そんなに餅が好きになったのかウルトラマン
今日はクリス・スワントン監督の『変身』(2012)を観た。なんと虫となったザムザが結構微妙なCGで、しかもディズニーのしゃべる昆虫たちのそれのような眼をしている。この不自然さが普通の(どの映画をさすべきかは分からんが……)「変身」の映画にはない、ザムザへの感情移入を微妙に発生させるのである。この小説は確かに漫画じみているところがある。この滑稽さは、虫であることを演技そのものでやってしまったワレーリイ・フォーキンの傑作では出ない。フォーキンの虫はなんだか人以上の迫力を持っていて、死ぬ感じがしないのだ。これが、今日みたCGはなにかペラッと死ぬ気がする。ゴキブリのように。実際に虫が死ぬ場面が非常によい。昆虫の中身が空洞な感じがよくでている。あと、グレーテ・ザムザ(妹)役のローラ・リースという役者が、非常に合っていた。
池上遼一の『罪の意識』という作品集も読んだが、なかなかよかったな。これは『ガロ』時代の作品を集めたものだった。わたくしは、まだ辛うじて、この人達の書こうとした田舎の暗さやコンプレックスを突き抜けてしまった惨めさを想像出来るような気がするが、気のせいかも知れない。本当は、こういう想像の手触りみたいな微妙な問題が、「変身」なんかにも存在しているはずなのである。
日の脚のわづかに見えて、霧ところどころにはれゆく。あなたの岸に家の子、衛府の住など、かいつれてみおこせたり。中に立てる人も、旅立ちて狩衣なり。岸のいとたかきところに舟をよせて、わりなうただあげにになひあぐ。轅を板敷にひきかけて立てたり。
朝霧のなかにあらわれる兼家。なんかかっこよすぎるみたいだが、こんな場面でさえ、その時でないと分からないちょっとしたところがあるに違いない。
『遊星からの物体X』オリジナル予告編
『遊星からの物体X』はすばらしい映画であった。原作は一九三十年代、初の映画化は五十一年だが、この映画を子どもの頃見てショックを受けたジョン・カーペンター監督の八十二年リメイク版がすごくて、仰天するシーンが連続する。ちぎれた人間の頭部から蜘蛛のような足が生えて歩くシーンはすばらしい。この頭部蜘蛛エイリアンがちょっぴり怯えて人目を避けてこそこそと歩いて行くシーンがユーモラスであり、ホラーというものが案外ユーモアと近接していることをわたくしに教えてくれたのである。そこにあるのはシュルレアリスムだと思う。考えてみると、なんとかの金曜日みたいな映画でも、だいたい若いカップルのベットシーンとかがある。ああ、これはユーモアではなかった。いや、ユーモアかもしれない。
『遊星からの物体Xファーストコンタクト』は、カーペンター版の前日譚である。これはひたすら怪物の恐ろしさで押してゆく感じの映画であった。(以下ネタバレ)だいたいカーペンター版のシーンをもじったような感じで進んでゆくのだが、その頭部蜘蛛エイリアンは、腕に触手がたくさん生えたかたちに変わっていて、それが人の口に貼り付くという、明らかに映画「エイリアン」の影響を受けたシーンになっていた。恐ろしい場面なのだが、ちょっと怖いというよりも不快な感じがした。あと、ラスボスエイリアンみたいなのを手榴弾で吹っ飛ばす場面がカーペンター版にもあるが、こっちにもある。しかし、それは、宇宙船の中での場面なのである。ここら辺の趣向は「Xファイル」みたいなテイストである。
巨大UFOを出しちゃおしまいよ……とわたくしは思った。つい、ウルトラマンなんかに出てくる「地球人を皆殺しにしてやる」とか甲高い声で会話している人型宇宙人の場面まで想像してしまったではないか。女性や黒人の扱いが重要な映画でもあって、いまどきの気の使いようであった。――要するに、観客をシュルレアリスムで感覚変革を図ろうとするよりも、観客に気を使っている映画といった方がよいと思った。
思い出さなければならないのは、カーペンター版が当時、罵詈雑言を浴びたということである。批判を恐れるようになったのも問題なのだ。
『遊星からの物体X』はすばらしい映画であった。原作は一九三十年代、初の映画化は五十一年だが、この映画を子どもの頃見てショックを受けたジョン・カーペンター監督の八十二年リメイク版がすごくて、仰天するシーンが連続する。ちぎれた人間の頭部から蜘蛛のような足が生えて歩くシーンはすばらしい。この頭部蜘蛛エイリアンがちょっぴり怯えて人目を避けてこそこそと歩いて行くシーンがユーモラスであり、ホラーというものが案外ユーモアと近接していることをわたくしに教えてくれたのである。そこにあるのはシュルレアリスムだと思う。考えてみると、なんとかの金曜日みたいな映画でも、だいたい若いカップルのベットシーンとかがある。ああ、これはユーモアではなかった。いや、ユーモアかもしれない。
『遊星からの物体Xファーストコンタクト』は、カーペンター版の前日譚である。これはひたすら怪物の恐ろしさで押してゆく感じの映画であった。(以下ネタバレ)だいたいカーペンター版のシーンをもじったような感じで進んでゆくのだが、その頭部蜘蛛エイリアンは、腕に触手がたくさん生えたかたちに変わっていて、それが人の口に貼り付くという、明らかに映画「エイリアン」の影響を受けたシーンになっていた。恐ろしい場面なのだが、ちょっと怖いというよりも不快な感じがした。あと、ラスボスエイリアンみたいなのを手榴弾で吹っ飛ばす場面がカーペンター版にもあるが、こっちにもある。しかし、それは、宇宙船の中での場面なのである。ここら辺の趣向は「Xファイル」みたいなテイストである。
巨大UFOを出しちゃおしまいよ……とわたくしは思った。つい、ウルトラマンなんかに出てくる「地球人を皆殺しにしてやる」とか甲高い声で会話している人型宇宙人の場面まで想像してしまったではないか。女性や黒人の扱いが重要な映画でもあって、いまどきの気の使いようであった。――要するに、観客をシュルレアリスムで感覚変革を図ろうとするよりも、観客に気を使っている映画といった方がよいと思った。
思い出さなければならないのは、カーペンター版が当時、罵詈雑言を浴びたということである。批判を恐れるようになったのも問題なのだ。
仁義なき戦い(予告編)
「仁義なき戦い」は何回も見たが、山守組組長の金子信雄がなかなかの演技で好きであった。今日は、その「仁義なき戦い」にも出ていた梅宮辰夫氏が亡くなったが、この人は料理研究家みたいな人であって、すっかり忘れていたが、金子信雄氏もそうであった。
わたくしは食べ物にはあまり興味がないが、料理はオーケストラと似ていて、要素が揃ったときに一気に化ける。そして観客や食べた人の反応が素直である。
映画は非常に面倒な業界で、文学と一緒である。頑張ってよい作品をつくっても、創造した者が無事で済むことはあまりない。それを知らずに才能を発揮してしまう人は若いうちから傷つく。梅宮氏なんかも若い頃から結構上手だったので、いろいろ言われたであろう。
そんな人は料理みたいなものに惹かれるのかもしれない。そういえば、挫折したプロ野球選手なんかがうどん屋になったりするのは、人からの素直な感想に飢えているのではなかろうか。プロ野球の世界も、素人が極めて勝手なご託を並べている世界である。
以前、岡田斗司夫氏が「シンゴジラ」を評して、日本人の役者は下手なので早口で喋らせるほかはないんだと言っていた。たしか他の人も、日本の役者は下手の時はヤクザか不良をやらせるほかはないと言っていた。確かに、我々の文化ではそのような下品なこけおどしはなんとなく容易な気はするのである。が、――例えばヤクザ映画なんかをみても、やはり上手い人と下手な人はいるようである。
「仁義なき戦い」は何回も見たが、山守組組長の金子信雄がなかなかの演技で好きであった。今日は、その「仁義なき戦い」にも出ていた梅宮辰夫氏が亡くなったが、この人は料理研究家みたいな人であって、すっかり忘れていたが、金子信雄氏もそうであった。
わたくしは食べ物にはあまり興味がないが、料理はオーケストラと似ていて、要素が揃ったときに一気に化ける。そして観客や食べた人の反応が素直である。
映画は非常に面倒な業界で、文学と一緒である。頑張ってよい作品をつくっても、創造した者が無事で済むことはあまりない。それを知らずに才能を発揮してしまう人は若いうちから傷つく。梅宮氏なんかも若い頃から結構上手だったので、いろいろ言われたであろう。
そんな人は料理みたいなものに惹かれるのかもしれない。そういえば、挫折したプロ野球選手なんかがうどん屋になったりするのは、人からの素直な感想に飢えているのではなかろうか。プロ野球の世界も、素人が極めて勝手なご託を並べている世界である。
以前、岡田斗司夫氏が「シンゴジラ」を評して、日本人の役者は下手なので早口で喋らせるほかはないんだと言っていた。たしか他の人も、日本の役者は下手の時はヤクザか不良をやらせるほかはないと言っていた。確かに、我々の文化ではそのような下品なこけおどしはなんとなく容易な気はするのである。が、――例えばヤクザ映画なんかをみても、やはり上手い人と下手な人はいるようである。
映画『ラストエンペラー』は1987年の作品で、わたくしは高校生ぐらいだったと思うが、その当時は見ていない。大学の時に確かテレビでみて、こりゃちゃんと勉強しなきゃと思ったことを覚えている。ベルトリッチの作品はそれから大概みたと思う。『革命前夜』はよくわからんかったが、気分は分かる気がした。『1900年』がやっぱりいちばんすごい気がする。
あ、『ラストタンゴ・イン・パリ』も彼の作品じゃないか。忘れてたわ……。
『魅せられて』を見たときには、だから?と思ったが、そう思った人は多かったらしい。
――そう振り返ってみると、この人は、だから?みたいな題材を扱っていることも確かなのだ。しかし、これは重要なことなのである。これを外れると、結局一番すごいのは、ダースベイダーやゾンビだということになりかねない。
坂本龍一が、かつて、コンサートツアーのビデオで、ベルトリッチは非常にともに仕事をやるにはやっかいな相手で、「感情をこめて作曲せよ、もっともっと」といわれた、19世紀の芸術家みたいだったと……言っていた。坂本龍一の音楽がもともとかなり叙情的だとはいっても、『ラストエンペラー』に、「千のナイフ」みたいな感じはそぐわないだろう。やってもある意味面白いかもしれないが、やってはいけないということはあるのである。
われわれの世界が、ニヒリズムの笑いから離れ、芸術に回帰するためには、そういう「やってはいけないこと」を思い出すと言うことはあるかもしれない。
いけないか。一つ一つ入念にしらべてみたか。いや、いちいちその研究発表を、いま、ここで、せずともよい。いずれ、大論文にちがいない。そうして、やっぱり、言葉でなければいけないか。音ではだめか。アクセントでは、だめか。色彩では、だめか。みんな、だめか。言葉にたよる他、全体認識の確証を示すことができないのか。言葉より他になかったとしたなら、この全体主義哲学は、その認識論に於いて、たいへん苦労をしなければなるまい。
――太宰治「多頭蛇哲学」
猛暑のなか、志垣民郎(志垣氏とは例の『学者先生戦前戦後言質集』を編んだ人である)の『内閣調査室秘録』をぱらぱらめくっていたらふらふらしてきたので、『否定と肯定』を観た。原題は、『DENIAL Holocaust History on Trial』なので、邦題のような相対的なものではない。ホロコーストがあったことを「否定」する論者に対しては、事実の「肯定」という立場にたってはならない――相対的土壌に立ってはならないということが、この映画で主張されている重要なポイントである。だから、邦題はよくなかった。
しかし、現実問題、言論の自由がある社会のなかでは、そういう土壌に立たされることがある。裁判がそうであった。ホロコーストはなかった、とする「歴史学者」を罵倒した学者が、相手から名誉毀損で訴えられるのである。訴えられた学者ははじめ、激怒の余り、訴えた人間と法廷で直接対決しようと試みる。ホロコーストを体験した人間の証言を含めて、事実を強力に「肯定」することで、「否定」論者を打ち負かそうというのだ。
ところが、弁護団は、そういう彼女のやり方を厳しく退ける。弁護団のやったことは、ホロコーストを「否定」する人間が如何に差別主義者で事実を意図的にねじ曲げたか「証明」することであった。被告はユダヤ人で原告が嫌う女性である。故に、不幸なことに、法廷が、異なった立場のプロパガンダの応酬に見えてしまう危険性があった。ひたすら相手の主張を証拠に基づいて厳密に崩す作戦に出たのである。
被告の学者は、はじめそういった作戦に不満を持つが、結果的にそれは吉と出た。しかし、すぐにそうなったのではない。最後に裁判長からの質問が彼等を危機に陥れる。「彼が差別主義者だとして、自らの主張を本気で信じているとしたら、事実を曲解するという「嘘」はついていないことになるのではないか」、というのである。
この発言から、最後の判決にいたるまでの過程は映画ではほとんど描かれなかった。これは意図的である。つまり、差別主義者の主観の純情さより、事実を曲解する方を無条件で悪とみなすという結論が前提なのである。――というか、前提にすべきことを主張しているのである。
日本の映画だったら、ここで裁判官の苦悩やネットや電話による脅迫による場面が挿入され、裁判官が迷う場面があるかもしれない。そんな弱さの存在を認めないのがこの映画である。Herde になったらおしまいなのだ。
印象的だったのは、ホロコーストの存在を否定している人物が、弁護士さえつけずに一人で法廷にでてきたのに対し、被告側は被告自身には語らせず、大人数のチームを組んでたたかったことである。日本では、一人でやってやるという人と、翼賛的協動しかできない烏合の衆(政治家含む)が結託して、被告側が本当の孤独を味あわされているという情況である。
岩に囁く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
――太宰治「ロマネスク」
今やっている大河ドラマ『いだてん』はオリンピックの話で、とりあえず、昨今のオリンピック騒ぎは、that's dumb としかいいようがないので、それだけで見る気が全く起こらず、国策ドラマ勝手にやってろよ、みたいな気分であった。
といっても、半公務員的の性で、はじめの数回は見てみたのだが、有名な演技者が沢山で過ぎてて目移りするし、金栗四三がどうなったかは分かっていたし、彼が東京師範に入っていかにも東京師範的な文化になじんで行くのをみて、母校のあれを見せつけられた気がして、いやな気分になり、――しかも嘉納治五郎は役所広司がやってるのになにか馬鹿っぽい感じで、――どう考えても宮藤官九郎の意図的なあれなのであるが、実にいやなかんじであった。
というわけで、一ヶ月ほど、裏番組の「ぽつんと一軒家」にいってしまったことを後悔している。
なぜかというと、二ヶ月ほど撮りためた録画をみてみたら、けっこう面白くなっていたからである。
正直なところ、黒島結菜さんがでてきてわたくしはおもしろくなった――のであるが、彼女が女子選手の出場をかけて教室に立てこもる場面はおもしろかった。もう一言、天皇かプロレタリアートと言ってくれれば共闘できるのに、言ってくれないからいつまでたっても視聴率があがらないんだ。それだけさ。――それはともかく、ビートたけしや何やらが、「オリンピック噺」というかたちで語って行くその手法が、どうも民に面白さが伝わらない原因のひとつであろう。民は、平家物語をチャンバラとして見ることになれており、琵琶法師の語りとしてはもう聞けなくなっている体たらくである。宮藤氏は、それが「噺」であることにぎりぎりの批評性をかけようとしている。太宰の「新釈諸国噺」みたいなものであろう。それでなければ、オリンピックみたいな悲惨な出来事をまじめにドラマに出来るかという……
もう既に言われていることであろうが、人見絹枝のエピソードはなかなかの出来であった。わたくしは、人見絹枝が文学少女なので、遠征中とか死の床で作った作品をからめてやるのかとくだらない空想をしていたが、最後、彼女はひたすら走って死んでいったように描かれていた。確かにそうした方が良かった。このあと、5・15で犬養毅が殺されたり、新聞が堕落していったりというエピソードがあり、それが文学的に粉飾されるのを防いでいたように思われないではない。
次男の蟹は小説家になった。勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。
――芥川龍之介「猿蟹合戦」
三男の蟹は蟹より他のものになれなかった。そして、日本の大衆のたいていは蟹であると芥川龍之介は言う。しかし考えてみると、次男(小説家)も蟹には変わりがないのであった。しかし、人見絹枝は蟹ではなく「韋駄天」であり、悪い鬼を走ってつかまえるのである。蟹よりも小説家よりも、韋駄天を上位に置くのが今作の宮藤官九郎であった。
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
――太宰治「走れメロス」
のみならず、宮藤官九郎は、男を見限っているのであろう。韋駄天は女性にしかいない。前畑ガンバレ。
能年さんいつでるの?
「主戦場」という映画がやっているのでこりゃ観ないわけにはいくまいというわけで観に行った。「従軍慰安婦」問題を扱った問題作である。
これはアメリカの若いユーチューバーが作ったドキュメンタリーである。情緒に流れず、ドライにぱんぱんと取材対象をモンタージュして行く様は、「客観的」というより、大学の課題レポートをスタイリッシュにやり遂げたみたいな感じであるが、これがなかなか面白い。若い監督を相手にして気が抜けたのか、特に「ナショナリスト」(映画でそう言ってた気がするからそう言っておくが……)=「慰安婦像」反対派の「歴史修正主義者?」たちが、ものすごく気さくに喋っているのが、まるで、いってみりゃ「マッドマックス」や「北斗の拳」みたいな感じである。日本の右派といってもかなりいろいろな人がいるので、わたくしは、言論の「主戦場」みたいな作りはあまり好きではないのだが、――たしかに、ネット上の罵りあいなんかをみていると、確かにこれは「戦場」になってしまっているという感じがするのだ。ただ、リアルな世界ではまだ市民的な常識に隠れているところがある(そうでもないかな?)このひとたちが、実に楽しそうに喋っている。
ある意味で、日本のある種の右派の行為とは、別にナショナリストとして青筋立てて日本の不遇を歎いているのではなく、――「癒やし」なのだ。非常に重要な点をこの監督は突き止めたのではないかと思う。
最後に、ある種ドキュメンタリーの構成上意図的にでてきたラスボスのKさんなど、日本が戦争に勝った、韓国はかわいい、とかなんとか言っていたが、わたくしはこの人は別に狂っている訳でも、おかしいことを言っているのでもないと思うのだ。だってさ、「日露戦争大勝利」、「アッツ島玉砕」、「一億総懺悔」や「神武景気」、などなど、日本は明治維新以来、すばらしい進撃をし続けているからであり、宇宙戦艦ヤマトも地球を救ったし、イチローは世界で活躍。日本食も大流行だ……し。クールジャパンだし――。えーと、もっとなんかあるだろう……。かわいさとか……。
というわけで、我が国で、特にそういう集団に属していれば、敗戦や戦争犯罪などなかった如く考えるのはある種簡単なわけである。だから、かかる言説がバトルに耐えられるわけはない。むろん主張することそのものはあり得るが、主張を続けていくためには論証と理論が必要だ。それは限りない勉強が必要で、ナショナリストを名乗ることが出来るのはこの後である。癒やされている人にナショナリズムはない。考えてみると、自分で自ら癒やされようとする右派はまだ寄り添って貰いたがる左派よりも潔いところがあるようだ。
いずれにせよそんなことは完全にどうでもいい。
何故なら、監督が出した結論は――、「The Main Battleground」は、韓国と日本の対立にはなく、アメリカとの関係に於いてある、であるからだ。日韓の条約や約束はいつもアメリカの都合で生じたり生じなかったりしているからだそうだ。監督がこの大げさなタイトルを掲げていたのは、この結論をだすためだ。こんな自明のことまで、アメリカ人の若者に教えてもらわなくてはならないのは屈辱的である。
映画「新聞記者」を観てきた。
なかなか画面に緊張感があって良かったように思うが、考えてみると、この映画、――新聞記者としてちゃんと仕事しろ、つまり勇気を持って仕事しろ、官僚もおなじくちゃんとしろ、どっち向いて仕事やってるんだ、という小学生への説教みたいなことを言っている訳で、このようなテーマの映画が危険視されるようでは、我が国はまさに再度一二歳以下程度であると言われる羽目になるであろう。
ちゃんと仕事しろ、と言ったが、むろんこれはミスリーディングで、本当は仕事をさぼってもいいわけであるが、我々はサボることは許されておらず、嘘をつきながらの仕事に徴用されているわけである。
ドラマとしては、中途半端で、普通はこのあとの「結」が物語の山として弁証法的にやってくるのであるが、これはこの映画が、所謂「モリカケ」問題を題材にする限りこうなることはわかりきっている。完全な推測であるが、この問題は真相が仮に明らかになっても、恐ろしく人間的、思想的な深淵とは関係ない薄っぺらいものだろうと思うのである。我々は、うすうすこのくだらなさに気がついているからこそ、大騒ぎをして見せたのである。見逃して良いほどくだらないのではなく、人間の問題としては低レベルの事件という意味である。そこには、真の対立というものがない。映画では結構な真相(軍事的な悪事)が用意されていたが、現実はもっとくだらないはずであり、そのくだらなさを見出してからが「問題」の始まりである。
映画では、アメリカで教育を受けた女性記者が、父親が誤報事件で死んだという過去を背負って事件に挑む様を描いていた。対して内調につとめる男性がいる。彼は外務省時代に責任を被った上司の様子を知っていて――その上司が、今回の事件でも責任を負わされて自殺する。それでついに自分の仕事を裏切って情報をリークするのである。私見では、主人公たちに、こういう一見「分かりやすい」動機と背景を持たせることには反対である。むしろ、よかったと思うのは、――女性記者を韓国の女優がやり、不自然な日本語でよたよたと歩く彼女の様が迫力を与えていたことだ。今の我々の国では、勇気を持つことがある種の異物として表現されるしかないのである。それが単なる異物を越えた真実性を帯びるためには日本人ではだめだ。ネット上の噂では、最初、宮崎とか満島といった有名女優にオファーがいったらしい。が、わたくしは、かえって韓国の女優で良かったと思う。この迫力は、日本の女優では出なかったのではないか。
「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに
須磨の感慨であるが、源氏ほどの頭脳とセンスの人間が、こんな感じなのだ。源氏はそれで絵を描いたり冗談を言い合ったりするのである。むかしから、我々は追い詰められて思考が研ぎ澄まされることがないような習慣を打ち破れない。
最近は、ハリウッドでもマーベルコミックスなどが盛んに映画化されていて、たぶんそれでないと回収できないと思われているためであろうか。バットマン、アイアンマンとかなんとかが、結構難しい内容を扱っているようでもある。
「パンズラビリンス」でファシズムを衝撃的に描いていたギレルモ・デル・トロが、「パシフィック・リム」を撮って「ロケットパンチ」(←吹き替え)とかやっているときには、ありゃと思ったが、やっぱり本気で撮っているとしか思えないのでわたくしは反省した。
そういえば、ティム・バートンが「マーズ・アタック」でアイロニーを飛ばしているうちは面白い感じがしたが、「猿の惑星」を撮ったときにはちょっとびっくりしたのを覚えている。蓮實重彦もどこかで言っていたが、それは非常に心理描写的なところに力点があって、まるで純文学じみているのであった。わたくしは、あとのリメイク三部作よりも、これの方が好きだ。なぜかというに、リメイク三部作は、せっかく素材が「猿」という非人間的なすばらしいものなのに、親子の絆みたいなテーマを扱っているからである。なぜ、猿という事柄に集中しないのだ。
そういう意味でいうと、今日観た「ゴジラキングオプモンスターズ」は、「ゴジラ対ヘドラ」のテーマを「三大怪獣 地球最大の決戦」の物語に当てはめたような物語であるということを除外すると、最初から最後まで怪獣がプロレスをやっているだけの映画だったのでよかったが、人間たちはなぜか家出した子や親父、ノイローゼになった母親を助けるみたいなドラマを展開していた。監督がやりたいのは、ひたすら日本のゴジラシリーズの模倣、いや「ごっこ遊び」なので、たぶん適当に「家族の絆だしとけ」みたいな感じなのであろう。
しかしまあ、「ごっこ遊び」というのは、やはり子どもの所業である。子どもは親の庇護下で遊ぶので、親からの絆光線を受け止めつつ遊ばなければならない。で、その影響は遊びの中にも侵入する。わたくしなんかは、いい子ちゃんであったから、ロボットや怪獣で遊びつつ、おままごとみたいな遊びに対する誘惑を感じていた。なにかそれは親じめてみる、親の期待に応えるという欲望とつながっていた気がする。2014年のゴジラ映画でもそうだったが、なんと怪獣のなかでの夫婦愛が描かれている。今回も、ゴジラとモスラがカップルである可能性を論じる変態的場面があったが、すごいことである。ごっこ遊びをしながらもう大人の営みのことを考えてしまっている。いや、監督はもう大人であった。
しかし、これは本質的に一連のハリウッド映画での家族の絆とはほとんど夫婦愛の回復を意味していて、子どもと仲良くすることでは必ずしもない、ということを意味しているのかもしれない。にもかかわらず、子どもとの紐帯を確保しようとすれば、――案外、「子ども向けみたいな素材の映画」は、はじめから作り手に心理的な安定感をもたらしているのかもしれないし、むろんそれは観客に於いてもいえることだ。
一方、日本のゴジラときたら、なんと相手もいないのに「ゴジラの息子」がいるというていたらく。あの形状からすると、ゴジラはたぶん人間の女子と結婚している。そうでなければ、かかるおじさん顔の怪獣は生まれない。その関係は、親父が息子を鍛える式のものであった。(ような気がする)ここに母親がいなかったのはなんとなく象徴的である。我々はまだ、子どもの世界を夫婦の問題として扱う勇気がないのであった。しかし、夫婦の問題と無関係な子どもの世界が純粋に存在するわけがないではないか。
だがしかし、わたくしは、最近のハリウッドの特撮が、晴れ渡った空のもとでの戦闘でなく、暗雲垂れ込めている地獄の様相における戦闘ばかりを描いているのが気になる。あまりにも家庭内と同じく地獄に過ぎるのではあるまいか。それに、怪獣ごっこの常なのだろうが、怪獣に接近する演出が多すぎる。よくわからんが、ほとんど遠近法が崩壊しているみたいな錯覚に陥る(上の「猿の惑星」もそう思った)。これでは何をやっているのかわからない。ほとんど夫婦げんかではないか。
日本の場合は、「シンゴジラ」でさえそうであったが、特撮はパノラマなのである。ゴジラの向こうには富士山があって、どこからかラドンやキングギドラが飛んでくる。これが日本の「風流」の世界である。モスラはお蚕様であり、富と美をもたらす。子どもの観客は、そんな想像的天国で遊ぶ。かくして、日本のオタクたちが非常に「風景」好きであることは自明の理となり、そこに人間の存在を入れたがらない。
怪獣遊びは誰のものか。今日は、そんなことを思った次第であった。
追記)結局、今回の映画、映画そのものよりも最初の予告編(ドビッシーの「月の光」をつかっているやつ)が一番出来がいいのでは……。あと、核の問題ではあいかわらずハリウッドは狂ってる。まあ、ゴジラを水爆の比喩からただの怪獣王としてぬいぐるみ化したのはもともと日本であって、そうやって環境問題や戦争犯罪の問題を象徴させてきたのだが、それが問題そのものの困難からの逃避に過ぎなかったことは、アメリカ側からはよく分からないに違いない。