起源論と社会契約論の正体なのです。故に両書にすっかり洗脳されたロベスピエールら市民(市民とはルソーの造語でルソー信徒を指す)らは王侯貴族商人僧侶はむろん革命に反対し、参加しない人間を次々に虐殺していき(例.ヴァルミ大虐殺)、学校、教会さらにフランスの文化的歴史的遺産を次々に破壊していき、フランスはルソーの思惑通り現存する地獄と化し野蛮へ転落しました。もしロベスピエールがテルミドールの反動に遭遇し処刑されなければ、フランス革命の犠牲者は何百万単位で増えたであろうと言われています。そして20世紀のフランス、パリでルソーに取り憑かれ、彼を熱烈に愛したクメールルージュ(ポルポト派)はカンボジアで政権を掌握するや否や、ロベスピエールの如く、大虐殺と大破壊を敢行したのです。
ロベスピエールやポルポトだけではありません。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンも熱烈なルソー信徒であり、マルクスレーニン主義はルソー思想をヘーゲルと近代経済学で味付けし、これにロシアの伝統的領土拡大主義を加えた淫祠邪教に過ぎず、ロシア革命もカンボジア大虐殺同様、20世紀に甦ったフランス革命であり、ルソーの嫉妬と憎悪と破壊願望の顕現化であります。死せるルソー、生けるロベスピエール、レーニンを走らすと言った所でしょうか。もし石原将軍がエドマンドバークのフランス革命の省察を読んでいたならば、フランス革命を専制から自由への進歩ではなく、自由から虐政への転落と規定したに相違なく、戦争史大観も大きく変わった事と思います。