★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

レジャーランドと健康ランド――ミッションの再定義を中心に

2023-11-25 23:23:14 | 大学


誰がそのもっともらしいことを言っているか注意せよというのは、大人の常識であるが、肝心なときにその常識を思い出さずに、そこはそういうことにしとけよみたいなことに対してだけ思い出す。――そういう人間が社会の空気を制圧するといまみたいな感じになる。

かかる人間的空気のおかげかしらないが、――結局実現したのは脱近代じゃなくて脱温暖湿潤気候だった。

コミュニケーション能力を観察できなにか人間性を判断できると考えるのは、そもそもコミュニケーションを舐めてる。もっと言えば人間を舐めている。その結果がこの有様である。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
――中澤系『uta 0001.txt』


大学はレジャーランドか、みたいな議論は定期的に催される。そろそろ入試の季節だからであろうか。管見では、――苦労して入った割にはずっと出られない人たちがおり(ここにいる)、もすかして遊園地に見せかけた監獄なのではないだろうか。そして、やっと娑婆に帰ってきたら白髪の老人になってましたとか、どっかできいたことある話だ。最近は竜宮城にもミッションの再定義などの地上の何かがながれてくるのであるが。酒池肉林ではないから、竜宮城でも監獄でもどっちでもかまわない。もっといえば、レジャーランドでも健康ランドでも解放区でも植民地でもなんでもいいけれども、――従業員の給料、とくに事務の給料をあげてほしい。あとレポートには自分の名前を書け。

夕方は寒くなりました

2023-11-07 23:58:01 | 大学


唯我は子產むわざもしらざりしに、しうの御使にいちへまかりしに、又わたくしにもぜに十貫を持ちて侍りけるに、にくげもなきちごを抱きたる女の、これ人にはなたむとおもふ、子を十人までうみて、これはし十たりの子にて、いとゞさつきにさへ生れてむづかしきなりといひ侍りければ、この持ちたる錢にかへてきにしなりと。姓は何とかいふと問ひ侍りければ夏山とは申しける。さて十二三にてぞおほき大殿には參り侍りし

繁樹老人は、市で買われてきた幼児だったという。市は寒かったであろうか、暖かったであろうか。

祭りにまつわるエトセトラ

2023-10-29 16:39:13 | 大学


教師をしていると学生の虚言癖をどうするかはいつも悩まされるけれども、倫理自体を教えてもだいたいだめで、実力をつけないと結局は嘘をつくようになるということを教える必要があるのだ。しかし、この必要性から逃避していつも倫理だけいう教師が多くなる。教師という職業、もともと少し嘘をつくことが必要だということもあって、そういう心のからくりがわからなくなった人間もたぶん多いんだろうと思う。

このような意識の欺瞞と惰性は日常性という維持が目的のせいでもある。これだと息が詰まるので、人間は、嘘を虚構という花火にすることによって昇華してしきり直しをするという発明を行った。スポーツ大会や祭りもその一種であろう。スポーツが虚構化されているのは言うまでもなく、いわゆる「文化」だってそうなのだ。だから、文化祭も少しスポーツの祭典の香りがしないでもなく、スポーツに文芸臭も付着しているのだ。

昔の学生に会って、黄表紙とか太宰の話をしてするする通じるいうちは世の中捨てたものではないが、誰も彼も疲れている。

文化祭で、こういう疲れを別のものに変形しなくてはならない。

もっとも、わたくしくらいになってくると、学園祭への参加は、秩序維持(警備)ぐらいだ。ゆえに、なにゆえ我が輩は秋空のなかを出勤しているのであるかと思わざるをえない。

海の向こうでは相変わらず戦争である。無駄な批判的能力をそぐと肯定する力はおろか伝言も精確にできない人間が大量生産されることがわからないようなやからは教育に関わってはならない。当たり前であるが、戦争責任やらなんとか責任は、その主体がどう評価され信用されているかによる。で、個人を超えた主体の場合は、過去の歴史や現在や未来(の見方)によってその信用は変化し、「やはりやばい」や「不幸にもやばい」、「なくなってもかまわんのでは」といった価値によって規定される。我々は価値から生ずる責任にむかって歩んでいる。今戦争をやっている国でさえそうなのだ。

学園祭でなんか文化の香りがなくなったとか言うてるそこの同世代のおじさんに告ぐ。その香りのいくらかは酒のにおいである。バッカスは退場せられた。学園祭の治安維持係の一角を担っているので、コロナ開けの学生の酒喜乱舞を怖れていたのであるが、とっくに学内では普段から飲酒が禁止されていた。チャットGPTにきいてみた。

酒の香りとの関連について言えば、一部の学園祭ではアルコール飲料を提供することがあります。ビールやカクテルなどのアルコールの香りは、祭りの一部として楽しまれることがあり、社交的な雰囲気を醸し出すことがあります。ただし、未成年者へのアルコール提供は法律に反する場合があるため、適切な規制と監督が必要です。
 学園祭は、文化とエンターテインメントが融合する場であり、多くの異なる香りが出会う場所でもあります。その香りは、参加者にとって楽しい思い出と共に残ることでしょう。


そういうことを聞いてんじゃねえんだよ。

学生の展示を見て回るとそれなりに文化はある。文芸部の展示は、自分たちの同人誌と好きなライトノベルとかイラストとかが同一平面に並んでいるカオスで、しかもえらく盛況だなと思ったら、ほぼ部員が客みたいに騒いでいるという、読者文化論的に非常に興味深い事態が展開されている。美術部はこれにくらべて作品をみてくれみたいな感じが強く、展示の裏のすごく奥に眼光鋭い部員が座ってるみたいな感じがいつもの感じである。ジャズ研はいつもがんばっている。

秋なのに授業

2023-10-05 23:51:24 | 大学


就職したからといって仕事が出来るとは限らないのは当たり前だが、案外その自明の理を想定しておかないから自分の無能さにびっくりというのがあるわけなのである。入学できたからといって卒業できるとは限らないのと同じで、というかそれ以上に、「限らない」のである。庇護する人間いなくなった状態を早く経験しないといけないのは昔も今も同じだ。最近は社会も社会事業意識化したケアの論理が、むしろ社会の学校化をおしすすめている。

学校化が進むことは、逆に学校の社会化が進むことの裏返された現象でもある。実際は対立物は、つねに総合浸透しているから、変容が起こるのだ。例えば、高野悦子/岡田鯛のコミック版『二十歳の原点』は、現代の大学生が、自分に目覚めて先生になろうとする話になってた。以前読んだときには、なんでそんな原作無視したことするのと思った。がっ、いまやみんながいやがる先生になろうとすることは、全共闘参加ぐらいには勇気のいることになったのである。闘争の場は学園闘争みたいにあらかじめ広場が与えられていたみたいなことよりも、もっと苛烈に、小学校や中学校で権力とのそれが実現してしまっている。

今日も授業で少し間違えてしまったが、つまり、経験を重ねたからといって間違いが減るとは限らないのも当然である。

我々は自分の人生の中でのみ、自分に価値を求めようとするからおかしいことになるである。ノーベル文学賞はもう宇佐見りんでいいだろ、と思う一方、宇佐見氏が真の価値が見出されるのが1000年後かもしれないし、永久にないかもしれないとも思うのである。これはまじめに思うのであるが、――文学も哲学もいつ価値が判明するのかわからんわけだが、平気で1000年以上かかったりするわけだ。没落しつつある西洋文明の記念にプラトン大先生にでも受賞させておくべきだ。

休講

2023-06-02 23:56:51 | 大学


就職問題で始終頭を悩ますと同時に、卒業試験が可なり気になる。これでお仕舞いだからといって、教授連中は斟酌してくれない。出来ないものを卒業させると学校の信用に関するから、進級試験よりも寧ろ厳重だ。うっかりしていると、就職が及第で学校が落第のこともある。素より卒業が条件で採用されるのだから、これは当然取消になる。そこで学問と社会の両方面へ心を配らなければならない。教室と掲示板に等分の注意を払うことが必要となる。
 学校の掲示板も、
「何教授今明両日休講」
 なぞというのを楽しみにしている中が花だ。昨今の掲示は学生の運命を決定するから恐ろしい。
「駄目だよ」
 と口には言っても、会見をして来たものには皆多少自惚がある。自分のことだから然う悪くばかりは考えない。殊に多少縁故もあるし、馬鹿に調子が好かったと思って九分通り大丈夫の積りでいる男が、

安田関係諸会社に就職確定したる諸君左の如し

 の次に他の名前ばかり立派に並んでいるのを見て顔色忽ち蒼白となる。


――佐々木邦「恩師」


大学は雨のため休講

仕事らしき日々

2023-04-21 23:48:05 | 大学


日々、仕事らしきことをやっている。

戦前の大投手、スタルヒンについて何も知らなかったが、ウィキペディアを一読してびっくりした。こんな紆余曲折、波瀾万丈の人自体が、いまだったら表舞台に現れることそのものがなくなっている。何もやらない代わりに、息を潜めて逃避している人生を送らされている若者達が能力が落ちまくるのは当然だ。いわゆる「平和ボケ」である。

デビュー当時から毀誉褒貶がはげしかった小説家がなにか失言したとかで炎上していた。しかしそもそも失言することがコアにあり、道化を自ら演じる小説家なのをしらないのか。「青二才」というのは、そういうことだ。――というか、この小説家のノリに乗じて、人を馬鹿にすることをおぼえ、自分はフィクションの才能がないもんだから、大学で反アカデミズムというか脱植民地主義的ななにかの論陣を張って調子に乗っていた数え切れないほどの連中は、いまのこのような事態をどう考えるのか。青二才のコピー青二才は、炎上小説家よりもはるかに劣っている。

何年かぶりにくずし字を集中して読んだが、自分が考えているよりは衰えていなかった。やはり二十歳ぐらいの練習は体がおぼえてる。――ということは、わたくしの実力は、いまや、大学一年生の前期ぐらいだ。読むはじから次を予想する能力というか偏見があがってるだけ、間違える可能性も高くなってるように思った。面白かったのは、くずし字読んでたら二十歳頃に弾いていた曲を思い出したことにすぎない。

のみならず――若い頃のちんたらした勉学のせいで、いまになって四書五経を読み散らかしている。いろいろと間に合わない。

おれも蝗食べてきたから仮面ライダーに変身出来るかと思っていたが、ただの原付乗りで、最近は健康のために歩いている。とりあえずちゃっとなんとかが生意気なことを言ったら、体育館の裏に呼び出して殴るのがいいと思うが、そんなことができるはずもなく。我々は打ち壊し運動が可能だった時代よりも遙かに、劣っている。いや「運動」不足なのである。

『賭ケグルイ』第一巻と清水高志氏の『空海論/仏教論』が一緒に届いてたので、あとで勉強しなければならない。『賭ケグルイ』もそうだが、学園の中で自治会みたいなのが圧政ゴッコ、革命ゴッコをするのが流行っているのであろうか?空海のように出奔する勇気のない奴だけが、こういうゴッコを昔からやってきていて、『サヨク』なんか左翼よりも、学園のなかの自意識であった。

プロレタリア文学弾圧後の文壇の話を授業でしてて、なるほどみたいな事柄がいくつか見出されたときに「なるほど」という声が聞こえたのだが私の声だった。学園のなかで、発見をしているのは、学生ではなく教員の方である。教員だけが、ゴッコをやっていないからである。しかし、大概は、ゴッコの代わりの遊戯なので、昨日は、近代の超克の亀井論文と横溝正史、koto氏のエモ本などの話をして、ほんととりとめのない感じの講義を一方的に展開した。わたくしも調子悪いときには、某小説家とおなじく、気分が「divertimento」なのであろう。中山義秀をあまり読んでなかったことだけが収穫であった。

小室直樹氏は、死ぬ間際に、宮台氏に「社会が悪くなると人が輝く」んだと言ったという。戦中から戦後の経験からもそう言えたんだろうが、確かに、戦中の文学や文化は独特な個的な輝きがあって、冬の時代なわりに豊かであり後の時代を用意している。しかし、実際、人・個の輝きというのは、あとからみて優れた人だけじゃなくて、いろんな人の暴走みたいなものがあったことと裏腹なんだと思う。非常に欲望の生々しい時代でそれは言論統制みたいなリンチが存在することと矛盾しない。