受験勉強は、紋切型頭=人間しかつくらない。
言い方を変えれば、機械頭であり、二次元頭であり、白黒頭だ。
多層性をもたず、内部から湧出するパワーを持たず、「わたしの頭」ではない。
多層性をもたず、内部から湧出するパワーを持たず、「わたしの頭」ではない。
受験塾とは、そのような頭に変える施設であり、頭=人間から色を消してしまう。
フッサールの言葉だが、「事実学は事実人しかつくらない」。
いまの学校知は、身体知、感じ、想うという人間的頭脳の中心であるイマジネーションを育てず、言語中心主義=言葉の暗記中心の堅苦しく息苦しい知だ。
意味論≒本質論のない事実学の累積は、特定パターンを仕込むことで人間的な頭脳を破壊してしまう。だから「優秀者」ほどたんなる「事実人」(犬やサルではなく事実として人であるに過ぎない)に陥るのだ。「東大病」。
水面下を見ること、地面を掘り進めること、内的意味充実の世界を拓くこと、多色で広がりゆくイメージをもつこと。自由自在に羽ばたくこと。これらのもっとも重要な人間的頭脳を破壊し、灰色で単線的で色艶のない頭=人間を製造するのが、受験主義の勉学であり、受験塾である。受験塾が大手をふるう日本に未来はない。
哲学(ほんらいの訳語は「恋知」)も沈思と内的自己の開発ではなく、「言語ゲーム」という趣味の世界に陥る。
武田 康弘