
故あって、真っ昼間から「恋の罪」を観ていたもんだから、毒消しのために読みました。
「恋の罪」の方は、「堕落論」の「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。墜ち抜くためには弱すぎる」というせりふを想起させる。どうも、安吾の「墜ちる」というコンセプトにはやや虚構じみた要素が感じられるはするのであるが、それは「恋の罪」でも同じである。主人公たちは、墜ちて自分を発見できる訳ではない。墜ちたらもっと墜ちている他人が見えただけである。本当は、真の虚無は他人に目を移す前の、その先に広がっているのであり、小説や映画のようにそれを感じさせることなくストーリーを進ませることが、決してできないのが、我々の日常生活なのである。それを眺める高野文子の視点は幽霊のごときものである。あの世からという手もあったか…。