思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「教育委員」とは、国体思想を持つ歪んだ心=「人間抑圧者」の集まりのようです。

2013-09-21 | 社会批評

 
 

 自民党や維新の会の各地の県議・都議・府議たち(背後の国会議員と彼らに従う各地の教育委員たち)は、文部科学省の「教科書検定」という先進国にあるまじき抑圧だけではあきたらず、検定を通った教科書にまでイチャモンをつけ、ついには、教科書の選択にまで政治的に圧力をかけ、校長を呼び出して、日本主義(戦争への反省や批判を載せない)の教科書の採択を要求する事態が各地で起きているとのことです。(東京新聞)

 ネットウヨクと同様の思想をもつ安倍首相や、政治家の強権で教師への圧力を高めて、きちん口を開け・声を出して『君が代』(明治天皇に捧げられた天皇家への賛歌)を歌っているかを確認するようにまでなった東京都や大阪府の教育委員会の役人たち。 国連のユネスコからは、当然、人権侵害国と非難される行為を白昼堂々と行うわが日本という国は、「個人の対等・自由に基ずくルール社会=人権と民主主義」の国としては、すでに終わっているようです。

 経済的利益にしか関心のないエコノミックアニマルたちと符合する安倍政権は、天皇制国家主義者で『反・人権宣言』の著者・八木秀次(安倍首相の親友)を政府の教育委員にして、「天皇を頂くわが日本国は、」という憲法全面改定のために子どもたちへの《洗脳教育》の準備を着々と進めています。実に恐ろしいことですが、日本主義(国体思想)による政府の宣伝機関となっているマスコミは、東京新聞(≒中日新聞)など一部の例外を除いて再び「大本営発表」にまで成り下がり、ジャーナリストとしての誇りをもつ人は極めて少なくなりました。

 「国家主義」への反省のない人々。哲学的には愚かの極みで、民主的倫理をわきまえない非道な人たち、一口でいえば、頭も心も貧しいダメ人間たちが支配する愚かな地域と国をこのまま放置してよいのでしょうか(なぜ、このような愚かな事態になってしまうのかについては、先日のブログ『ドイツはナチズムを否定、日本は靖国思想を否定せず』をご覧ください)

 近代民主主義の原理(人間存在の対等性と自由=人権思想)をしっかりと踏まえ、一人ひとりのかけがえのない個人のために社会はつくられるという思想を堅持し、予めのイデオロギーや宗教(例えば天皇主義・国体思想)の強要は許しがたい「悪」であることを明晰に意識し 【民主的倫理】を不動の座標軸として生きることを始めなければ、わが日本は再びかつてきた道へと転げ落ちます。

 

 わたしは、国会から行政を監視する委員会=「参議院行政監視委員会」の調査室客員として、国会職員のみなさんに講義(対話式の柔らかで自由な授業)を行ってきた者としても、わが国が、倫理的・政治的に堕落するのを見過ごしにはできません。

 なお、このblogに異論や反論のある方は、コメント欄にお書き込み下さい。暴言・罵詈雑言は削除しますが、内容のあるものは、すべてそのまま公表します。また、直接対話・議論にも応じますので、ご連絡下さい。一般の方でも、役人・官僚でも、政治家でも、学者でも、報道関係者でも、どなたでも結構です。

武田康弘

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セキュリティホールやバックドアのように (ふーれん)
2013-09-23 01:40:14
天皇教も仕事教も世間教も、信じるに値する価値基準が個人の中ではなく外
(天皇制、国家、企業、世間)にあり、個を捨てることこそ幸せであるとする思想は、
全て同類に見えます。

全体主義における支配・管理側の"旨味"を知っていて、社会の個々の構成員が
本当の幸せ、本当の豊かな人生を「各々が自主的に」真剣に考え始めると
その"旨味"を得られないことを経験的に知っている人間達がいかなる時代のいかなる
体制下にも存在していると感じます。

彼らは支配・管理側(=自分達)が持つ価値観と、被支配・被管理側(=民衆)に押し付ける
価値観を明確に切り分けており、彼らの真の意図は、その価値観の切り分けと使い分けに
より、思想的に民衆が自ら自由を縛り強者(=自分達)の言葉に制御されやすい下地を
維持し、民衆が自己決定の抑制を当然と受け入れ、その結果前者の価値観を継承する
自分達が利を得る構造を維持することであると考えます。

従って、その表面的なネタが天皇制、国家、企業、世間とそれぞれ違っていても、
彼らが真に信奉するのは、前述した利得構造そのものの維持であり、おそらく彼ら自身も
自己暗示によって自らに対しても真の意図を隠している部分があると感じます。

従って彼らは、どのように時代が進んで個人が民主的な意識を獲得する割合を高めたと
しても、いつでも民主主義を乗っ取って全体主義に変容可能なように、まるで
コンピュータシステム上のセキュリティホールやバックドアのように様々な種を蒔き、
その管理維持に腐心しており、天皇制もその一つに過ぎないのではないか、と感じます。



だいたい、天皇制の功罪、歴史上の文化的な位置づけ、現代の国民が獲得すべき
理想的な思想や教育はそれぞれ切り離して考えるべきであり、最初から天皇制を大前提
という不自由な視点からしか出発しないのは、「日本人は馬鹿です」と内外に公言して
いるようなものだと感じます。

なぜならその論理だと、皇族や王族がおらず人民が自主的に統治している国は
全て人心がバラバラで社会体制が内部崩壊していることになり、そんな馬鹿な話は
ありません。
そうでないのなら、ただ単に日本人が自らを律することのできない劣った民族で
あるのか、日本の民主主義が未熟でありそれを熟成させる意思を放棄しているかの
どちらかとしか、外からは見られないでしょう。

皇族に「様」をつけて、ずっと天皇制継続をアピールし続けているのは、子供達の意識に
「それが自分達の"普通"だ」「皇族が無くなったらなんとなく違和感がある」という
印象を植え付けて、この体制を存続させる意図があるからだと思います。

もしも(皇族の人権は考えず)絶滅危惧種のように天皇制をノスタルジックに維持したいと
日本人が考えているのなら、天皇制が自分達に必要なものでは全く無く、
社会の維持には全く関係が無く、単なる「日本人の酔狂」の一つなのだと言うことを
しっかりと子供達に教育し、受け継いでいくこともすべきだと思います。


タケセンさんの日記をお借りして自分の言いたいことを書いたら、このような長文コメント
になってしまいました。失礼いたしました。
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